小山 稔物語
昭和40年岡山東商 選抜優勝。
先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では
「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」
と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。この試合で
2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。その2年生、いや新3年生
の、強打者がずらりと、小山の前に立った。シートバッティングと言えども真剣勝負。
小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。
「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。ファールチップが
やっとだったのである。新3年生が言った。「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より
上じゃ。」
小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。新1年生で早くもベンチ入りを
果たしたのである。41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。
工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は
やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる
小山だった。左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。
こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。
当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。その秋の中国大会では、優勝候補と
言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。決勝では、尾道商 (広島)
に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。ところが、9回ランナーをおいて
倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。しかし、県大会準優勝、中国大会も
準優勝。2試合連続完封。「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。
つづく 随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参 考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社「灼熱の記憶」
協 力
小山 稔 氏
木村 義夫氏
仏壇 墓石 霊園 中原三法堂