倉工文化祭 おいまつ会OB展開催

倉工パワーが爆発しました。
68回倉工文化祭が、111819日に盛大に開催されました。一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。
同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開もありました。こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。
小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。
さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。
こうした中、昭和4243年と4季連続甲子園出場した時の選手で、角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。
角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

故 小沢 馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 (甲子園の土) の始まりと言われている。
卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。
移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト43が最高成績。 【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。
甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

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