白球100年 岡山の野球 4 「廃墟の中で 2 最終回」

〚道具類の不足〛

なかなか揃わなかったのが道具類。球児たちは焼け残りだけでは当然足りず、先輩から寄付を受けたり、ヤミ市で手に入れたり、進駐軍からお下がりを調達したのだった。

岡山一中(現 朝日高校)の選手だった河田は「ボールはとても貴重品で、何回縫い直したかわからない」と言う。

〚試合再開へ向けて〛

試合再開へ向け、最初ののろしを上げたのは野球部OBたちだった。関西中、岡山一商(現 岡山東商)、玉島商などの出身者が中心になって、岡山進駐軍とオール岡山との親善試合を計画した。しかし、この試合は都合で中止になってしまう。

その代わりに、3チームで10月23日、岡山一商球場でリーグ戦を実施する。(山陽新聞の前身、合同新聞主催)これが戦後最初の野球試合と言われている。

〚大観衆〛

〚野球ができる喜び〛

合同新聞によると「観衆は3,000人。久々の美技快打に熱狂し」とある。リーグ戦は岡山一商OBが優勝したが、選手そして観衆は、勝敗よりも野球ができる喜びに酔いしれたのだった。

玉島商OBの主将、大野仁之助は「みんな重いものから解放された感じで、本当に生き生きしていたねえ」と話す。

中等学校の方も、12月9日に岡山一中、岡山二中(現 操山高校)、岡山一商、市商(現 岡山東商)がトーナメントを実施した。

岡山野球界は復活へ向けて、確かな歩みを刻み始めていくことになる。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 3 「廃墟の中で 1 」

昭和20年8月15日、終戦。

戦争は数多くの人命と財産を奪い、野球界でも不出世の大投手・沢村栄治らの名選手が散っていった。しかし、終戦は今日の野球繁栄のスタートでもあった。

沢村栄治投手(読売ジャイアンツ)1944年没

〚野球ができる喜び〛

「戦争には負けた。しかし、これから平和な時代が来る。生徒たちと一緒に野球ができる」

敵機来襲におびえる心配のない空を見上げ、つぶやいた1人の教師がいた。玉島商野球部部長、福井哲二である。戦争中、適性運動の部長で、しかも英語の教師という立場で、言うに言われぬ苦労を味わった。福井の胸に、昭和11年全国中等学校野球大会県予選で玉島商が初優勝したときの興奮がよみがえった。

〚倉庫にボールやバットが〛

福井は、野球部を解散した昭和18年に学校の倉庫へこっそり隠していたボール、バット、グラブなどを取り出した。終戦の日からわずか2、3日後のことだった。

「まさか、たった2年で再び野球がやれるようになるとは、嬉しかった」

福井は感慨深げに、その時のことを思い起こす。呼びかけにより、元の部員たちも徐々に戻ってきた。

〚復活に燃える球児〛

〚名門チームも練習再開〛

関西中、岡山一中(現・朝日高校)など戦前の名門チームも、終戦後の立ち上がりは早く、この秋からすでに練習を再開している。

岡山は6月29日に空襲を受け、旧市内の大部分が焼失。まさに焦土からの復活だった。岡山一中は焼け跡の空き地で、関西中はイモ畑になっていたグラウンドを整備してからの出発だった。

現在の岡山市北区内山下付近にあった岡山市公会堂(現:岡山県庁)から公会堂筋(県庁通り)を西望。 焼け残った建物は画面左から天満屋、中国銀行、日赤病院。画面右手前は岡山市立岡山女子商業学校(現:岡山県立図書館)の跡。

こうして、終戦後最初の野球大会が開催されることになっていく。

つづく(随時掲載)

参考文献
『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 2 「関西中球場」

岡山市西崎本町の関西高校。西、北側にコンクリート製のスタンドを備えたグラウンドは、昭和初期から終戦直後まで、プロ野球など数多くの好勝負を生んだ。「岡山野球のメッカ」である。
周囲を緑に囲まれたグラウンドを駆け回るのは、今では関西高校の生徒のみだが、その中に立つと、かつての興奮がよみがえってくる。

【昭和3年に着手】

「今上陛下御大典記念事業」として、関西高校の前身である関西中がグラウンド建設に着手したのは、昭和3年のこと。「私学教育の独自性」を唱えた12代校長、佐藤富三郎が下した大英断だった。

【石ころだらけの球場】【甲子園をモデルに】

当時の岡山市内で野球大会ができたのは第六高等学校(現・岡山朝日高校)ぐらい。上伊福、奥市球場が練習試合に使われていたが、石ころだらけで、球場と呼べるものではなかった。六高でさえ、観衆の試合見物にとっては、はなはだ不満足なものだった。
そんな中、大正13年に完成した甲子園球場をモデルに、なだらかな扇状台地という地形を利用し、スタンド付き球場を造ろうというのだから、まさに画期的な試みといえた。

【県下一の大球場の誕生】

(昭和)5年9月。グラウンド西側に立つ拡張記念碑に、完成月が刻まれている。総工費は5万9,000円。総面積は現在の県営球場の約3分の2だが、当時としては、県下一の大球場の誕生だった。

【グラウンド開き】

昭和5年11月10日、グラウンド開きとして「明治大―同志社大」の記念試合を行った。出来立ての関西中グラウンドを埋めた3,000人の大観衆も、初めて見るスター選手のプレーに熱狂した。
昭和24年に倉敷市営球場、26年に岡山県営球場が完成するまで、大試合の舞台といえば、関西中球場だった。

随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考   毎日新聞、山陽新聞
協力   岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 1 「ラジオ中継」

大正から昭和へ、電波とともに広がった野球熱
大正から昭和へ、時代は変わった。

明治28年、関西中で産声を上げた岡山県下の野球も30年を経過した。中等野球、軟式野球が活況を呈する中、競技人口とファン層は拡大。そこに、ラジオ中継という強力な援護が加わる。

〔甲子園から、第一声〕
〔甲子園から、電波が飛ぶ〕

最初の電波は、昭和2年8月13日、甲子園から飛んだ。日本放送協会大阪局が、第13回全国中等学校野球大会の中継放送を行ったのが始まりである。

実況アナウンス第1号は、魚谷忠。大阪市岡中の三塁手として全国大会出場を買われ、入局1年余りでの大抜擢だった。

開幕カードは、札幌一中 対 青森師範。この試合は、日本放送史に残る一戦となった。

〔バッター打ちました〕

当時、野球中継は至難の業とされていた。それに挑むスタッフの意気込みは相当なもので、局長自ら球場で陣頭指揮に当たったという。

「バッター打ちました。打ちました。いい当たりの三塁ゴロ。三塁手前進して掬い取り、いい球を投げアウト。」

手本のない中継放送であったが、回を追うごとに口も滑らかになったと伝えられている。

魚谷は、成功の秘密をこう明かしている。
「本番直前に、兵庫大会をスタンドで観戦しました。周りの観客に構わず、アナウンスの練習をしたんです。変人扱いされながらね。」

〔最初は、関西中対広陵戦〕

岡山放送局の電波に、岡山勢が最初に乗ったのは、昭和6年8月の中等野球山陽大会である。関西中 対 広陵戦を、岡山放送局が放送し、山陽新報に予告記事が掲載された。

準々決勝は、関西中が猛打の広陵の前に6回コールド。11対0の大敗であった。関西中のプレーに歯ぎしりしながら聞き入るファンの姿が、今も思い起こされる。

*随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会