風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 15

「 剛球左腕  大野 仁之助 」 と 「 心優しき豪傑  三宅 宅三 」大野 仁之助 ( 玉島商 - 法政大 ) 。 三宅 宅三 ( 玉島商 - 明治大 )

人の心を揺さぶる 野球 。戦火をくぐり生き抜いた、港町玉島の、誇り高き野球団、

玉島モタエ倶楽部。港町玉島の、剛腕と盟友である豪傑の、伝説の国体。そして、豪傑

が、甲子園で旋風を吹かす。 玉島モタエ倶楽部は、昭和21年第1回京都国体の、

軟式野球一般の部に出場。 エース大野 の好投と、 三宅 を中心とした打線が、うまく

かみ合い決勝へ進出。また 三宅 は、包丸投げにも出場し決勝に進出。ところが、

軟式野球の決勝が、午後1時から。また、砲丸投げの決勝も、午後1時からとなってしまった。

そこで、両者は「 時間をずらしてほしい。 」と、審判に申し出たが、聞き入れては

もらえなかった。そこで、 三宅 は、野球のユニホームで陸上競技場に向かった。

『 3回だけでいいんで、3回投げさせて下さい。 』とお願い。3回投げ終わった 三宅 は、

大急ぎで、隣の西京極球場へ走ったのだった。この時の記録は、14.21メートルで、国体

第3位。『 野球のユニホームで陸上をしたのは、私だけでしょうね。 』と 三宅。

一方、玉島モタエ倶楽部は、 三宅 が戻るまで時間稼ぎをしていた。 大野 は、次のように

話す。『 試合前のシートノックをだらだら30分ぐらいして、時間稼ぎをしていました。そんな事を

してはいけないと言う事ぐらいは、分かっていましたがね。しかたなくて。 』 三宅 は、砲丸から

バットに持ち替える。結局、玉島モタエ倶楽部は、岐阜県庁に敗れたが、堂々の準優勝。

玉島モタエ倶楽部 に対する賞賛の拍手は、鳴り止まなかったという。戦火に散った亡き友の

思いを胸に、最後まで投げ抜いた 大野。玉島モタエ倶楽部、千年の古都に足跡を残す。

その後、 大野 は、母校玉島商野球部監督に就任する。一方、 三宅 は、国体後

倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。その 三宅 に運命の時が来る。

新興 倉敷工野球部監督に就任。盟友同志、ライバルとして甲子園を目指す事になる。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」