「 剛球左腕 大野 仁之助 」 と 「 心優しき豪傑 三宅 宅三 」大野 仁之助 ( 玉島商 - 法政大 ) 。 三宅 宅三 ( 玉島商 - 明治大 )
人の心を揺さぶる 野球 。戦火をくぐり生き抜いた、港町玉島の、誇り高き野球団、
玉島モタエ倶楽部。港町玉島の、剛腕と盟友である豪傑の、伝説の国体。そして、豪傑
が、甲子園で旋風を吹かす。 玉島モタエ倶楽部は、昭和21年第1回京都国体の、
軟式野球一般の部に出場。 エース大野 の好投と、 三宅 を中心とした打線が、うまく
かみ合い決勝へ進出。また 三宅 は、包丸投げにも出場し決勝に進出。ところが、
軟式野球の決勝が、午後1時から。また、砲丸投げの決勝も、午後1時からとなってしまった。
そこで、両者は「 時間をずらしてほしい。 」と、審判に申し出たが、聞き入れては
もらえなかった。そこで、 三宅 は、野球のユニホームで陸上競技場に向かった。
『 3回だけでいいんで、3回投げさせて下さい。 』とお願い。3回投げ終わった 三宅 は、
大急ぎで、隣の西京極球場へ走ったのだった。この時の記録は、14.21メートルで、国体
第3位。『 野球のユニホームで陸上をしたのは、私だけでしょうね。 』と 三宅。
一方、玉島モタエ倶楽部は、 三宅 が戻るまで時間稼ぎをしていた。 大野 は、次のように
話す。『 試合前のシートノックをだらだら30分ぐらいして、時間稼ぎをしていました。そんな事を
してはいけないと言う事ぐらいは、分かっていましたがね。しかたなくて。 』 三宅 は、砲丸から
バットに持ち替える。結局、玉島モタエ倶楽部は、岐阜県庁に敗れたが、堂々の準優勝。
玉島モタエ倶楽部 に対する賞賛の拍手は、鳴り止まなかったという。戦火に散った亡き友の
思いを胸に、最後まで投げ抜いた 大野。玉島モタエ倶楽部、千年の古都に足跡を残す。
その後、 大野 は、母校玉島商野球部監督に就任する。一方、 三宅 は、国体後
倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。その 三宅 に運命の時が来る。
新興 倉敷工野球部監督に就任。盟友同志、ライバルとして甲子園を目指す事になる。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」