昭和36年のドラマ3

1年生で、34年の夏の甲子園、国体と大舞台を経験して来たエース森脇。
今、3年生になって最後の夏に掛ける思いは、相当強かったはず。
また、全選手から、その信頼と期待は絶大であったであろう。
外野手三宅は、「森脇の球は速いというものではなかった。ものすごいスピードボールを投げていた。
あの森脇の球は、打てるわけがない。打てるもんか。」と、力を込める。それだけ森脇は左腕で素晴らしい投手であったのである。
ところが、事もあろうに県予選の直前に「右鎖骨骨折」というアクシデントに見舞われたのである。
全国屈指の好投手と言われたエースの突然の負傷。
しかも、県予選までに完治の可能性はない。
日数が足りないのである。
「これで、甲子園もおしまいか。」1年生から3年生まで、全選手に重苦しい空気が伝わった。
その時である。主将の松本が、全選手を集合させた。
そして、涙を流しながら、訴えたのだ。
「みんな、頼む。もしこの夏、森脇が投げられなかったら、ワシは生涯森脇に頭が上がらないんだ。みんな頼む。甲子園、甲子園へ。」と涙で。
すると、選手の顔が上がり始めた。
そして、全員が前を向いた。
「そうだ。森脇を甲子園に連れて行ってやろう。森脇を甲子園に連れて行くんだ。そして、森脇と共に戦うんだ。」全選手の心は一つに団結したのである。
三宅は、こう言う「松本の一声で、一致団結力が生まれた」と。
真に「意気と力の 溢るるところ」である。
こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こうと全員考えた。
2年生の永山は、控え投手ではあったが、三塁手。永山は、コントロールが良かったので、小沢は打撃投手をよくさせていた。
「永山、お前が投げろ。ただし、森脇の代わりで投げるのではなく、永山一個人として投げろ」と指示。
その永山は「県予選までは何日間かあったけど、投手としての経験としては浅かった。
しかし、小沢監督の指導もユニークで、速い球は投げるな。遅い球で勝負しろ。変化球は、こうして投げろ。
と色々アドバイスを受けた何日間でした。」「スライダーの握り方を教えたが、器用だったんで、すぐ覚えた」と小沢。
こうして、急造投手、永山が誕生したのである。小沢は、投球術と、配球術を教えた。
ところが、永山は一日一日、急成長し始めたのだ。
「もしかしたら」小沢の期待も膨らんだ。
こうして、2年生捕手槌田との若きバッテリーで、困難に立ち向かう事になったのである。
そして、松本の思いも板野の思いも、岡田、国方、中村、土倉、白川も全員が、「森脇を甲子園に連れて行くんだ」と言う強い思いを胸に、昭和36年の倉工の夏が始まろうとしていた。
新聞には、「痛いエース欠場。破壊力秘める大型打線」と出ていた。

つづく    随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂くことを、ご了承下さい。

参考   瀬戸内海放送   番組 「夢 フィールド」

山陽新聞      灼熱の記憶

協力   岡山県立倉敷工業高等学校学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ2

「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。
「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。
小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。
と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。
「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。
外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。
小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。
しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。

つづく   随時掲載

 

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承ください

参 考   瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

山陽新聞社      「灼熱の記憶」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会