捲土重来 平成8年の夏 26

昭和36年夏の倉敷工。岡山県あるいは中国地区からも高い評価を受けて、「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは。」と、言われた年だった。
しかし、県予選直前、バント練習中に、エースが大怪我(右鎖骨骨折)という、アクシデントに見舞われた。全国屈指のエースの突然の負傷。「これで甲子園もおしまいか」全選手に、重苦しい空気が、伝わった。「こうなったら、打線の力でエースを甲子園に連れて行こう。」と、倉工ナインも奮起。炎の闘志と、団結力で予選を勝ち進み、ついに甲子園切符を、掴む。(当HP、昭和36年のドラマを参照して下さい。)その、昭和36年夏を呼び起こす様な一丸の勝利を、見せたのが平成8年の夏。その闘志と団結力は、県予選でとどまる事なく、聖地甲子園においても、その勇姿を見せつけた。
78回全国高校野球選手権大会阪神甲子園球場
平成888日倉敷工90中越
814日倉敷工53東筑
818日倉敷工29鹿児島実業
倉工野球の意気と誇りと苦闘の日々の団結は、しっかりと息づいていた。聖地甲子園で2勝。昭和43年夏、黄金の左腕小山稔投手以来28年ぶりの校歌を歌った。(当HP、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)
この年、選抜甲子園で、優勝した、鹿児島実業に、屈したものの見事捲土重来を果たした倉敷工。古豪の歴史に、また新たな一ページが加わった。北條剛主将が、甲子園前に言った言葉。それは、『これからの僕らを、見ていて下さい。』

つづく
随時掲載

 お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

 

捲土重来 平成8年の夏 25

第78回全国高校野球選手権大会10年ぶり8回目の甲子園出場。
78回目の夏に輝く倉敷工。歓喜の倉敷工。
県高野連発足50周年を期に大会優勝旗が新調された。その優勝旗が倉敷工に渡った。
ところが、その優勝旗に面倒な事が、待ち受けていた。
現在岡山工業高校の教壇に立ち、同校野球部中山隆幸部長は、当時を振り返り次の様に語る。
「今までの古い優勝旗にある歴代優勝校のペナントをその新しい優勝旗に付け替えるのですが古いペナントもありましてね。その古いペナントを触っただけですぐに
ボロボロになるぐらいで。」そこで、中山隆幸部長は県高野連の理事長に相談した。しかし「理事長からは【歴史のあるものだけに大事に扱ってほしい】と言われましてね。」中山隆幸部長は、
苦笑いする。「とにかく、付け替えるだけで、もう大変でした。」
中山隆幸部長は、いつも甲子園を『聖地』と呼ぶ。
こうして、甲子園に向けて練習が開始された。倉工グランドでは「そんなに、もたもたしていたら甲子園で勝てるか。」和泉利典指揮官の激が飛んで行く。こうして、78回目の夏聖地甲子園に
向かった。そして、聖地甲子園で昭和43年夏の黄金の左腕小山稔投手(当HP、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい)以来、2度の校歌を歌う事になる。
つづく随時掲載

お願い本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」