熱闘甲子園 今昔物語 8 伝説の記憶

11回裏報徳、背番号13の平塚を代打に送る。
沢井監督の温情だったがその平塚、三塁への内野安打で出塁する。
一死後フォアーボールで「一死一塁二塁」
ここで、5番清井ライトへヒット。
平塚、思い切ってホームへ。
うまく回り込んで、間一髪セーフ。『6対1』初陣報徳が、初めてホームを踏んだ。
次打者吉村のファーストゴロで2点目。『6対2』まだ4点差ある。
「二死三塁」小沢監督はここでエース森脇をマウンドへ。
永山は、三塁手に就いた。

森脇、1ボール2ストライクと追い込む。
勝負の1球。外角への渾身のストレート。
決まったかに見えたが、主審の判定は、ボール。この1球からフォアボール。
次打者貴田のレフト前ヒットで『6対3』
ここで、再度永山がマウンドへ。
火のついた報徳を誰も止められない。
連打を許し走者が溜まる。
1番内藤センター前ヒットで、2人ホームイン。『6対4。6対5』アウト1つが遠い倉敷工業。瞬く間に1点差となる。


11回裏、報徳学園は、内藤の中前安打で、2者が帰って1点差になる。

場内騒然の中2回目の打席となる代打の平塚。今度は、センター前ヒット。
センター鎌田バックホーム。
二塁ランナー東は、三塁で止まった。
ところが、捕手槌田が、後逸。それを見た東がホームを踏んだ。
『6対6』の同点となる。

12回裏二塁打した藤田を、清井の二塁ゴロで三塁へ進める。『一死三塁』
小沢監督は、二人の打者を敬遠して、満塁策を取る。『一死満塁』
大きく報徳に傾いた流れを誰も止められない。
次の打者貴田がライトへ。土倉、飛び込んで取ろうとするが、ボールがグローブをかすめた。『6対7』

倉敷工業サヨナラ負けとなる。
(逆転の報徳)と言われたフレーズは、こうして生まれた。


まさかの逆転負けに、茫然とする倉敷工ナイン。

温情用兵が報徳には幸運を、倉敷工には不運を呼んだ劇的な試合であった。
しかし、小沢監督は、負けたにもかかわらず「監督冥利に尽きる試合だった。」と話した。
手中の勝利を逃した投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのである。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 7 伝説の記憶

春夏合わせて6回の甲子園出場を誇る倉敷工業と、春夏合わせて初出場の報徳学園の試合は、球史に残る壮絶な戦いになった。
倉敷工業の先発は、二年生の永山。報徳学園は、左腕酒井。

5回裏、倉敷工業小沢監督は、内野手控えの岡田を呼んだ。
「森脇とキャッチボールをしてやってくれ。」
森脇と岡田がキャッチボールを開始する。


倉敷工のエースとして、投球練習をする当時の、森脇投手。

9回表二死から、4番鎌田、3安打目となるレフト前ヒットで出塁。「二死一塁」
鎌田盗塁成功。「二死二塁」
5番松本レフト前ヒット。
セカンドランナー鎌田ホームに突入するも、報徳レフト大野の好返球で鎌田タッチアウト。
得点を与えず、初出場ながら報徳落ち着いたプレーを見せる。

9回裏報徳、倉敷工業永山に対し、散発4安打に抑えられる。
10回裏ヒットとフォアボールで、一塁三塁の報徳。
2安打の内藤が永山の前に投手ゴロで報徳サヨナラの好機を逃す。

11回表倉敷工業が襲いかかった。
一死から中村フォアボールで出塁。「一死一塁」
槌田の当たりは、ショートゴロ。
Wプレーを焦った二塁手がキャッチできずボールがライトに抜け「一死一塁三塁」
ここで、報徳沢井監督は3安打の鎌田を歩かせ、敬遠策を指示。「一死満塁」
これが裏目に出た。

ここまで2安打している、5番松本が、打席に立つ。
松本レフトオーバーフェンス直撃の、二塁打で『2対0』「一死二塁三塁」


11回表、倉敷工一死満塁。松本のレフトオーバー二塁打で中村( 右 )槌田( 左 )が生還。2点先制する。

土倉のショートゴロだったが、バックホームするも、高くそれてフィルタースチョイス。三塁走者鎌田ホームイン。『3対0』「一死一塁三塁」


延長11回表、倉敷工一死二三塁。土倉の遊撃ゴロは野選を誘い三塁走者の鎌田が生還。3点目をあげる。

白川のスクイズで、『4対0』続く高橋のサードゴロをファーストへ、高い悪送球で『5対0』堅実な守備を見せていた報徳が、二本目のエラーを喫し守備の綻びが出る。
永山三遊間を抜くヒットで続く。報徳ベンチ、ここで好投してきた酒井から、本来のエース東に投手交代。
倉敷工業得意のWスチールを決め『6対0』となる。

倉工三塁側、応援アルプススタンドをはじめ、甲子園のいや日本中の誰もが倉敷工業の勝利を確信した。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語 6 伝説の記憶

(当時)一年生で報徳学園戦を、応援に行っていたという生田岩雄さん(昭39年卒C科現おいまつ会副会長)に、その時の応援について、お話をお伺いする事ができました。お話によると、応援席はもとより、甲子園球場は超満員だったそうです。そして、両校ともに物凄い応援合戦だったとの事。そこで、生田さんに、どのような応援合戦だったのか尋ねてみました。

「歓声一丁」と男子リーダーが大声を上げる。すると、応援席から「おうー」と歓声が上がる。その歓声は「地鳴りの様な歓声が響き渡った様な感じでした。」と生田さん。続いて、太鼓に合わせて一拍子の手拍子が始まり、次に二拍子の手拍子、そして、三拍子の手拍子と進んで行く。次に、男子リーダーが「337拍子」と声を張り上げると、鉢巻きに倉工学生服の男子リーダーが、両足を大きく広げ、その足を90度に曲げ、両手の握り拳を太鼓の「337拍子」に合わせて交互に前に突き出して応援団を鼓舞。すると、三塁側倉工応援アルプススタンドは最高潮に。そして、最高潮のアルプスは、さらにヒートアップして行く。

次に、揃いの帽子に応援ユニホームの男子リーダーが、横一列に並び、両手を上げた。

一瞬の静寂が走った。
「母校の勝利を祈って、校歌斉唱。」
すると、倉工生徒は全員帽子を右手に持って立ち上がった。演奏が始まると、校歌に合わせて右手の帽子を上下に振って行く。
一列目は右に動き、二列目は左に動き、以後各列は交互左右に動き、校歌を熱唱。
揺れる三塁側アルプス。男子リーダーは、校歌に合わせて、両手を上下左右に振り、アルプス席を鼓舞。
【水島灘の沖ゆく白帆も】
「このブラスバンドは、倉敷市内の中学高校からの友情応援だったようです。とにかく、倉工一丸の応援だったですね。」と熱く語ってくれた生田岩雄さんでした。

やがて、この応援スタイルは、昭和42年選抜で初披露となる「桃太郎」の応援へと、受け継がれて行く事になる。「桃太郎」の応援とは、当時、倉工音楽部だった木村義夫(現おいまつ会副会長)と木元太一(トニーエバンス楽団スイス国在中)の両名によって作り上げたもの。
当HPカテゴリーの中(投稿)の中で、『名物応援桃太郎誕生秘話』として紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。(2016年9月3日投稿)

試合は、0対0のまま五回に入った。小沢監督は、内野手控えの岡田(現倉工野球部OB会副会長)を呼んだ。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語  5  伝説の記憶

「やったぞ、甲子園じゃ」
「甲子園に行くぞ」
「森脇甲子園へ行くぞ」
感激にひたる倉工ナイン。
そして、ナインの心は、ひとつ。
『森脇を、甲子園に連れて行き、森脇とともに甲子園で戦う。』
日々の練習に、ますます気合い、闘志が漲る倉工ナイン。
松本は、胸をなでおろすと共に、一段と闘志が沸き起こっていた事だろう。
そんな時、ナイン待望の朗報が舞い込む。
『エース森脇が、投球練習が可能となった。』
役者は、揃いつつある。
ナインは、さらに闘志を燃やす。
こうして、迎えた第43回全国高校野球選手権大会だった。

初戦の相手が決まった。
初出場で、兵庫代表報徳学園。報徳は、創部30年め。
兵庫大会決勝で、県尼崎を2対0で破って念願の甲子園を射止めた。

1961年(昭和36年)8月13日。大会3日め、第3試合。
倉敷工対報徳学園
甲子園は、超満員。
一塁側報徳学園の応援スタンドでは、男子リーダーが両手や両足を上げて気合十分の応援態勢。
一方、倉工三塁側応援スタンドでは、「ファイト倉工」の横断幕が風にたなびく中、倉工学生服に身を包み、鉢巻きした男子リーダーが、両足を大きく広げ、両手の握り拳を、太鼓に合わせ、交互に前に突き出し、相手をねじり伏せるかのよう。
また、揃いのユニホームの男子リーダーが曲に合わせて、両手を広げたり、上げたり下げたりして、大応援団を鼓舞。

その曲とは何か。当時、一年生で応援に行っていたという、生田岩雄(現おいまつ会副会長)は、次のように言う。

「とにかく、校歌校歌の連続でした。今のような曲は、なかったんでね。とにかく

校歌の連続でした。」【水島灘の沖ゆく白帆も】「とにかく、両校すさまじい応援合戦でした。」と生田は当時を懐かしむ。

試合は、嵐の予兆を隠しながら、静かな投手戦で進んだ。
報徳は、左腕酒井葵三夫。
倉敷工、永山勝利の先発。試合は、0対0のまま延長に突入する。

つづく
随時掲載

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