熱闘甲子園 今昔物語 10 伝説の記憶

(報徳学園戦の)「あの夜、小沢監督は夜遅くに帰って来たんです。」と内野手だった岡田(現倉工野球部OB会副会長)
「夜中の、11時頃だったと思いますよ。」
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、選手全員小沢監督の帰りを待っていた。

しかも、全員正座をして。「私は、その場に出くわして、私も正座をして、両手をついて申しました。」「(森脇に後を託す意味からも)あの時、永山をベンチに下しておくべきだった。」小沢監督は自分の采配ミスを、選手に謝ったのだった。
そして「申し訳ない。お前たちを、勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったら、お互いことわりをしよう。『どうも、すみませんでした。』と。わしは何回も謝る。君らも、一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を噛みしめて甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」そう言うと小沢監督は、両手をついて、頭を下げた。これに対して、主将の松本が「森脇を、出してくれてありがとうございました。」
すると、全選手が、「ありがとうございました。」

小沢監督の目に光るものがあった。采配ミスを謝る小沢監督に対し選手たちは、逆に「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したのだ。名勝負を飾るのに、ふさわしい友情ドラマ。
小沢監督は、負けたにもかかわらず『監督冥利につきる、試合だった。』と話した。
しかし、それ以上に勝負の世界は非常だった。小沢監督は、その後何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して、選手を責めなかったという。情に熱い人格者でもあったのだ。

報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。外野手の土倉は「森脇が投げられるとは思っていなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあとずっと思っていた。甲子園で彼が投げた時は嬉しかったなあ。」

【全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。すべての責任は、私にある。どんな非難も、私一人が受け止める、それよりかは甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かしてほしい。】
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

 


【写真は第44回選抜甲子園大会での小沢監督】

倉敷工業-報徳戦の動画はこちら(バーチャル高校野球より)

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 9 伝説の記憶

倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7

勝敗を超えて、今日までも語れ継がれる名勝負。
昭和36年夏の甲子園。奇跡の大逆転となった倉敷工業対報徳学園戦は、夏が来る度に話題に上がる。手中の勝利を逃した、投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのだ。

ナインの気持ちは、一つ。
「森脇を、甲子園に連れて行く。」
そして「森脇と共に、甲子園で戦う。」
ナインの気持ちは、早くから、小沢監督にも伝わっていた。
「全員が、森脇を大舞台のマウンドへ。という思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と主将の松本は言う。
その松本(故人)が、十一回先制点となる二塁打を打ち、「森脇を登板させてやってください。」と小沢監督に直訴。

こうして、あとアウト1つを残して投手交代は実現。
この場面は、小沢監督(故人)にとって脳裏に焼きついて離れられないという。

松本は、八回九回頃になった時、ベンチに帰って来ると「森脇を、森脇をお願いします。」と小沢監督に。

そして、十一回表だった。
「では、打って来い。森脇が投げられる状況をお前が作って来い。」

こうして迎えた、十一回表だった。松本は、先制点となる二塁打を打ったのだ。この時だった。小沢監督は、次の様に話す。

「二塁打を打った松本が、何と二塁ベースの上に正座して、手を合わせて『監督さん』と呼びかけた松本の姿に、私は身体が震えました。」

松本らナインは思いを小沢監督にぶつけたのだった。
しかし、ようやく球威を、取り戻し投げられるようになったばかりの森脇にとって「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」永山の再登板はあまりにも酷だった。
この時の、ラジオ中継のアナウンスは「永山疲れました。永山疲れています。」と絶叫している。

その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、ナイン全員が、小沢監督の帰りを待っていたのである。しかも、松本ら全員は、正座して小沢監督の帰りを待っていた。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。

参考
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ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
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注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
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岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
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