昭和36年のドラマ6

第43回全国高校野球選手権大会 甲子園球場

組み合わせが決まった。昭和36年8月13日 大会3日目 第3試合。

相手は創部30周年という記念すべき年に、甲子園初出場を果たした、兵庫代表 報徳学園。

この時だ。ナイン待望の朗報が飛び込んできた。エース森脇が投球練習が可能となったのだ。

ナインは大喜び。意気と力の 溢るるところ、となって闘志の塊となって行く。

舞台は整った。役者も整いつつある。

8月13日 甲子園球場。この日何故か、第一試合、第二試合とも延長サヨナラゲームがあった。

この日甲子園球場は超満員。空席は見当たらない。一塁側に報徳学園、三塁側倉敷工業。

三塁側アルプス席を見てみよう。「ファイト 倉工」の横断幕が風にたなびいている。

男子応援リーダーがお揃いのユニホームで腕を振って鼓舞している。

倉工生は、帽子を右手に取り、右上から左下に右上から左下へと振っている。

まるで、神宮球場の早慶戦のようだ。こうして試合は始まった。

先発は倉敷工 永山 報徳学園は左腕の酒井。試合は緊迫した投手戦となった。

スコアーボードには0が並ぶ。ベンチに戻って来るたび、松本は小沢に「森脇を森脇をお願いします」と懇願。

しかし小沢は心を鬼にして「駄目だ ならん」と。そして、9回表倉工の攻撃。二死でランナーなし。

打席には4番鎌田。鎌田がレフト前ヒットで二死ランナー一塁。ここで鎌田が、ヘッドスライディングの盗塁を決める。

つづく打席には5番松本。松本がレフト前ヒット。鎌田、三塁ベースを蹴ってホームへヘッドスライディングで突入。

しかし、報徳レフト大野の好返球でタッチアウト。甲子園の土を握って悔しがる鎌田。

9回裏報徳の攻撃。二死ランナー三塁でサヨナラ機を迎える。打席にはこの日2安打の内藤。

この内藤を、永山は投手ゴロに打ち取る。永山はここに来て、やや疲れが見え隠れしていたが9回までに、報徳打線を散発4安打に押さえていた。

それでも松本は「森脇を、森脇をお願いします。」すると、小沢は「では打って来い。森脇が投げられる状況を作って来い」と。こうして試合は延長戦に突入した。

この試合の模様を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく    随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考   瀬戸内海放送          番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送        番組「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社           「灼熱の記憶」

ベースボールマガジン社     「高校野球不滅の名勝負 3」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

倉工出身 阪神タイガース守屋功輝投手 一軍初登板

阪神タイガースからドラフト4位指名を受けて、入団2年目の、守屋功輝投手が高校野球の聖地、甲子園球場で、4月20日一軍デビューを果たしました。
また、先発と言う大役を任されての登板でした。
しかし、結果は残念ながら負け投手になってしまいました。
恐らく甲子園での初先発と言う事で、幾らかの緊張もあったのではないかと思われます。
本人にとっては、ほろ苦いでデビューでした。
中学時代は、全くの無名投手。「田舎の方の中学校で、部員数も少なくやっと試合が出来る程度だったとの事。また、投手として一塁ベースカバーも知らない子でした。」と、語るのは育ての親、倉工 中山隆幸前監督。(今春より、岡山工)そんな段階からスタートした守屋投手。
今、阪神タイガースで投げている姿は恐らく、部長、監督として9試合甲子園で戦った、中山隆幸監督でも、想像を遥かに超えているのではないかと思います。今後は、球威は十分あるので、もっと細かいコントロールを身につけて頑張って欲しいですね。これからが本当の勝負です。おいまつ会も暖かい目で応援して行きましょう。

頑張れ 守屋功輝投手    タイガースの星になれ 功輝

【守屋功輝投手 先発登板でのコメント】

守屋功輝君、阪神タイガースでの初先発初登板、(甲子園)誠におめでとう!
私はこの日を心待ちにしていました。本当に嬉しいです。倉工野球部投手出身でプロ野球で一軍にて、先発した投手は、あるOBの方から聞いた事ですが、安原さん以来ではないかとの事です。本当に快挙だと思います。
ただ、プロの世界は大変厳しくほろ苦いデビューになりましたが、内容は決して悪くなく、球威自体もあったように見えましたし、変化球も切れていたようにも見えました。またすぐに一軍で投げられないかも知れませんが、次の登板では、この経験を生かし、修正すべき点を克服して、ぜひ次の機会は素晴らしいピッチングを見せて下さい。大いに期待しています。

元岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部監督 中山隆幸(現岡山工業高校勤務)

【倉工時代、バッテリーを組んでいた捕手實盛君からのコメント】

この度、守屋功輝君が、プロ野球の世界で一軍初登板を果たし、とても嬉しく思います。
高校の時には、行くことができなかった甲子園の地に立つ姿はとてもたくましく、我々の代表として誇らしく思います。
この経験を糧に、さらなる飛躍を期待します。

昭和36年のドラマ5

「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。
実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。
それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商
倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。
7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。その時だ。小沢からサインが出た。
「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。その秘策とは、Wスチールだったのである。
小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。
「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。
誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。
新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送     番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送   番組「旋風よふたたび」

山陽新聞社         「灼熱の記憶」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会