風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 17

「 剛球左腕 大野仁之助 」 と 「 心優しき豪傑 三宅宅三 」
戦火を潜り抜け、生き抜いた港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエクラブ。
伝説の京都国体。「 戦争で亡くなっているのが4人いますけど、どれもこれも
野球が好きで好きでたまらん奴ばっかりでした。ですから、あいつらのためにも
しっかり頑張らないといけんな。と言う気持ちは、常にありましたね。 」と、語る大野。
大野は、 玉島商野球部監督 を退いた後、 県審判協会設立 に尽力を注ぐ。
「 4年もかけて、苦労して苦労してやっと立ち上げた 審判協会 でした。 」
大野の審判は、 亡き戦友に届け とばかりの、 雄叫び判定 の名審判だった。
一方、三宅は甲子園の翌年昭和25年、 大毎オリオンズ の入団テストに合格。
28歳で、プロ野球生活を開始する。選手としての実働は8年。選球眼が良く
また、長打力があるため、時折チームの中軸を担い、三度の二桁本塁打を記録
する等の活躍を見せた。1957年引退。大毎、東京、ロッテで 打撃コーチ。
スコアラー、スカウト. 中日では、編成本部顧問を務めた。そして、古巣オリオンズ
の、スカウト部長になり、 落合博満 らを獲得。75歳までスカウトを続ける。
2006年、呼吸器不全のため、死去。85歳。2005年の古巣ロッテの、日本一を
見届けての死だった。 大野 と 三宅 の母校 玉島商野球部 は、春の選抜
1度、夏の甲子園3度出場、うち第51回大会で、ベスト4。また、長崎国体では
準優勝と活躍。夏の甲子園3度は、いずれも、 小沢倉敷工 を破っての出場
だった。  忘れまじ、港町玉島の 誇り高き野球団 玉島モタエクラブ。
伝説の 京都国体。 剛球左腕、威風堂々 大野仁之助。 心優しき、六尺
越えの豪傑 三宅宅三。
  つづく  随時掲載 【 ただし、大野 と 三宅 の物語は最終回 】
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よふたたび 」
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

校長室のボール 槌田 誠 ものがたり

母校の校長室に、一個の野球のボールが飾られています。そのボールは巨人に
入団した、 槌田 誠 選手が、昭和49年倉敷で行われた、阪急とのオープン戦
で、3本のホームランの中の1個であります。その、 槌田 誠選手 について紹介
したいと思います。
P1000177 P1000178
エースを負傷で欠きながらも、炎の闘志で、甲子園切符を掴んだ昭和36年夏。
対 報徳学園戦 の時の正捕手。延長11回裏、6-5に追いかけられた時だった。
センターからのバックホームを後ろに逸らしてしまい、6点目のランナーがホームを踏んだ。
「あの時、完全にキャッチしていれば、もしかしたら勝っていたかもしれない。」
『借りを作った。このまま終わってなるものか。』
昭和38年、立教大学に進学。ある日、小沢監督が 立教大 に立ち寄った時の事。
槌田がブルペンで、バケツをひっくり返し座って、先輩投手の球を受けていた。「ここへ投げろ。」と。
ミットを構えたのだが、球はミットを少し外れてしまった。すると、槌田は 『 取って来い 』 と。
野性味が溢れ、野武士的な槌田。先輩にも一切の妥協を許さぬ、野球の鬼。昭和41年春。
13試合、45打数、20安打。戦後、二人目の打撃三冠王。リーグ優勝。
ベストナインと大活躍。そして、昭和41年、巨人ドラフト一位。
巨人V9のスタートの年だった。プロ初打席、満塁ホームランを含む、代打ホームラン通算4本。
槌田の打席は連敗阻止、完全試合阻止など、ここ一発で勝負強く、チームを救った。
昭和49年3月16日、 ふるさと倉敷 で阪急とのオープン戦で、3本のホームランの
離れ技を演じた。1本は場外の彼方へ。
1本目は、報徳学園戦の負い目を振り払い、
2本目は、恵まれなかったプロ人生の悔しさを打ち払い、
3本目は、恩師、先輩、友人、そして、少年達に夢を与えるスイングだったのかも。
公式記録にない3本連続ホームラン。そのうちの1つが校長室に。
常勝チームに不可欠な男。名門巨人軍V9を支えた男。
灼熱の季節を力の限り生き抜いた野武士、 槌田 誠。
確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。平成11年1月7日、胃がんのため他界。
享年55歳。
「ジャイアンツ、選手の交代をお知らせします。9番、堀内に代わりまして、代打、槌田。背番号22。」
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参 考  瀬戸内海放送 『 夢 フィールド 』
      OHK     『 旋風よふたたび 』
      山陽新聞社  『 灼熱の記憶 』