風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 25 「 最終回 」

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨   岡山東商監督 向井 正剛
あくまでも、投手を含めた 守りの野球 を基本とし、マナー 精神面 を重視した 向井。
心憎いばかりの 人心掌握術 で、ナインの心を一つにした。一方、どんな投手でも
打ち込める 打撃チーム を理想。練習時間を短く設定した中、 高度な戦術指導 を
施した 小沢。社会人やプロでも通用する技術を、教え込んだ。小沢 の愛弟子
黄金の左腕 小山 稔。その 小山 は、 小沢 を『 親父 おやじ 』と、慕う。
【 親父は、自分のところが強ければ、相手はどこでも構わない。と、言っていました。
また、相手チームを 偵察 する事はなかったですね。中京戦で 13 対 2 から
逆転負けしていたら、その時点で 辞表 を出していただろう、と晩年言っていました。
そういう 心の思い があったようです。 】 向井 は、48年の選抜出場後に 部長
になり、49年の選抜を最後に現場を離れ、県教委へ。この時、両雄が初めて一緒に
選抜の晴れ舞台 を踏んだのも、不思議な因縁だ。
倉工野球部を作った男 小沢 馨   2016年9月28日死去 その勇姿は見る事は
出来ない。 甲子園から、野球の素晴らしさを ふるさと倉敷 に持ち帰った男
小沢 馨。 倉敷の名前を、全国に知らせた男 小沢 馨。 倉工野球部 を作った男
小沢 馨。 甲子園17勝 は 県高校野球監督 として最高成績である。
   おわり  風雲の奇跡 最終回です
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」 
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏

風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 24

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨。   岡山東商監督 向井 正剛。
闘魂と百戦練磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突。しかし、球場を離れると両者とも情に厚い 人格者 でもあった。 倉敷工 は、昭和42,43年 4季連続甲子園出場。
甲子園で数々のドラマを演じた 倉敷工 が 最も全国制覇に近づいたのが、昭和43年。今まで県球史に前例のない甲子園 春夏連続ベスト4。その快進撃は、街に満ち溢れるエネルギーと 歩 を合わせるかのようだった。しかし、あと1歩のところで惜しくも夢に届かず。
その日、倉敷が泣いた。昭和49年 小沢と向井が見つめる中、倉敷工 の純白のユニホームと岡山東商の白桃色のユニホームが甲子園を並んで行進。まさに壮観。だが、それは岡山県高校野球が群雄割拠の時代の 「 始まり  」 となるのである。小沢 の最後の甲子園出場は、昭和50年春。
豪腕 兼光を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で 東海大相模 に 0-1 で惜敗。
この一戦、高熱でフラフラになりながらも歯を食いしばり、投げ抜いた 兼光 の姿に 小沢 は感涙。
「 よくやった。男の中の男 」と賛辞を贈ったのだった。希代の名監督が甲子園で見せた涙。
号泣する 小倉北 福島 の姿に戸惑った無欲の初出場。福島 の涙から「 かけるものの大きさ 」「 甲子園の夢の大きさ 」を知った 小沢。そして、兼光の 「 がんばり 」 に涙した 小沢。
小沢 には涙の物語に始まり、涙の物語で終わるものがあったのである。
そこには 四半世紀 が過ぎていた。
  つづく  随時掲載
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏