捲土重来復活への道29最終回

平成元年は、決勝で涙。二年は、準決勝。三年は、3回戦で敗退。
甲子園は、近いようで遠かった。「華々しい時代を、知っているだけにイライラし通しだった。」と、倉工ファン。平成五年、甲子園出場経験のある、OBの藤原勝利と永山勝利が、コーチに就いた。さらに六年、倉敷工在学中、監督の和泉利典と、共に白球を追った中山隆幸が、凱旋し部長に。倉敷工野球部出身の和泉と中山。
二人とも現役時代、甲子園出場を果たせなかっただけに、ひのき舞台への、思い入れも強い。「選手のため。応援してくれる人達のためにも頑張りたい。」と、和泉と中山。こうして、和泉をサポートする体制が、出来上がったのだった。大きな転機だった。まず、新体制が手をつけたのは、『習慣』の撤廃。例えば、グランド整備は下級生のみ。「いつの間に、意味のない習慣が増えていたのか、と驚いた。」と、永山。OBコーチの、藤原と永山は、『グランドでは厳しく練習以外では、仲間。』という意識を、植え付けた。指導方法も変化させた。中山は、メンタルトレーニング、ウエートトレーニングを本格的に導入。さらに、栄養学も取り入れたため、選手たちの基礎体力が、みるみるうちに、アップした。「力のある選手を集め、技術練習で強くする事ばかり考えていた。」と、和泉。甲子園出場実績は、もとより県内でも、実績のない学校の監督を努め『力のない選手を、いかに伸ばすか。』に、腐心して来た中山の指導は、大きな刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、藤原と永山の両コーチ。コンディショニング、メンタル面は、中山。すると、新体制の歯車が、がっちりと、かみ合い始めた。さらに、目標は高く設定した。
それは、『全国制覇』。「常に甲子園に出るチームは、全国で勝つという、意識を持っている。目標を、甲子園出場に置くと、途中で息切れをしてしまう。」と、和泉は、説明する。結果もついて来た。
昨夏(平成7年)は久々にベスト4。優勝した関西を、最後まで苦しめた。そして、平成8年の夏、苦しい試合を一つ、また一つと、ものにして行きながら、古豪は、力強く復活を果たした。これぞ【捲土重来】七月二十九日、倉敷マスカット球場。優勝を決めた直後のインタビューで、和泉は、声を詰まらせた。そして泣いた。「あくまでも、目標は
全国制覇。十年かかっても、いや、それ以上かかっても。」主将の北條は、優勝旗を手に、力強く言い切った。先輩たちが、成し遂げられなかった大きな【夢】に向かって、よみがえった名門が、力強く羽ばたき始めた【平成8年の夏】。倉工の玄関には、倉敷工野球部の、業績を記した額が、かかっている。一番左に、『二〇〇九(平成二十一年三月)第八一回選抜高校野球大会出場二回戦開幕試合史上初金光大阪に延長逆転サヨナラ勝利』と、書かれている。まだ、その左には、余白がある。今度は、どんな文字が書き込まれるのだろうか。

捲土重来最終回

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

令和元年おいまつ会作品展

倉工創立80周年記念「第71回倉工祭 文化の部」が、11月8,9日盛大に開催されました。一般公開となった9日、早朝から他校の女子生徒をはじめ、保護者、おいまつ会会員など大勢の方々が詰めかけました。屋外特設ステージでは、バンドチームのパフォーマンスや書道部による書道パフォーマンス、さらには吹奏楽部による演奏があり、人気を集めていました。おいまつ会館では、今年も作品展が開催されました。今年も、多数の作品が、所狭しと並べられました。
中でも「倉工80年の歩み」という事で、開校当時の写真パネルや昭和20年代(?)らしき校舎の様子などあり、訪れた方々が足を止めて見入っていました。
こうした中、特に目立ったのが、元倉敷工野球部監督の、和泉利典さんが、今年の夏の県大会開会式で県高校野球連盟から、【功労者表彰】を、受賞され、その表彰状、記念品の展示でした。(当HP。捲土重来を参照して下さい。)そして㈱中原三法堂様から表彰のポスターの作成があり功労者表彰に、いや、作品展に花を添えて下さいました。
来年も盛大な『倉工祭 文化の部』になりますように、おいまつ会も応援をしていきたいものです。
がんばれ倉工 美しい文化の倉工へ


倉工玄関懸垂幕


力作ですね


中庭にて1


中庭にて2


正面玄関です


(株)中原三法堂様と木村副会長


ちょっと休憩です


和泉利典さんの功労者表彰


作品展の様子です

 

捲土重来 復活への道 28

夏9回、春10回の甲子園出場を誇る県内、いや全国屈指の名門倉敷工。
19回の、甲子園出場のうち、ベスト4四回(昭和24夏、昭和32春、昭和43春、夏)。ベスト8は、二回(昭和47春、昭和49春)全国の強豪校として名を馳せ、甲子園での、通算成績は25勝19敗と輝かしい戦績を誇る倉敷工。
この25勝は、現在県最多勝利数である。四十二、四十三年は四季連続出場「当、HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照してください。」を、果たすなど、また、三十年から四十年代にかけては。岡山東商と共に県内二強時代を築き、県高校球界をリードして来た。ところが、五十年代に入ると、普通科志向の、強まりからいい選手が、集まりにくくなった。また、スポーツに力を入れる学校も増え、岡山南や玉野光南そして岡山城東など新勢力も台頭。『勝てない』『選手が集まらない』と、言う悪循環。選手の気質も変わり厳しさ一辺倒の指導では、通用しなくなってきた。名門であるがゆえに、これまでの指導方法、あるいは、気質から脱却できないまま、じりじりと低迷へと追い込まれて行った。夏の大会で、57年は1回戦を、突破したが58、59年は連続して、初戦で姿を消すなど、低迷状態が続いた。和泉利典が、倉敷工監督として、チームを預かったのは、そんな時代の変わり目の、真っ只中の、昭和59年秋。
伝統校も、甲子園から十五年以上、遠ざかっていた。【ぜひとも、古豪復活を】OB、ファンは和泉へ期待が集まった。和泉は、力のある選手を集め、熱血指導で、就任二年目の、昭和60年夏県大会準決勝へ進出。身長168㎝2年生の、エース左腕石井厚志を擁し連続無失点47イニングを達成。手応えを感じていた時、OB塩田富士夫が、監督に着任した。和泉は、コーチに退く事に。
当時、和泉は26歳。翌昭和61年夏、エース石井の、抜群の制球力と、キレのあるカーブを武器に力投で、倉敷工は、岡山大会を制し、実に18年ぶりの甲子園出場を勝ち取る。和泉は、手塩にかけた選手たちの活躍を喜ぶ一方で、「複雑な気持ちもありました。」と打ち明けた。甲子園では、初戦で秋田工に、1対11で敗れたものの倉敷工にとって悲願の【古豪復活】になったと思われた。だが、翌夏から再び甲子園は遠のいた。そして、平成元年再び和泉が監督に返り咲く。満を持しての再スタートだったが、やはり『あと一歩』の状態が続いた。「何が足りないのか」やがて悩み苦しむ和泉に、転機が訪れる。
つづく
随時掲載
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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」