熱闘甲子園 今昔物語 40 栄光の足跡 28

68回全国高校野球選手権大会(昭和61年夏)

【概要】
1986
8月8日~821日出場49チーム
優勝 天理(奈良)、準優勝 松山商(愛媛)

深紅の優勝旗は、生駒山を超えて、初めて大和路に翻った。
混戦から勝ち上がった、天理と松山商が、決勝で対決。
松山商が一回に1点を先行したが、天理は、四回に逆転。
六回にも1点を加え、松山商の反撃を1点に抑えて優勝を遂げた。

【はじめに】
小沢監督が勇退した後、倉敷工監督に、当時コーチだった脇田監督が就任。その後、大学を卒業したての、若き指揮官吉田監督。そして、沢原監督、和泉監督と変わっていきOBの塩田富士夫を監督に、コーチには同じくOBの金田文秀を迎えた倉敷工。短期間で、監督が代わった倉敷工。

これも、名門校ゆえの監督交代劇なのであろう。
迎えた、昭和61年。春の地区予選を勝ち、県大会を前にこの時の監督だった和泉から塩田へ、バトンタッチした。

塩田監督は、早速、春の県大会を制し、中国大会に出場。
その中国地区大会でも優勝を飾る。「短期間で塩田監督、金田コーチが、よくチームをまとめた。」と、小沢元監督が絶賛。その原動力は、身長168cmのエース左腕石井厚志と捕手で、4番打者の水本勝巳(後に、広島カープ入り)
エース左腕は、抜群のコントロールと、切れのあるカーブが武器。2年生の時、47イニング無失点記録を樹立。
石井は、元々外野手だった。当時、これという投手がいなく、たまたま、監督の和泉が、打撃投手に指名した。すると鋭いカーブに注目。右打者の膝下へのカーブ。「これは
いける。」と読んだ和泉がエースに育て上げたのだった。

昭和61年夏の県予選決勝。岡山県営球場。相手は、岡山南。
岡山南のエース加百投手を、打ち込んで、実に18年ぶり7回めの甲子園出場を、勝ち取る。

秋田工 201 003 131 11(1回戦)
倉敷工 000 010 000 1
倉敷工 投手 石井→宮田
倉敷工 本塁打

倉工の完敗。塩田監督は、投手の替え時を見失った。
エース石井は、球が走らず、身上のコントロールが乱れ、与えた四死球は8。秋田工に、本塁打1、二塁打3を含む14安打を許す。一方、倉工は三塁打1、二塁打1を含む5安打。秋田工、長身の川辺投手に、押さえ込まれた。
こうした中、倉工の三塁手小田が、三塁打を放つ。
小田は、甲子園から帰ってから、ラグビー部に転向。
倉工ラグビー部は、この年花園に出場。小田は甲子園と花園の2つの土を踏んだのだった。

硬式野球部 ~卒業アルバムより~

この写真撮影後、花園出場を決めることになったラグビー部 ~卒業アルバムより~

18年ぶり甲子園出場を報じる新聞各社

壮行式 生徒を代表し激励する小室生徒会長

壮行式 応援団

壮行式 全校生徒の激励を受け甲子園へ

硬式野球部 甲子園へ向けて出発

つづく
随時掲載 

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 39 栄光の足跡 27

47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975
328日~46日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝東海大相模(神奈川)

倉敷工 1615 中京(開幕試合)
東海大相模 10 倉敷工(2回戦)

【おわりに2/2
母校の監督になり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨。
最後の甲子園は、この昭和50年の選抜。剛腕、兼光を擁し優勝候補の呼び声が、高かったが、2回戦で東海大相模に、0対1で、惜敗。この一戦、高熱でフラフラになりながら、歯を喰いしばり、投げ抜いた兼光の姿に小沢は、感涙。
「男の中の男」と、賛辞を贈った。
希代の名監督が、甲子園で見せた涙。号泣する、福島の姿に戸惑った無欲の、昭和24年初出場から、四半世紀が過ぎていた。

「兼光が、高熱を出して倒れた彼が、強打の東海大の打線を、あれだけ押さえて、10という好ゲームになった、彼の頑張り、彼の精神的な強さ。私は、監督をしていて、本当に良かったなと。兼光がベストのコンディションでやったんならともかく。この様な悪条件の中でこういうピッチングができるという、こういう野球人、そういう高校野球だったと。私は、称えたかったんです。」

『名将小沢馨、最後の甲子園。主将大倉、捕手大本らの選手たちは最高のゲームを師に、捧げた。』

倉敷が生んだ、希代の野球人小沢馨。
小倉北、福島投手の涙に戸惑った、昭和24年最初の甲子園。
名将と言われた小沢も、福島投手が2度まで手にした優勝旗には、ついに届かず。そういう意味では、福島以上に悲運の人だった。しかし、最後の甲子園で、兼光らが小沢に見せた姿は、野球をこよなく愛する少年たちの、あこがれの、的にもなった事だろう。

「このボールで遊ぶというか。戯れるというか。これしかなかったんです。ですから、何としてもボール遊びがしたいと。それがチームに入り、ボール拾いから始まって一ランク一ランク上がって、野球のお陰で健康にもなれたし。
野球によって、一段一段自分を高めて行けたと思います。」

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会