卓球部激励

倉工HPより

1月16日(火)本校体育館において、卓球部が全日本選手権に出場するにあたって本校のOB会である、おいまつ会から激励ということで、アクエリアスと激励金を頂いた。まず皆さんに練習風景を15分程度見ていただきその後、萩原監督より選手の紹介があり、最後においまつ会日下会長より「今まで様々なスポーツ選手を見てきたが、どの選手も声が大きかった。大きな声を出し気迫で相手を圧倒して、全国に倉工という名を轟かせて来てください。最後まであきらめずに頑張ってください。」と、激励の言葉をいただいた。その言葉に答えるように全日本選手権に出場する小郷
楓佑(電気科1年)が力強く決意表明を行った。全国大会に出場する学校は私立高校ばかりで県立高校はあまり見なくなっている。様々な部活動の制約があり一昔前より格段に練習量が減ってきているのが一つの要因だと思われる。その中でも全国へ羽ばたいていくのが我が倉敷工業高校だ。倉敷で生まれ、倉敷で育ち、そこで培った意地と粘り強さで一勝でも多く勝ち取ってもらいたい。

~出場選手~

小郷 楓佑(電気科1年)

大会名:天皇杯・皇后杯2024年全日本卓球選手権大会(一般・ジュニアの部)
期 日:1月 22日(月)~28日(日)
場 所:東京体育館

熱闘甲子園 今昔物語 46 栄光の足跡 34

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996
8月8日~821日 出場49チーム
倉敷工90中越(1回戦88)
倉敷工53東筑(2回戦814)
鹿児島実92倉敷工(3回戦818)

【おわりに2最終】
平成8年夏。10年ぶり8回目の甲子園出場。
この年の倉敷工は、どの様な戦力だったのか。その戦力を振り返ってみた。
『戦力分析』
選手層の厚さを誇る倉敷工。県内一、102人の部員のし烈な、レギュラー争い。
倉敷市中心部にある鶴形山でのトレーニング。頂上にある阿智神社の182段を駆け上がり約45時間のランニングが延々と続く。今年の冬はこのトレーニングを週3回こなした。

切れ目のない打線は、評価が高かった。藤原守二の526厘を最高に、県大会のチーム打率343厘を誇った。一試合平均得点は、6.4点と、高い高打率をマークした。

主将の、北条剛が県大会の時、大きなヤマ場だったと話す対玉島商戦。1点差の接戦をものにし、自信をつけた。
玉島商竹内監督は「北条、西川のシャープな打撃。福原の勝負強さにやられた。下位打線も息が抜けなかった。九回裏二死無塁から、決勝点を入れられた時には、精神的強さも感じた。」と話した。

勝敗のカギは、投手陣の活躍にかかっていた。
エース中原俊博の、決め球は直球。約130キロと飛び抜けた速球ではないが、防御率は、1.62。やすやすとは打たれない。中原と実力互角の、笹田和之、高本秀樹。
また、対興譲館戦で1安打に抑えた、諏訪正樹(2)
控え投手は充実していた。
『勉強になりました』
倉敷工野球部部長、中山隆幸のコメント。
「今回の、甲子園出場は、色々な事が勉強になりました。
特に、選抜優勝の鹿実戦ですね。あのスライディングは、厳しかったです。勝つ執念を感じました。この経験は、今後に役立ちます。」

『視線の先』
監督和泉利典、部長中山隆幸の視線の先は、早くも次の甲子園出場を見ていた。

 

 

つづく
随時掲載

 お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 45 栄光の足跡 33

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996
8月8日~821日出場49チーム
倉敷工90中越(1回戦)
倉敷工53東筑(2回戦)
鹿児島実92倉敷工(3回戦ベスト16)

【おわりに1
10
年ぶり8回めの、「夏」。春夏合わせて16回めの甲子園出場を誇り、全国に、その名を轟かせた名門が、久々に檜舞台に、伝統のユニホームが、登場した。
10
年間の、無念さを晴らすかの様に、力を蓄え、岡山大会を勝ち上がった今年のチーム。その復活までの足取りをたどりたい。

『低迷』
ベンチの隅で、大きな背中が震えていた。729日、倉敷マスカット球場。延長12回の死闘の末、岡山城東を下し優勝を決めた、倉敷工監督和泉利典は、OB、コーチらに抱きかかえられ、人目もはばからず泣いた。
もがき、苦しみ抜いて、つかんだ「喜び」。
その姿は、県内屈指の、いや、全国屈指の名門が、復活までに、たどって来た、苦難の道程を表しているように見えた。
昭和50年代に入ると、普通科志向が多くなり、選手が集まりにくくなった。「勝てない」「選手が集まらない」という悪循環。選手気質も変わり、厳しさ一辺倒の指導では、勝てなくなって行った。OB、ファンの期待は、高まるばかりだった。準々決勝あたりまでは、勝ち進むが「あと一歩」で足踏みが続いた。「何が足りないのか。」悩む、和泉に転機が訪れる。
『新体制』
甲子園は、近いようで遠かった。
「華々しい時代を知っているだけに、イライラし通しだった。」
OBで、甲子園出場経験のある、永山勝利は、ファンの声を代弁する。その、永山と同じく、甲子園出場経験のある藤原勝利が、コーチに就いた。さらに、倉敷工時代に、和泉と共に、白球を追った、中山隆幸が部長に。
和泉をサポートする体制が出来上がった。大きな、転機だった。「力のある選手を集め、技術指導で強くする事ばかり考えていた。」と言う和泉に対し、実績のない学校で、監督を務め、「力のない選手を、いかに伸ばすか。」に腐心していた中山の指導は、大いなる刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、OBコーチ。
コンディショニング、メンタル面、さらに、スポーツ栄養学等の指導は、中山。こうして、新体制の「歯車」がガッチリと嚙み始めたのだった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)

岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会