青春ヒーロー プレイバック7

小山 稔物語

第40回選抜高等学校野球大会。

昭和43年3月28日から4月6日までの10日間開催。中国地区からは、倉敷工 尾道商 広陵 防府商が出場した。昨年の選抜において倉工が、繰り上げ出場。夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、小山の左腕は肘と肩に後々までいえない故障を抱えていた。

昔から甲子園には、魔物が潜んでいると言われているが、その魔物は、「倉敷工業を甲子園に出場させてやるが、小山の肩をくれ。」と、言っているのだろうか。こうした中、小山は歯を食いしばって投げつづける。

2回戦     倉敷工 3 - 0 清水市商   小山2勝め

準々決勝   倉敷工 4 - 0 銚子商    小山3勝め

今大会、優勝候補筆頭の銚子商を下す。

「肩が痛いのは、当然です。でも痛いながらのピッチングができました。」と小山。

「黄金の左腕 小山 稔」 2試合連続完封を達成する。

準優勝    倉敷工 1 - 3 尾道商

準決勝 ベスト4にて敗退。宿舎に帰った倉工ナイン。小山は、小沢監督に呼ばれた。

「気力が足りない。今日の、ピッチングは何んだ。お前みたいな者は出て行け。」すると、小山は下を向いたまま、宿舎を出た。出て見ると外は雨が降っていた。小山は、宿舎の外で雨に打たれながら下を向いて立っていたのである。すると、小山のもとに一人のOBが優しく語りかけて来た。

「小山、中へ入れ。風邪をひくぞ。監督さんは ( 小山には夏があるんだ。夏に向けて頑張れ )と言ってるんだよ。監督さんの愛のムチなんだよ。」と。すると、小山は自分の手を握りしめた。前を向いた。そして、唇をかみ再び闘志がみなぎって来たのだった。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 6

小山 稔物語

昭和43年 春の選抜出場が決定した。地力でつかんだ3季連続の甲子園。歓喜に湧く倉工ナイン。

工業都市として、観光都市として発展して行く倉敷市。その中、倉工の選抜出場は何より。

まさに、倉敷市発展の象徴的な存在であったに違いない。

選抜が近くなったある日、小沢監督から新しいユニホームが配られた。その新しいユニホームは従来の物とは違っていた。従来は、アイボリーに濃紺の文字を基調としていて、帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングも濃紺だった。(現在甲子園博物館に所蔵されている。)

しかし、今回のは純白を基調とした早稲田カラー。帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングは純白にエンジ色のライン2本。胸には、従来と同じ「KURASHIKI」。そして、小山には倉工のエースナンバー1が贈られた。しかし、この新しいユニホームを配った時、小沢監督から替えた理由はげられなかった。何日かして、次のような説明があったと小山は言う。

「濃紺を基調としたユニホームは、身体の大きい選手が揃った時には似合う。しかし、君らのような身体の小さい選手ばかりでは、似合わない。そこで、高校生らしく爽やかな色で早稲田カラーとした。

ここで、替えないと替えられる時はなかった。」と。この純白のユニホームが、倉工の伝統の1ページを飾る事になる。選抜は2年連続6回目。春夏合わせて11回目の甲子園出場。白壁の町、倉敷から大応援団がアルプス席を埋め尽くすのだ。そして、木村 義夫 と 木元 大一 が作った、名物応援として、発展して行く ( 桃太郎 )を乗せた何十台もの応援バスが、聖地へと向かった。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏