部活動訪問 書道部

文字は、 はじめ文化の進展につれ、美的に表現される方法が生まれました。
その書道は、人間修養の一方法でもあります。


おいまつ会による、部活動激励訪問。
今回は、第68回倉工文化祭で、書道パフォーマンスを発表している、書道部を訪問させて頂きました。
書道部は、8人の部員 (女子3) で、週3回の練習を行っていて、岡山県書道展にも出展し、多くの入賞者を出しています。訪問日は、文化祭と言う事で、多くの見学者がいる中、ステージ場で音楽に合わせ大きな筆で一気に書き上げる様子は迫力十分。書道部部長の、河村 智史君 (3) は「部員を増やしていき、楽しい書道部にして行きたいです。」と、抱負を語ってくれました。顧問の、速水 昌子先生は、「もっとモチベーションを上げて、やる気を出してほしい。」と、今後の活躍を期待していました。

おいまつ会も、書道部の今後の活躍を期待し、応援して行きます。頑張って下さい。

がんばれ 倉工 輝け 日本の伝統文化  倉工書道部

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倉工文化祭 おいまつ会OB展開催

倉工パワーが爆発しました。
68回倉工文化祭が、111819日に盛大に開催されました。一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。
同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開もありました。こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。
小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。
さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。
こうした中、昭和4243年と4季連続甲子園出場した時の選手で、角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。
角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

故 小沢 馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 (甲子園の土) の始まりと言われている。
卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。
移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト43が最高成績。 【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。
甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

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青春ヒーロー プレイバック8

小山 稔物語

春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。当然、招待試合などに招かれるケースも増える。小山にとっては、これが不運。痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。
倉敷工 武  津久見 太田 。 両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。当然、倉工ファンも多くなって行く。
小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

つづく    随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
山陽新聞     (灼熱の記憶)
瀬戸内海放送  (夢 フィールド)

協 力
小山 稔氏
武  渉氏