野球部の社会貢献活動

白壁の街にそびえる、鶴形山。その、鶴形山に、倉敷の総鎮守 阿智神社があります。

阿智神社の秋祭りは、毎年10月の第3土曜日と日曜日に行われます。この秋祭りに

倉工野球部一年生が、社会貢献活動として、神輿を担ぎ氏子地区となる、倉敷美観

地区周辺を、練り歩いている事をご存じですか? (他にも、清掃活動も実施しています)

今年で10年近くになります。白装束に身を包み、神輿を掛け声と共に差し上げ、その下を

お客様や、氏子にくぐって頂きます。この神輿は、日曜日の午後からで、黒住教倉敷大教所

を出発。   (今年は、10月16日、13時より)  御旅所を回り、阿智神社東参道に帰って

来ます。ここからが、阿智神社秋季例大祭のクライマックスとなる、「お山入り」です。

夕方5時ごろ、阿智神社に上がる長い階段を最後の力を振り絞って、駆け上がるのです。

鳥居をくぐって88段の米寿段、そして境内までの石段を駆け上がる様は、倉敷の風物でも

あるのです。無事、神輿が帰って来た境内は歓声に包まれます。その様子を、多くの観光客

が、カメラに収めるのです。阿智神社の秋祭りが終わると、倉敷は冬支度へと入ります。

一年生部員は、楽しみにしているようです。

がんばれ 倉工 わっしょい わっしょい わっしょい  倉工野球部

協 力
宮野 義治氏
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部 顧問
阿智神社

 

青春ヒーロー プレイバック 5

小山 稔物語

昭和42年、秋の新チームが結成された。
俊足巧打の土倉を切り込み隊長とし、バントの名手山口、長打の武、強肩の藤川。
それらの選手は、2年生からの出場メンバーで、持ち味に磨きをかけチーム力は着々と向上すると共に、全国トップクラスに成長。
そこに、小山の力投が加わるのだ。
さらには、野球を愛する心は誰にも負けず、ただひたすらに白球を追いかける角野。
「角野の学力は抜群でした。」と小山。「全選手が、技術力を高めるためにそれぞれに各方面で、努力をしていたと思います。
これは、絶対に断言できます。」と角野。
さらに「私は、野球が大好きだったんです。
キャッチボールも野球、ノックを受けても野球、グランド整備も野球練習その物が野球だったんです。」と、角野は熱い思いを語ってくれた。
名将 小沢監督がそんな角野を見逃すはずがない。
名将は、角野を3塁コーチャーに抜擢した。役者は揃った。あとは大舞台に立つだけ。
勝負の時が来た。
秋の中国大会。
倉工は順調に勝ち進み決勝に進出。決勝の相手は、小山の好敵手、宇根投手の広陵。
3回まで、0 対 0 だったが、降雨のため中止。
(広島市民球場) 翌日、会場を替えて再開され、当然投手戦になったが、軍配は広陵に上がった。

(倉敷工 0 - 1 広陵  呉二河球場)

秋の中国大会で準優勝した事で、来春の選抜出場は当確。
しかし、浮かれた選手は誰一人もいなかった。
昭和42年、倉敷 玉島 児島が合併。新しい倉敷市が生まれた。
倉敷は、工業都市として、観光都市として発展して行き、全国に名を知られる事になる。
そこに、選抜出場の期待がかかる倉敷工業。
倉敷市民は、熱い期待に包まれて行く。
ただ、一つの心配な事。
それは、母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山の肩だけが心配だった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

参 考
山陽新聞社 「灼熱の記憶」

 

名物応援 桃太郎誕生秘話

昭和42年選抜に、繰り上げ出場となった頃である。

音楽部の、木村義夫 と 木元大一はある同じ悩みを抱えていた。それは、楽器が古すぎる事。

「中には、壊れているのもありました。」と木村。そこで、木村と木元は校長室に向かった。

「せっかく甲子園に行くのに、こんな楽器では恥をかきます。校長先生何とかして下さい。」と

小山俊雄校長に直訴したのだった。すると、小山校長は「よし、わかった。」と言って、ポンと

25万円を出して二人に渡した。25万円の大金をである。当時の25万円と言うと、現在では

おそらく、150万円近くになるのではなかろうか。早速、木村と木元の二人は、四国、高松市の

日本楽器に買いに走った。トランペット、サックス、トロンボーン等一式を買って帰ったのである。

そして、木村は思った。「ここまでしてくれたのだから、何か恩返しをしなければ。」と。

木村と木元は、「岡山県代表なのだから、岡山に関係ある曲で、しかも、倉工をPRできる曲を。」

と言う事で。こうして、生まれたのが 桃太郎 での応援だったのである。早速、木元が桃太郎の

曲をアレンジして、楽譜を部員に配った。そして、昭和42年選抜で初披露となったのである。

しかも、練習も応援団との打ち合わせも十分に出来ずに、ほぼぶっつけ本番。アルプス席で

すぐに演奏した。最初、倉工生は桃太郎の唄を歌っていたが、いつの間にか歓声が入るようになった。

「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)

それ以後桃太郎の応援は倉工名物となって、常に相手校を圧倒。ある年の甲子園出場が

決まった時、テレビ取材で応援団員が言った。「甲子園では、ランナーが一人でも出たら、すぐに

桃太郎をやります。」と。しかし、時代の流れと共に現在では使われていないのが残念。

桃太郎の応援を望む、倉工オールドファンは多い。

木元大一は、現在海外でジャズを教えて活躍中。25歳で、イギリスに渡ってトニーエバンス楽団に

入団。No.1のトランぺッターに。日本、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス と、トランペット一本で

生きて来た男。管楽器なら、何でもござれ の、まれな才能も持ち合わせている。

現在は、スイスに定住。5か国が話せると言う。

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

協 力
木村 義夫氏
小山 稔氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂

 

青春ヒーロー プレイバック 4

小山稔物語

昭和42年3月20日、朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぎり込み新聞を広げた。  「津山商出場辞退」  衝撃的な見出しが寝ぼけまなこに飛び込んで来た。目をこすりながら記事を読み進めると、 「補欠校の倉敷工が繰り上げ出場か」 と続く。
「本当に甲子園に」 喜びと驚きの中で失意にくれた2月始めの、選抜出場校発表の日が思いだされた。それが、一転して甲子園出場が現実に。「夢のような気持だった。」と小山は言う。
登校した小山を待っていたのは、小沢監督からの呼び出しだった。「小山、すまんが今日から投げ込みをしてくれ。」 ここで、小沢監督の「すまんが」の意味は何であろうか。大会まで一週間を切っての話。
選抜出場校の発表以降、夏に向けて走り込み中心の練習に取り込んできていた。ところが、急な投げ込み。それが原因で小山の左腕は、肘と肩に後々まで癒えない故障を抱えることになる。
4月1日、初戦の相手は、津久見(大分)。実践練習が不足していた選手たちだったが、小山の力投に打線も答え、この選抜大会で初優勝を飾る強豪 津久見 相手に 2 対 3 と食い下がった。
「倉敷工は強い。夏が楽しみ」期待の声が高まって行くのだった。倉敷の街は熱い期待に包まれる。
しかし、町の声援に、小山の肩が悲鳴を上げる。
昭和42年 夏。倉工ナインが地力でつかんだ甲子園。

倉敷工 4 - 0 秋田本庄   小山1勝め

小山は、2年生から全国の注目をあびた。そして、「黄金の左腕 小山 稔」の異名までついたのだった。
甲子園常連校になった、倉敷工業。ここで、新しい伝統が生まれようとしていた。

つづく 随時掲載

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園  中原三法堂