青春ヒーロー プレイバック 3

小山 稔物語

昭和41年 秋の県大会は、津山商に敗れて準優勝。しかし、この決勝戦は 津山商にリードを許してはいたが、日没のため試合を打ち切られ、準優勝となったものである。
(倉敷工 2 対 3 津山商 8回日没コールド 倉敷市営球場 )
つづく、秋の中国大会では、2試合連続完封。決勝 尾道商 との対戦も9回まで 1 対 0のリードしていて、ランナーを置いた所で、エラーが連続で出て、1 対 6 の逆転負け。
しかし、中国大会では津山商より、戦績は上だった。県大会 中国大会共に準優勝した事で来年の選抜甲子園出場は、間違いないと言われた。ナインの気持ちは、早くも選抜甲子園に向いていたのである。選抜出場校の発表の日が来た。「多くの報道陣がグランドにきていました。40人ぐらいはいたかな。」と小山。冬の日の夕暮れは早い。気の早い報道陣から催促されてナインは小沢監督を胴上げして、感激の知らせを待った。ところが、春の便りは 津山商に。
それを聞いた報道陣は、一斉に津山商へ向かったのだった。「あっという間にいなくなりました。」と小山は言う。小沢監督は、失意のナインに語り掛けた。「決まった事は仕方ない。今さらどうにもならない。こうなったら、グランドをいくら走ってもいいから、思いっきり涙を流せ。」と。
ナインは横4列に並んで、涙が枯れるまで何周も何周もグランドを走り続けた。
「あの時、泣いてない選手は誰もいませんでした。」と小山は言う。小沢監督も、目頭を押さえてナインを見つめていた。失意のドン底の倉工ナイン。
しかし、この涙のランニングが結束を生み高める。「夏は、必ず甲子園に行くんだ。」と。
そして、ナインの絆も深いものに。
この日を境に、練習メニューは夏を見据えた形に変わったのである。小山も、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んだ。
昭和42年3月20日 朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぐり込み新聞を広げた。

つづく    随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂

 

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 2

小山 稔物語

昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では

「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。この試合で

2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。その2年生、いや新3年生

の、強打者がずらりと、小山の前に立った。シートバッティングと言えども真剣勝負。

小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。ファールチップが

やっとだったのである。新3年生が言った。「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より

上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。新1年生で早くもベンチ入りを

果たしたのである。41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は

やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる

小山だった。左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。

当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。その秋の中国大会では、優勝候補と

言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。決勝では、尾道商 (広島)

に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。ところが、9回ランナーをおいて

倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。しかし、県大会準優勝、中国大会も

準優勝。2試合連続完封。「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。

つづく 随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔 氏
木村 義夫氏
仏壇 墓石 霊園 中原三法堂