青春ヒーロー プレイバック 1

小山 稔物語

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。
(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。その頃、倉敷市は
工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。
実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。その戦いは竜虎の戦いと
言われたものでもあったのだ。こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」
それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。
こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、翌日の
3月27日の事だった。早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。
つづく 随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社   灼熱の記憶

協 力

小山 稔  氏
木村 義夫 氏
中原三法堂

昭和36年のドラマ10 (最終回)

土倉、永山、森脇の三人に質問をした。

Q もう一度、生まれ変わっても倉工で、野球をやりますか?

土倉 「小沢監督には、叱られてばっかりで、褒めてもらった事なんか一度もないんですけどね。それでも、小沢監督とあの時と同じメンバーでやりたいです。」

永山 「とにかく、走りますね。」

森脇 「今度は、きちっと予定を立てて、アクシデントのない様にしたいですね。小沢監督と、あの時と同じメンバーでやりたいです。」

インタビューを終えた三人は、談笑をしながら倉敷市営球場を後にした。

あの夏、倉工ナインは10代の少年には、あまりにも過酷な運命にさらされました。しかし、何も悲惨な記憶でもないのです。何物にも代えられない友情の証として誇らしい甲子園の戦いの想い出として、今も彼らの胸を熱くするのです。

あの夏の勝利の女神に見放された少年たちは、勝利以上に貴い心の糧を手に入れたのです。

おわり

がんばれ  倉工 羽ばたけ 紺碧の大空へ 倉工野球部

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考  瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ9

新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。
森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。
宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。小沢も正座をして手をついた。
「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。
一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。
この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。
全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

参 考 山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」

協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会