風雲の軌跡 涙の甲子園 10

監督 小沢 馨物語

昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回めの出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。このチームは

個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労

しました。 」こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将

だった、 大倉一秀 。この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに

出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。 「 今回のチームは、いつもと

違う点は、どこですか? 」すると、小沢監督は、「 今年は、センターライン

が、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」

センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。『 一度でいいから、優勝旗に

手をかけてみたいですね。 』この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督

が 【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。 【 優勝 】と言う言葉を

使ったのは、何年ぶりであろうか。昭和43年夏、大エース 小山投手 を

擁した時、以来でなかったか。倉工久しぶりの、大型チーム。エースは

剛腕 兼光保明 。防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って

甲子園に、乗り込む 倉工ナイン。

つづく  随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   大倉一秀氏

神土秀樹氏

風雲の軌跡 初陣倉敷工 9

小沢 馨物語

昭和24年8月20日。倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテル

ぐらいまでの沿道を埋め尽くした。人々は、「 万歳! ばんざい! 」を連呼。

空には、打ち上げ花火。さらに、ブラスバンドの演奏までが加わった。まさしく倉敷の

夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。

そして、主将の 小沢 が、挨拶をする事になった。 「 主将の、私に挨拶をしろ

と言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。それで

【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を

目指して、皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんです。言った

らしんですよ。 」主将、 小沢 は、大群衆に、いや 倉敷市民に約束した。

のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。倉敷の名を全国に

伝えたのは、倉工エースで主将の 小沢。倉敷市民から、大いなる期待が寄せられた

のである。 倉工卒業後  小沢 と 藤沢 は、プロ野球阪神タイガースの

入団テストに合格。プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出し

は、来なかった。一年が経過した頃、 社会人野球、日鉄二瀬 から、誘いを

受け、阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って 日鉄二瀬 に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」

と、藤沢。移籍した直後の事。倉敷から、使者が 小沢 のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやって

くれないか。倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしい

んだ。就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業

高校の、事務員。仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長

が言ってるから。 」倉敷市長から、直々に監督を要請された 小沢。

こうして、 倉工小沢監督 が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

 

つづく  随時掲載   『 ただし、初陣倉敷工は、最終回 』

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

OHK     「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社  「灼熱の記憶」