春風爽快 キセキの春 28

想えば、全盛時代の、昭和30年から40年代。小沢監督率いる倉工は、強打力で鳴るチームだったが、「バント」「走塁」にも、絶妙の技があった。連打で、大量点を奪う一方、1点勝負の場面では、ノーヒットでも点を取ってみせた。ライバルの、岡山東商監督の向井正剛氏が、後日談で「小沢さんに負け、悔し涙を流した。おかげで、多くの事を学んだ。」と語っていたあの日が懐かしい。

今回は、ベスト8に進めず、残念ながら快進撃とはいえなかった第81回選抜の倉敷工。全国の強豪校相手に、一回戦は延長12回劇的なサヨナラ勝ち。二回戦は、前半の大量失点を激しく追撃したが、わずか1点差で惜敗。中山隆幸監督率いる倉工の選抜は、1勝1敗に終わった。しかし、その野球は、決して『諦めない』『勝負を捨てない』ものだった。秋の中国大会から続く、チームの進化が物語るものでもあった。『ハラハラ』『ドキドキ』。握りコブシが何度も硬くなった。だが、倉工ナインは諦めていなかった。過去の栄光に満ちた「強打の倉工」は、「諦めない倉工」の名で、見事に、今、伝統の復活を遂げた。
感動に満ちた甲子園ストーリーと言えよう。

甲子園大会では、大会役員が各チームに一人ずつ付き添う事になっている。試合終了後の事。その大会役員を先頭に一列に並んでグランドを出る時だった。「バックネット裏の、大観衆が、総立ちで、拍手喝采だったんですよ。」と中山監督。一方、ナインは、ある物を見つけたのだった。ナインが見た物。それは、【倉工魂】や【侍倉工】の看板だった。ナインは、足や身体が震えたという。また、スタンドからは「また、来いよ」あるいは「すげえ試合を、また見せてくれよ。」と。「本当に嬉しかったです。感無量でした。」と指揮官。感動に満ちた甲子園ストーリーは、さらにつづく。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 27

第81回選抜高等学校野球大会。(34年ぶり10回目)

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11

中京大中京 230 100 000 6
倉敷工   010 004 000 5

第81回選抜に出場した倉敷工。「強打の倉工」の活躍は、もう遠い記憶になっていた。後に、監督となる小沢投手を擁して初出場した昭和24年の夏の甲子園でベスト4に進出。
(当、HP。カテゴリーの中風雲の奇跡初陣倉敷工を参照して下さい。)
その後、倉工全盛時代が続き、春夏合わせベスト4進出3回。
今回の選抜で、19回目の甲子園出場である。
倉工は、地元の倉敷マスカット球場で開催された秋季中国大会を、37年ぶりに制覇し34年ぶりの選抜出場を決めたが、その中国大会には、県大会4位出場資格ギリギリで出場。
2回戦で、県大会覇者の作陽を大差で破って勢いに乗り、準決勝で鳥取城北、決勝で南陽工をそれぞれ下し、見事優勝を飾った。倉工は、粘り強さが身上の実戦的攻撃のチーム。県大会から中国大会にかけ、試合ごとに進化を続けたフレッシュなチーム。倉工監督一年目の中山隆幸監督は、一試合一試合を「どんな事があっても諦めるな。」「死ぬ気でやり切れ。」という精神面で、負けない元気野球を目指し頂点に立った。県大会4位のチームが、中国大会で優勝した記録はない。私、当HPはこのチームの練習をよく見に行ったものである。指揮官は、普通のノックはやらない。常にランナーとアウトカウントを置き、ギリギリでアウトを取れるかどうかのタイミングで放たれる。プレッシャーの中での集中力が狙いであろう。
打撃では、「高め」と「外角」が中心。指揮官は「思いっきり振り切れ」高めでも、ゴロを打つ技術の習得を目指していた。
「強打」と「多彩な攻撃力」が、倉工の身上である。
当HPでは、この第81回選抜高校野球大会出場の倉工チームにあった、出来事をさらに振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」