大願成就 己に勝つ野球 17

昭和42、43年。旧倉敷、玉島、児島の3市が合併。
新しい倉敷市が、生まれた。以後、倉敷市は工業に観光にと発展を遂げ、全国にその名を知らせる。甲子園で数々のドラマを演じ、倉敷という名を、全国に知らせた倉敷工。時を同じくして、昭和42、43年春夏の4季連続甲子園に出場した倉敷工が、全国制覇に迫ったのが昭和43年。甲子園春夏連続ベスト4。正しく倉敷工の黄金時代。また、倉工の試合時間になると商店街から人が消えたほど。その快進撃は、倉敷の街に満ち溢れるエネルギーと歩を合わせるかのようだった。
しかし、惜しくもあと一歩で夢に届かず。その日倉敷が泣いた。
(当、HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)
こうした華やかな時代を知る多くの倉工ファンやOBたちは、甲子園から遠のくとどうしても現場の指導者に期待と激励、あるいは不安等を兼ねた目が向いてしまうもの。これも名門校ゆえの事だろう。全国でもその様な事はどこにでもある。こうした中、倉工OBの3人が暖かい手を差し伸べたのだった。

「周囲の雑音なんか気にせず、自分の思うようにやりたい事を思いっきりやったらええんじゃ。」こう声をかけ励ましたのは、坂本七郎OB会理事、藤原勝利コーチ、永山勝利OB会副会長(前倉敷工投手コーチ)の3人。
『坂本理事は昭和20年代、藤原コーチと永山副会長は30年代の卒業生』中山隆幸部長、和泉利典監督の2人のコンビは次の様に話す。「助かりました。この3人がいなかったら、どうなっていた事か。だから、どうしても甲子園に行きたかったんです。」2人のコンビは、今でも感謝の気持ちを、持ち続けている。

第85回全国高校野球選手権大会に、7年ぶり9回目の甲子園出場を勝ち取った倉敷工。エース陶山大介について、永山前投手コーチは、次の様に話す。(当、HP。カテゴリーの中、昭和36年のドラマを参照して下さい。)
「陶山は、精神的に逞しくなりましたね。自分が先頭に立ってやるんだと。マウンドはグランドより高いわけですから、マウンドに立っている以上はナインの信頼も必要ですし。チームの精神的な軸になってやった事が甲子園出場に結びついたんでしょう。」
一方、部室ではマネージャーの一宮周平が準備に追われていた。こうして、影で支えた一宮の功績も大きい。
JR倉敷駅に、【祝がんばれ倉敷工業】の横断幕が掲げられた。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 16

第85回全国高校野球選手権岡山大会を制した倉敷工7年ぶり9回めの甲子園出場。

決勝戦が終わった時の事。倉敷高校の選手が、倉工ベンチに、千羽鶴を持って来た。「これを、甲子園に持って行って下さい。甲子園でも頑張ってな。」
そう言われた主将の須田は、「ありがとう。甲子園でも頑張るから。ありがとな。」両校はお互いの、健闘を称えあったのだった。
倉敷マスカット球場の外では、家族や仲間たちが、喜びを分かち合った。そこに、通用門からOB藤原勝利コーチが、優勝旗を持って出て来た。すると、一斉に歓声が上がり拍手が湧き起こった。そして、記念の写真を撮り合った。和泉利典監督は、「いやあ、みんなで苦労して来ましたからね。」中山隆幸部長は、「感無量です。勝った瞬間和泉監督に抱き着いちゃって。」と話した。
午後6時ごろ、倉工ナインのバスが優勝旗と共に凱旋。
たくさんの人々が待っていた。歓声と拍手。早速、主将の須田が沖島弘光校長に優勝旗を渡した。すると、さらに大きく高い歓声と拍手。目に涙を浮かべた女性教師は、「7年前甲子園に行ったんですけど、また今回も行けると思うと喜びで嬉しいです。」
また、ある保護者は「応援して下さる皆さんのおかげです。」

その夜、後援会を立ち上げた。沖島校長が「しっかりした応援体制を組んで行きたい。」と挨拶。そして、津山工ラグビー部監督として花園に14回出場した名将芦田潤治教頭が、脇を固める。
和泉監督は、今まで苦しかった思いをかみしめた。「余韻に浸る暇はないんです。準備周到して来て、目標を持って努力し達成できた事が嬉しいです。」

その後、倉工ナインは、倉敷市営球場で強化練習を行った。
「そんなぬるい事をしていたら甲子園で勝てるか。」
和泉監督の大声がグランドに響いた。
こうした中、倉工野球部OB会には大問題が発生していた。
「OB会も崩壊していたでしょうね。」と和泉監督。
一体何があったのだろうか。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

増田葵選手、東京五輪お疲れさまでした。

東京オリンピックは無事閉会式を迎えることができました。
母校倉工の卒業生、増田葵さんは競泳女子800メートルリレーに出場し、惜しくも決勝には進出することはできませんでしたが、力強い泳ぎを見せてくれました。
増田さんの今後の活躍を同窓生一同応援しています。

大会後の記事が読売新聞に掲載されていましたのでご紹介します。
増田 出し切った 女子800リレー9位敗退 : ニュース : 岡山 : 地域 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

大願成就 己に勝つ野球 15

倉敷工 底力の勝利 序盤のミスを立て直す

倉敷工 002 017 000 10
倉 敷 120 200 011  7

初回、倉敷高校の先頭打者は、倉工エース陶山の甘いスライダーを見逃さず右中間に二塁打を放つ。
三進後、スクイズバントは空振りになったが、倉工捕手萩原がボールを見失ったのを見ると、倉敷高が先制のホームを踏む。倉敷高は、
2回と4回に連打やスクイズで、それぞれ2点を追加。試合のペースは、倉敷高が握っていた。それでも、すかさず反撃に出る倉敷工の勢いに少しづつ焦りを募らせていた。倉敷工の打線が火を噴いたのは6回。四球や失策で同点に。
さらに、一死満塁で打席に立ったのは捕逸で先制点を許した萩原。萩原のリクエスト
(ポパイ)が鳴り響く。しかし、この試合は、2打数ノーヒット。
「得意な真っすぐを打とう。」三球めの直球を鋭く振り抜くと、打球は遊撃手の横を抜け中前に転がった。
三塁から須田。二塁から清水が帰り、ついに逆転に成功。沸き上がる三塁側倉工大応援団。
「怪我で苦しんだあいつが打ったんだから絶対負けられない。」萩原の適時打に奮起した西野、大森、松本ら上位打線が、
4連打を浴びせ、結局この回7点を奪って試合を決めた。エース陶山は、終盤になっても球威は衰えず、粘りの投球。守備も堅守で盛り立てる。
「レッツゴー陶山ダンダダダン」三塁側は、全員総立ちでメガホンを打ち鳴らし、マウンドの陶山を見つめた。最後の打者に出した萩原のサインは、外角ストレート。陶山渾身のストレートを投げ込むと主審の右手が上がった。「ストライーク」
すると萩原が、一目散に陶山の元に走った。野手陣もベンチからもマウンドへ走り全員がもみくちゃに抱き合ったのだった。一方ベンチでは、中山隆幸部長が和泉利典監督に抱きついた。二人のコンビは抱き合った。これこそ【大願成就】三塁側は、大歓声に揺れた。涙ぐむ控え部員。声を嗄らして叫び続けた在校生。大きな笑顔の父母。応援席は、倉敷工の
7年ぶりの甲子園が決まると雨と涙でずぶぬれになった。新聞に『倉敷工猛打で夏切符』【倉工強打で頂点】『7年ぶり信じていた』【倉敷工集中打で逆転】と出た。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」