熱闘甲子園 今昔物語 20 栄光の足跡 8

第44回全国高校野球選手権大会(昭和37年夏)

倉敷工8-5山形商(1回戦)
倉敷工 004 110 200 8
山形商 020 000 300 5
倉敷工投手 安藤
本塁打

北海3―1倉敷工(2回戦)
倉敷工 100 000 000 1
北 海 000 100 20X 3
倉敷工投手 永山→安藤
本塁打

【概要】
1962年8月10日~8月19日出場30チーム
北関東代表の作新学院が、史上初の春夏の連続優勝を成し遂げる。
春のエース八木沢荘六が、開会式当日に赤痢と診断され大会で登板出来ないというアクシデントを乗り越えての優勝だった。また、沖縄が南九州大会を制し甲子園入りし、自力での代表は、沖縄からは、初めてだった。

倉敷工(東中国岡山)8―5山形商(西奥羽山形)
倉工は、二塁打3本、三塁打3本と打線が爆発した。投げては安藤がヒット11本を許すも、要所を締めて完投勝利を飾る。

北海(南北海道)3―1倉敷工(東中国岡山)
強打の倉工が、北海エース松谷投手の前に、ヒット3本、三振7に抑えられる。

昨年の夏に続き、2年連続甲子園出場。そして、春夏合わせて9回めの甲子園。捕手の槌田(立教大―巨人)は、「中国地区No1の捕手に成長した。」と、小沢監督。
「甲子園常連校」の地位を得る。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 19 栄光の足跡 7

43回全国高校野球選手権大会(昭和36年夏)

報徳学園76倉敷工
倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7(延長12)
倉敷工投手 永山→森脇→永山
本塁打

11回裏。報徳学園は、内藤の内野安打で2者が帰えって1点差になる。 この後、同点に追いつき、12回のサヨナラ劇につなげた。

【概要】

1961811日~820日出場30チーム
地元、大阪の浪商と、準決勝で当たった法政二は、前年の優勝校であり、夏春夏の3連続Vを狙っていた。
しかも、浪商は過去2度とも法政二に屈していた。尾崎投手の浪商か。柴田投手の法政二か。大会屈指の好試合は、延長戦にもつれ込み、浪商が宿願を果たし法政二の野望を砕いた。
(
優勝は、浪商)

―参考―
浪商42法政二(準決勝)
浪 商 000 000 002 02 4
法政二 100 100 000 00 2(延長11)

1回戦の倉敷工―報徳学園。無得点のまま迎えた延長11回表。
倉敷工が、一挙6点。しかし、絶体絶命の報徳が粘り6点を返してしまう。そして、サヨナラ勝ち。奇跡の大逆転劇だった。

倉敷工 左腕エース森脇敏正。
34
年夏の甲子園、国体と大舞台を一年生で経験。全国屈指のエース。
「もしかしたら。」小沢監督の夢も膨らんだ。ところが、県予選の直前、バント練習で一塁手で、主将の松本芳男にタッチされた。
森脇が転倒。右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われた。エースの突然の負傷。「これで、甲子園もおしまいか。」全選手に重苦しい空気が伝わった。しかし、主将の松本は涙して訴えた。
「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦おう。」と。
こうして、炎の闘志と団結力で、ついに甲子園切符をつかむ。
しかし、その裏には大きなドラマがあったのだ。
奇跡的な逆転劇の陰にあった、両チームの温情。「高校野球」というステージだからこそ生まれた、ドラマであったと言える。
『詳しくは、当HP。昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。』

つづく
随時掲載

 お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 18 栄光の足跡 6

第41回全国高校野球選手権大会(昭和34年)

倉敷工 10―3 太田(1回戦)
倉敷工 013 110 202 10
太 田 000 010 000 1
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打 中村

東北 2―0 倉敷工
倉敷工 000 000 000 0
東 北 000 002 00X 2
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打

【概要】
1959年8月8日~8月18日出場29チーム
地方大会を編成替えした。北海道を南北に分け、長野、静岡、広島が単独で代表を送る事になった。また、6チーム増えて29代表となる。初出場は9チーム。
開会式に皇太子殿下(当時)を迎えた。大会後の選抜チームは、ハワイでの親善交流試合の後、初めて米本土でも試合をした。

倉敷工(東中国岡山) 10―1 太田(西中国島根)
倉敷工打線は三振10を喫すが、10安打10打点と打線が爆発。
犠打7個を決め、打っては二塁打、三塁打、本塁打の各1本と打線が繋がった。小沢監督の「緻密な小沢野球」が見える。

東北(東北宮城) 2―0 倉敷工(東中国岡山)
倉敷工打線は、東北2投手に対し3安打に抑えられる。
三振の数も11となる。

この対太田戦、東北戦の2試合において一年生左腕森脇敏正が、甲子園のマウンドに上がった。

(当HP.カテゴリーの中昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。)

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送はありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会