青春ヒーロー プレイバック 6

小山 稔物語

昭和43年 春の選抜出場が決定した。地力でつかんだ3季連続の甲子園。歓喜に湧く倉工ナイン。

工業都市として、観光都市として発展して行く倉敷市。その中、倉工の選抜出場は何より。

まさに、倉敷市発展の象徴的な存在であったに違いない。

選抜が近くなったある日、小沢監督から新しいユニホームが配られた。その新しいユニホームは従来の物とは違っていた。従来は、アイボリーに濃紺の文字を基調としていて、帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングも濃紺だった。(現在甲子園博物館に所蔵されている。)

しかし、今回のは純白を基調とした早稲田カラー。帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングは純白にエンジ色のライン2本。胸には、従来と同じ「KURASHIKI」。そして、小山には倉工のエースナンバー1が贈られた。しかし、この新しいユニホームを配った時、小沢監督から替えた理由はげられなかった。何日かして、次のような説明があったと小山は言う。

「濃紺を基調としたユニホームは、身体の大きい選手が揃った時には似合う。しかし、君らのような身体の小さい選手ばかりでは、似合わない。そこで、高校生らしく爽やかな色で早稲田カラーとした。

ここで、替えないと替えられる時はなかった。」と。この純白のユニホームが、倉工の伝統の1ページを飾る事になる。選抜は2年連続6回目。春夏合わせて11回目の甲子園出場。白壁の町、倉敷から大応援団がアルプス席を埋め尽くすのだ。そして、木村 義夫 と 木元 大一 が作った、名物応援として、発展して行く ( 桃太郎 )を乗せた何十台もの応援バスが、聖地へと向かった。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック 5

小山 稔物語

昭和42年、秋の新チームが結成された。
俊足巧打の土倉を切り込み隊長とし、バントの名手山口、長打の武、強肩の藤川。
それらの選手は、2年生からの出場メンバーで、持ち味に磨きをかけチーム力は着々と向上すると共に、全国トップクラスに成長。
そこに、小山の力投が加わるのだ。
さらには、野球を愛する心は誰にも負けず、ただひたすらに白球を追いかける角野。
「角野の学力は抜群でした。」と小山。「全選手が、技術力を高めるためにそれぞれに各方面で、努力をしていたと思います。
これは、絶対に断言できます。」と角野。
さらに「私は、野球が大好きだったんです。
キャッチボールも野球、ノックを受けても野球、グランド整備も野球練習その物が野球だったんです。」と、角野は熱い思いを語ってくれた。
名将 小沢監督がそんな角野を見逃すはずがない。
名将は、角野を3塁コーチャーに抜擢した。役者は揃った。あとは大舞台に立つだけ。
勝負の時が来た。
秋の中国大会。
倉工は順調に勝ち進み決勝に進出。決勝の相手は、小山の好敵手、宇根投手の広陵。
3回まで、0 対 0 だったが、降雨のため中止。
(広島市民球場) 翌日、会場を替えて再開され、当然投手戦になったが、軍配は広陵に上がった。

(倉敷工 0 - 1 広陵  呉二河球場)

秋の中国大会で準優勝した事で、来春の選抜出場は当確。
しかし、浮かれた選手は誰一人もいなかった。
昭和42年、倉敷 玉島 児島が合併。新しい倉敷市が生まれた。
倉敷は、工業都市として、観光都市として発展して行き、全国に名を知られる事になる。
そこに、選抜出場の期待がかかる倉敷工業。
倉敷市民は、熱い期待に包まれて行く。
ただ、一つの心配な事。
それは、母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山の肩だけが心配だった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

参 考
山陽新聞社 「灼熱の記憶」

 

青春ヒーロー プレイバック 4

小山稔物語

昭和42年3月20日、朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぎり込み新聞を広げた。  「津山商出場辞退」  衝撃的な見出しが寝ぼけまなこに飛び込んで来た。目をこすりながら記事を読み進めると、 「補欠校の倉敷工が繰り上げ出場か」 と続く。
「本当に甲子園に」 喜びと驚きの中で失意にくれた2月始めの、選抜出場校発表の日が思いだされた。それが、一転して甲子園出場が現実に。「夢のような気持だった。」と小山は言う。
登校した小山を待っていたのは、小沢監督からの呼び出しだった。「小山、すまんが今日から投げ込みをしてくれ。」 ここで、小沢監督の「すまんが」の意味は何であろうか。大会まで一週間を切っての話。
選抜出場校の発表以降、夏に向けて走り込み中心の練習に取り込んできていた。ところが、急な投げ込み。それが原因で小山の左腕は、肘と肩に後々まで癒えない故障を抱えることになる。
4月1日、初戦の相手は、津久見(大分)。実践練習が不足していた選手たちだったが、小山の力投に打線も答え、この選抜大会で初優勝を飾る強豪 津久見 相手に 2 対 3 と食い下がった。
「倉敷工は強い。夏が楽しみ」期待の声が高まって行くのだった。倉敷の街は熱い期待に包まれる。
しかし、町の声援に、小山の肩が悲鳴を上げる。
昭和42年 夏。倉工ナインが地力でつかんだ甲子園。

倉敷工 4 - 0 秋田本庄   小山1勝め

小山は、2年生から全国の注目をあびた。そして、「黄金の左腕 小山 稔」の異名までついたのだった。
甲子園常連校になった、倉敷工業。ここで、新しい伝統が生まれようとしていた。

つづく 随時掲載

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園  中原三法堂

 

青春ヒーロー プレイバック 3

小山 稔物語

昭和41年 秋の県大会は、津山商に敗れて準優勝。しかし、この決勝戦は 津山商にリードを許してはいたが、日没のため試合を打ち切られ、準優勝となったものである。
(倉敷工 2 対 3 津山商 8回日没コールド 倉敷市営球場 )
つづく、秋の中国大会では、2試合連続完封。決勝 尾道商 との対戦も9回まで 1 対 0のリードしていて、ランナーを置いた所で、エラーが連続で出て、1 対 6 の逆転負け。
しかし、中国大会では津山商より、戦績は上だった。県大会 中国大会共に準優勝した事で来年の選抜甲子園出場は、間違いないと言われた。ナインの気持ちは、早くも選抜甲子園に向いていたのである。選抜出場校の発表の日が来た。「多くの報道陣がグランドにきていました。40人ぐらいはいたかな。」と小山。冬の日の夕暮れは早い。気の早い報道陣から催促されてナインは小沢監督を胴上げして、感激の知らせを待った。ところが、春の便りは 津山商に。
それを聞いた報道陣は、一斉に津山商へ向かったのだった。「あっという間にいなくなりました。」と小山は言う。小沢監督は、失意のナインに語り掛けた。「決まった事は仕方ない。今さらどうにもならない。こうなったら、グランドをいくら走ってもいいから、思いっきり涙を流せ。」と。
ナインは横4列に並んで、涙が枯れるまで何周も何周もグランドを走り続けた。
「あの時、泣いてない選手は誰もいませんでした。」と小山は言う。小沢監督も、目頭を押さえてナインを見つめていた。失意のドン底の倉工ナイン。
しかし、この涙のランニングが結束を生み高める。「夏は、必ず甲子園に行くんだ。」と。
そして、ナインの絆も深いものに。
この日を境に、練習メニューは夏を見据えた形に変わったのである。小山も、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んだ。
昭和42年3月20日 朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぐり込み新聞を広げた。

つづく    随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂

 

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 2

小山 稔物語

昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では

「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。この試合で

2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。その2年生、いや新3年生

の、強打者がずらりと、小山の前に立った。シートバッティングと言えども真剣勝負。

小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。ファールチップが

やっとだったのである。新3年生が言った。「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より

上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。新1年生で早くもベンチ入りを

果たしたのである。41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は

やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる

小山だった。左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。

当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。その秋の中国大会では、優勝候補と

言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。決勝では、尾道商 (広島)

に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。ところが、9回ランナーをおいて

倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。しかし、県大会準優勝、中国大会も

準優勝。2試合連続完封。「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。

つづく 随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔 氏
木村 義夫氏
仏壇 墓石 霊園 中原三法堂

 

青春ヒーロー プレイバック 1

小山 稔物語

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。
(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。その頃、倉敷市は
工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。
実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。その戦いは竜虎の戦いと
言われたものでもあったのだ。こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」
それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。
こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、翌日の
3月27日の事だった。早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。
つづく 随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社   灼熱の記憶

協 力

小山 稔  氏
木村 義夫 氏
中原三法堂