捲土重来 平成8年の夏 4

監督がいない 倉敷工野球部。その期間は約5か月にも及んだのだった。

そうした中、和泉らが最終学年に差し掛かろうとした、3月末やっと新監督が誕生した。

名前は、OB吉田 豊。昭和47年選抜甲子園ベスト8の時の内野手。吉田は卒業後、大学に進学( 大東文化大 )。卒業と同時に倉敷工監督となった。

主将和泉は、ナインに訴えた。「今日は、新監督が来る日。ちゃんと大きな声で挨拶をしよう。練習も気合いを入れて、監督に気にいってもらえるようにしよう。」と。そして和泉は、退部していた、本来のエースを呼び戻したのだった。こうして、若き青年指揮官と、共に夏の甲子園を目指す事になった。結局、夏の予選は、準々決勝で岡山南に敗れ、甲子園への道は絶たれた。この年、水島工が甲子園初出場した。和泉は卒業後、法政大に進学。走力と打力には、自信があったが、全国から集まった精鋭たちの前に、あまくはなかった。 法政大を卒業した和泉は、理大附の教壇に立ったが、すぐに倉敷工校長から「和泉よ、倉工に帰って来い」と言われ、その後長いこと 倉敷工野球部監督をする事になる。しかし、思うようにはいかず、マスコミから厳しい言葉を受ける事もあったという。こうして、時は過ぎ平成6年を迎えた。監督経験もある、頼もしきOB中山隆幸を野球部部長として迎え、和泉と中山のコンビが誕生。あくまでも、野球を通じて人としての心、人間性を重んじる中山の野球道。一方、どんな投手でも、打ち崩せる打撃チームを理想とし、戦術面で時には、緻密な作戦を用いた、小沢野球を追求して行く監督和泉利典。平成6年の一年生を見た和泉は、『面白い奴が多いなあ』と感じたという。「特に、北條なんか、中学のスポーツバッチテストが、100点満点でしたからね。いいのが、来たなと思いましたよ。」こうして県一年生大会を前にして、中山の猛ノックが始まった。

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

祈 花園出場 夢を抱いて走れ ラグビー部

( One for All,  All for One )
ラグビーで、良く使われる言葉であります。その意味は 「一人一人が、自分自身の役割を把握し、それを果たした上で、全体の事を考えるのが本来。」が、精神だと言われています。
昨年、倉敷工ラグビー部監督に就任し、4年ぶりの 花園出場 へと導いた 黒住 晃 監督。昨年末にあった一回戦で敗れたが、常勝 倉工 を育てていきたい 』と鼻息は荒い。テレビドラマ 「 スクールウォーズ 」を見て、ラグビーを通じて築かれて行く人間の成長に憧れたという 黒住監督。当、HPは 2年連続花園出場 を狙う倉敷工ラグビー部 黒住 晃監督 に単独インタビューを、試みた。

Q1  部員数は、何人か
3年生が19人。2年生9人。1年生7人です。女子マネージャー4人です。

Q2  春の大会から、夏合宿をやって、チームが成長したところはどこか
すべての面で、レベルが上がっていると、思います。

Q3  今年のチームの特徴 昨年と違う点とは
3年生が多い事ですね。花園経験者が 10人 いまして、みんな試合
に出ていますからね。運動能力が高い子がいますよ。

Q4  昨年の 花園出場 で監督として学んだ事とは
全国上位のチームは、パスの速さが違いますね。当たり合う コンタクト
の強さ が凄いです。

Q5  花園出場にあたり、ライバルとなるチームとはどこか
玉島高校でしょうか。一年生に、中学時代の経験者が、多いですからね。

Q6  今年の夏、どの様に チーム を鍛えたか
長崎県や愛媛県遠征をやって、全国トップレベルのチームと、合同合宿
を行いまして、全国レベルを知る事ができました。

Q7  今後の課題とは
全力で、最後まで 走り切る 体力作り が大事かと思います。

Q8  おいまつ会に一言
2連覇目指して頑張りますので、応援よろしくお願いします。
追記 岡山県予選は、美作ラグビーサッカー場で行われます。
11月11日 準決勝。11月18日決勝。


雨の中、練習するラグビー部

 


指揮する黒住監督(中央)


がんばれ、倉工ラグビー部

 


この重い、夢を抱いて、走れ!!

 

がんばれ 倉工   重い夢を 抱いて走れ 倉工ラグビー部

取材日:平成30年9月15日

捲土重来 平成8年の夏 3

【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に 甲子園 に行くんだ 】

小沢監督に憧れ、倉工の 門 を叩いた 和泉。 倉工 に行けば 甲子園 に行ける。

夢 を追いかけた。「 倉工 の迫力ある 打力 打撃 に憧れましてね。 」と、和泉。

しかし、 小沢監督 の背中を、追いかける時間は、長くはなかった。いや、短かすぎた。

和泉 が、一年生の時 ( 10月 ) 小沢監督 が、引退してしまったのだ。選手たちは

『 小沢監督 の指導を受けたい 』『 そんな、はずじゃあないなのに 』と。

「 次は、誰が監督になるのか、心配でした。 」と、 和泉。 小沢監督 の後任に

当時、コーチだった、 脇田監督 が誕生した。しかし、 脇田監督 も、 和泉 が二年生

の、11月で、退任してしまった。主将だった 和泉。 和泉 の苦労は、ここから始まる。

在学中、二人の 指揮官 を失った 倉敷工野球部。 主将の和泉 は、 小沢 の

所へ行っては、 「 どんな、練習をしたらいいですか。」と、何回も何回も 足 を運んだ

という。冬場の 鶴形山の階段 は、きつい。部員の中には、「 監督もいないし、もう

帰ろう。 」と、言い出す者もいた。また、手を抜く者もいた。 和泉 は、訴えた。

「 俺たちが、 甲子園 に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。

しっかり、走って足腰を鍛えよう。 」『 当時は、倉工のグランドで練習していまして。

サッカー部やラグビー部もいましてね。それで、打撃練習は、一人づつしかできなかったんです。』

と、和泉。その、打撃練習の時だった。同じ学年の 部員 に「 悪いが、打撃練習から

外れてくれんか。 」 和泉 の胸中は、いかなるものだったのか。こうして、指揮官の

いない月日は、流れた。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ    」