熱闘甲子園 今昔物語 6 伝説の記憶

(当時)一年生で報徳学園戦を、応援に行っていたという生田岩雄さん(昭39年卒C科現おいまつ会副会長)に、その時の応援について、お話をお伺いする事ができました。お話によると、応援席はもとより、甲子園球場は超満員だったそうです。そして、両校ともに物凄い応援合戦だったとの事。そこで、生田さんに、どのような応援合戦だったのか尋ねてみました。

「歓声一丁」と男子リーダーが大声を上げる。すると、応援席から「おうー」と歓声が上がる。その歓声は「地鳴りの様な歓声が響き渡った様な感じでした。」と生田さん。続いて、太鼓に合わせて一拍子の手拍子が始まり、次に二拍子の手拍子、そして、三拍子の手拍子と進んで行く。次に、男子リーダーが「337拍子」と声を張り上げると、鉢巻きに倉工学生服の男子リーダーが、両足を大きく広げ、その足を90度に曲げ、両手の握り拳を太鼓の「337拍子」に合わせて交互に前に突き出して応援団を鼓舞。すると、三塁側倉工応援アルプススタンドは最高潮に。そして、最高潮のアルプスは、さらにヒートアップして行く。

次に、揃いの帽子に応援ユニホームの男子リーダーが、横一列に並び、両手を上げた。

一瞬の静寂が走った。
「母校の勝利を祈って、校歌斉唱。」
すると、倉工生徒は全員帽子を右手に持って立ち上がった。演奏が始まると、校歌に合わせて右手の帽子を上下に振って行く。
一列目は右に動き、二列目は左に動き、以後各列は交互左右に動き、校歌を熱唱。
揺れる三塁側アルプス。男子リーダーは、校歌に合わせて、両手を上下左右に振り、アルプス席を鼓舞。
【水島灘の沖ゆく白帆も】
「このブラスバンドは、倉敷市内の中学高校からの友情応援だったようです。とにかく、倉工一丸の応援だったですね。」と熱く語ってくれた生田岩雄さんでした。

やがて、この応援スタイルは、昭和42年選抜で初披露となる「桃太郎」の応援へと、受け継がれて行く事になる。「桃太郎」の応援とは、当時、倉工音楽部だった木村義夫(現おいまつ会副会長)と木元太一(トニーエバンス楽団スイス国在中)の両名によって作り上げたもの。
当HPカテゴリーの中(投稿)の中で、『名物応援桃太郎誕生秘話』として紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。(2016年9月3日投稿)

試合は、0対0のまま五回に入った。小沢監督は、内野手控えの岡田(現倉工野球部OB会副会長)を呼んだ。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売、放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語  5  伝説の記憶

「やったぞ、甲子園じゃ」
「甲子園に行くぞ」
「森脇甲子園へ行くぞ」
感激にひたる倉工ナイン。
そして、ナインの心は、ひとつ。
『森脇を、甲子園に連れて行き、森脇とともに甲子園で戦う。』
日々の練習に、ますます気合い、闘志が漲る倉工ナイン。
松本は、胸をなでおろすと共に、一段と闘志が沸き起こっていた事だろう。
そんな時、ナイン待望の朗報が舞い込む。
『エース森脇が、投球練習が可能となった。』
役者は、揃いつつある。
ナインは、さらに闘志を燃やす。
こうして、迎えた第43回全国高校野球選手権大会だった。

初戦の相手が決まった。
初出場で、兵庫代表報徳学園。報徳は、創部30年め。
兵庫大会決勝で、県尼崎を2対0で破って念願の甲子園を射止めた。

1961年(昭和36年)8月13日。大会3日め、第3試合。
倉敷工対報徳学園
甲子園は、超満員。
一塁側報徳学園の応援スタンドでは、男子リーダーが両手や両足を上げて気合十分の応援態勢。
一方、倉工三塁側応援スタンドでは、「ファイト倉工」の横断幕が風にたなびく中、倉工学生服に身を包み、鉢巻きした男子リーダーが、両足を大きく広げ、両手の握り拳を、太鼓に合わせ、交互に前に突き出し、相手をねじり伏せるかのよう。
また、揃いのユニホームの男子リーダーが曲に合わせて、両手を広げたり、上げたり下げたりして、大応援団を鼓舞。

その曲とは何か。当時、一年生で応援に行っていたという、生田岩雄(現おいまつ会副会長)は、次のように言う。

「とにかく、校歌校歌の連続でした。今のような曲は、なかったんでね。とにかく

校歌の連続でした。」【水島灘の沖ゆく白帆も】「とにかく、両校すさまじい応援合戦でした。」と生田は当時を懐かしむ。

試合は、嵐の予兆を隠しながら、静かな投手戦で進んだ。
報徳は、左腕酒井葵三夫。
倉敷工、永山勝利の先発。試合は、0対0のまま延長に突入する。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語 4 伝説の記憶

「病院から帰って来て(ユニホームに着替えて)ベンチに入ったんですけどベンチに入るのがイヤだったですね。ベンチに入りたくなかったんです。」
明日に、甲子園出場をかけた東中国大会決勝。対岡山東商。
その前夜だった。全員が寝静まっていたが、誰か一人いない事に気づいた小沢。
「誰かいないぞ。」全員が起きた。騒然となった。誰かが言った。「森脇がいない」
宿舎中を探し回った小沢。「森脇は、宿舎の中庭の石の上に座って泣いていました。」
「こんな、夜中に何をしているんか。」
「監督さん。今日ベンチにいてたまりませんでした。明日、倉敷に帰らして下さい。」
森脇は、涙を流しながら小沢に、訴えた。
「この、バカたれが。お前がいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいなくて、何で勝てるか。」と叱責。小沢は、そう言ってなだめて森脇を寝かせたのだった。
こうして迎えた東中国大会決勝だった。
森脇は、投げられない自分と戦っていたのである。

倉敷から、大応援団が駆けつけた。
エース森脇を欠いての決勝進出。
昭和36年7月31日。
鳥取県公設野球場。この決勝の試合は、3対1で、岡山東商を下し、春夏合わせて6回め。2年ぶり3回めの甲子園出場を果たす。
倉敷工の勝利を決定づけたのは、七回、一死一三塁からの、Wスチールだった。
勝負のあやを知り尽くした、思い切った作戦。
「とにかく、投手の勝(永山勝利)のコントロールが、抜群だったんです。右打者の外角へのストレート。スライダーが、コーナー一杯に決まりましてね。コントロール抜群でした。」と、内野手の岡田。外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだからどうしてもという気持ちが、東商さんより上まっていたのではないか、と思います。」

全国屈指のエースを、練習中の負傷により欠きながらも、炎の闘志と団結力で、予選を勝ち抜いた(昭和36年夏の)倉敷工。こうして、苦しみながら勝ち抜いて、ついに掴んだ
甲子園切符。松本が泣いた。倉工ナイン全員が泣いた。松本と森脇が抱き合った。
そして、森脇が「ありがとう。」監督の小沢は「チームワークの勝利です。」と。
そこにある夢。あこがれの舞台。歓喜の瞬間。そこが甲子園。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語 3 伝説の記憶

急遽、主戦投手に選ばれた2年生の三塁手永山。新田中時代は投手。
強肩制球力の良さを監督の小沢は買った。
永山は、次のように話す。
「投げろ。と言われて県大会までには、何日間かの練習期間があったんですけど、投手としての経験という点では、不足していたと思います。」
一方、小沢は「永山よ。君は森脇の代わりではないんだ。永山一個人として投げろよ。」と指示。
これに対し永山は「小沢監督の指導もユニークで(早い球は、放るな。遅い球で勝負しろ。)とか(スライダーは、この様に握って投げなさい。)と色々と教わりながら、練習をしていきました。」
「スライダーの投げ方を教えたが、器用だったのですぐ覚えた。」と小沢。
永山の急成長に、「もしかしたら。」と監督の期待も膨らんだ。
「こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こう。」とナインも奮起。こうして迎えた県大会予選だった。

初戦は、笠岡商。「もう、一回戦の笠岡商に、負けるんじゃないかと思いましたよ。」と外野手の土倉。
笠岡商エース池田投手は、威力十分のストレートを右打者インコースに投げ込んで来た。打ちあえぐ倉工打線。8回が終わり、1対2で笠岡商リード。
9回倉工最後の攻撃。後がない倉敷工。
「ナインは、負けを覚悟したと思いますよ。」と内野手の岡田。【現倉工野球部OB会副会長】
9回、1対2で笠岡商リード。
しかも、一死ランナーなしの倉工。
ここで、岡田が四球を選び出塁する。
一死一塁。送りバント成功。
二死二塁。ここで、捕手の槌田が、左中間に打ち返す。
岡田が生還して、同点に追いつく。
その後、延長に入りやっとの事で勝利する。

「この試合経過は、かすかな記憶によるものです。」
笠岡商に勝利した倉敷工は、二回戦以後、打線が爆発。
県大会を突破して東中国大会に進出。
当時は、岡山と鳥取の上位2校が対戦し勝ち抜いた1校が甲子園に出場できたのである。
初戦は、鳥取の強豪米子東。
「何としても、森脇を、甲子園に連れて行きたい。」
ケガをさせた負い目を感じていた主将の松本は、そうメンバーに訴えたのだった。『森脇を甲子園へ』『森脇を甲子園に』一丸となった倉工は、9対7で米子東に打ち勝ち決勝に進む。
対米子東戦において松本は、神がかり的な大活躍を見せる。
決勝の相手は、岡山東商。
その決勝前夜だった。その夜、事件が起きる。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語 2 伝説の記憶

1961年昭和36年7月1日。午後3時ごろだった。
この日は、強化合宿最後の日。「全員が、疲れのピークだったと思います。」と外野手の土倉。この時、思いもかけないアクシデントが襲う。
選手一人ひとりが、一球バントをしては一塁へ走る。一球バントをしたら一塁への繰り返しの練習だった。アクシデントは、その時起きたのだ。
エース森脇が、一塁側にバントした。主将で一塁手の松本がバント処理。
一塁へ走って来る森脇の足にタッチ。すると、森脇が転倒し、地面を2回転。うずくまる森脇。全員が駆け寄った。森脇は、右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われたのだ。
34年夏の甲子園、国体の大舞台を1年生で経験。県下屈指、いや全国屈指の好投手といわれたエースの突然の負傷。
「これで甲子園もおしまいか。」
全選手に、重苦しい空気が伝わった。そんなある日の昼休みだった。
監督の小沢は、全選手を倉工グラウンドのバックネット裏に集合させた。
「森脇が投げられなくなった。投げられるのは8月以降とのこと。つまり甲子園に行かなくては、森脇は投げられない。そこで、誰を主戦として投げさせればいいか、みんなの意見を聞かせてほしい。」みんなは、下を向いて黙り込んだ。その時、センターで4番打者の鎌田が言った。
「僕らが守っていて、一番困るのは、フォワボールを出す事です。フォワボールを、出されるとリズムが狂います。その点で言うと、打撃投手をしている、2年生の永山が、コントロールがいいので、永山を立てるべきだと思います。」
すると全員が「そうだ。」とうなずいた。
急遽、主戦投手に選ばれた、2年生の三塁手で、打撃投手でもある永山。
強肩、制球力の良さを小沢も買った。一方で。小沢は次のように話す。「監督の私にも大きな責任があるんだけれど、松本には、その後大きな負担をかけさせてしまいました。」
『森脇に大けがをさせてしまった。』と一人で責任を背負い込んだ主将の松本。「どうか、監督さん。森脇を投げられるようにしてください。
もしも、この夏森脇が投げられなかったら、ワシは、一生涯森脇に頭が上がりません。どうか、監督さん、森脇を投げれるようにしてください。」と涙を流しながら小沢に訴えたのだった。小沢だけではない。
全選手にも泣きながら訴えた。「頼む。森脇を甲子園に連れて行ってほしい。」
その涙の思いがナインの心を動かす。森脇を「大舞台のマウンドへ」という思いが、大きく強くなっていったのだ。「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦うんだ。」ナインは奮起した。
こうして、県大会を迎えたのだが、初戦から延長戦になるなど苦戦の戦いが待っていた。

つづく
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新連載 熱闘甲子園 今昔物語1 伝説の記憶

当、HPでは「熱闘甲子園今昔物語」と題して、春の選抜と夏の大会の隠れたエピソードを含め、もう一度振り返ってみる事にする。その第一回は、あの大逆転劇となった倉敷工対報徳学園からスタートしたい。

甲子園の逆転劇の中でも、最高のミラクルは、1961年(昭和36年)の夏の事だろう。勝敗を超えて、今なお語り継がれる名勝負。奇跡の大逆転劇となった一回戦の倉敷工対報徳学園は、夏が来るたび今でも話題に上がる。
試合は、倉敷工永山、報徳は左の酒井の投げ合いで、0対0の息詰まる投手戦が続いた。先手を取ったのは倉敷工。延長十一回表。一死満塁から主将松本の二塁打で2点を奪うと、一気に打線が爆発。この回一挙6点。
倉工ナインはもとより、アルプス席を埋めた大応援団も、倉敷工勝利を疑う者はいない。勝負あり。甲子園球場のスタンドの多く、いや全員がそう思っていた。
甲子園だけでなく、日本中の誰もが、そう思っていただろう。
延長十一回裏、報徳の攻撃。せめて1点を。報徳ナインはそう思った。その回疲れが見え始めた永山が、2点を許すと、本来のエース森脇に交代。
永山は、三塁手についた。森脇が、四球と安打で1点を許すと小沢監督は、三塁手永山を、マウンドに送った。「自分の役目は終わった。ホットしていた。」と永山。緊張の糸が、すでに切れていた永山は味方守備の乱れも手伝って、一挙3点を失い同点となった。大きくざわめく甲子園球場。そして、延長十二回裏、1点を奪われサヨナラゲーム。
信じられない幕切れとなった。
手中の勝利を逃がした投手交代劇。奇跡的な逆転劇の陰にあった、「友情物語」と、「両チームの温情。」高校野球というステージだからこそ生まれたドラマであったと言えよう。

当、HPでは、この倉敷工対報徳学園戦の中に隠されていたエピソード等を含め、もう一度振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

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本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

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和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
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大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 32 最終回

この頃、倉工野球部OB会に派閥争いがあったのは事実。

昭和の時代、4季連続甲子園出場をはじめ、ベスト4三回、ベスト8二回など華やかな時代を知るOBにとって、ちょっと甲子園から遠のくと、どうしても現場の指導者に目が向いてしまうもの。筆者の私にも、「今の監督コーチらを代えて新しい監督スタッフで、甲子園を狙いたいんです。」との声を実際に耳にした事がある。監督和泉利典は、「ここで、甲子園に行かなければ、私も中山も辞めさせられたところだったんです。」と。
(高野連に、監督登録をすると、誰でも監督が可能)
和泉と、中山にとっては、まさしく背水の陣だったのである。それを見事、大願を果たした和泉と中山のコンビ。両名にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。(このチームで、甲子園2勝)ここで、倉工野球部を称える、新聞記事を紹介したい。

【もう一度甲子園倉敷工に期待】
倉敷市62歳主婦
十二月二十三日朝、ゆっくり洗濯物を干していたら、十人ほどの白いユニホーム姿の生徒が、ビニール袋と火箸を持ち、缶拾いをしている姿が、目に止まった。
近くに練習場がある、倉敷工業高校の野球部員だとすぐにわかった。地域の環境美化にと、月に一度はしているらしい。みんなで取り組む、「ささやかな行為」の、「なんと大きなことか」と、とてもうれしく感じた。五月には、地域住民が出て一斉に川掃除をする。「ゴミは捨てないよう。みんなで、川をきれいにしましょう。倉敷市。」と、立て看板があっても、缶にペットボトル、弁当や総菜を食べた後の空き袋。果ては、自転車の投げ入れまでと。心のない人々の散乱の跡がある。
地域を愛する彼らも、切なく感じていることだろう。
声を上げてのシートノック。砂ぼこりを浴びての泥だらけの駆け込み。勉強と野球と家族の声援を胸に、ナイターまでして練習に励む青春。甲子園出場の夢をまた見させて下さい。神聖な運動場に出入りの態度。脱帽しているささやかな姿を。
大きな声で、挨拶してくれる君らの声を、エリアの住民は、よく知っています。
山陽新聞(平成16年1月9日)より。原文のまま

筆者の私は、この記事(コピー)を、部長中山隆幸から、譲り受けたのだが余白の部分に、本人の直筆で次のように書いてあった。
『倉工野球部を讃える記事。大変喜ばしい限りである。もっと、心を使おう磨こう整理しよう強くしよう必ずや、すぐにも甲子園に行ってみせる。そして、皆様のご期待に答えられるよう全力をつくす。精進野球部長中山隆幸』
この感動を残したい熱き心の選手たちが、創り出す数々の感動ドラマは、生涯忘れられない思い出として心に残るであろう。
監督和泉利典部長中山隆幸にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。ちなみに、和泉は聖地甲子園で監督として7試合。中山は部長として7試合、監督として2試合、合計9試合を戦った事になる。伝統ある倉工野球部史において、和泉の試合数7は、歴代3位。中山の試合数9は2位という金字塔を打ち立てたのだった。

おわり

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

センバツ甲子園 11回延長 初戦突破ならず

第94回選抜高校野球大会に出場した硬式野球部の皆さん、手に汗握る熱戦をありがとうございました。
応援してくださった皆さん、ありがとうございました。
初戦突破とはなりませんでしたが、夏につづく一戦だったと思います。

今回のセンバツ出場に際し、後援会より同窓生の皆様に募金のご案内を送付させていただきました。
多数の方々に御協力いただきました。心より感謝申し上げます。
今後とも母校倉工を支援していくため、おいまつ会の活動に御理解御協力を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

藤井 チーム初安打で先制点 倉敷工「対応力」でしぶとく(山陽新聞)

倉敷工、センバツ初戦突破ならず 延長11回、和歌山東に2―8:山陽新聞デジタル|さんデジ (山陽新聞)

倉敷工 強打沈黙、9回まで2安打 エース奮闘も延長11回力尽きる(山陽新聞)

倉敷工のエース高山 気持ち乱れた「思わぬ落とし穴」 センバツ(毎日新聞)

センバツ2022 1回戦 倉敷工「攻めたぎる」貫く 延長で涙、奮闘にスタンド拍手 /岡山(毎日新聞)

第94回選抜高等学校野球大会開幕 福島貫太主将選手宣誓

第94回選抜高等学校野球大会が開幕しました。
開会式では、母校倉敷工業高校福島貫太主将が選手宣誓を務めました。
各社の報道をご紹介します。

センバツ甲子園出場に際し、同窓生の荒木竜二倉敷市議会議員が同席し、伊東倉敷市長から激励の言葉をいただきました。

センバツ開幕 倉敷工福島主将宣誓 「野球ができることに感謝」(山陽新聞)

センバツ 3回の“感謝”選手宣誓に込めた思い 倉敷工 福島主将(NHK)

【全文】倉敷工・福島貫太主将が堂々の選手宣誓 「ありがとう」が聖地に響く(Yahooニュース・高校野球ドットコム)

【センバツ】倉敷工の福島主将が選手宣誓「やりきれた。100点だと思います」(スポーツ報知)

センバツ開会式 選手宣誓の倉敷工・福島貫太主将「テーマは感謝」(Yahooニュース・センバツLIVE)

参考
倉敷工業高校甲子園試合成績

大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 31

当、HPは第85回夏の甲子園に出場した倉敷工の足跡をもう一度検証してみることにする。

【倉敷工8強届かず】

3回戦
倉敷工 000 000 000 0
光星学院100 010 000 2

倉敷工は、3回戦で光星学院(青森)に0対2で惜しくも敗れた。
エース陶山は、無四死球で力投したものの、相手投手の緩急をつけた巧みな投球に打線が、散発4安打と抑え込まれ、三塁を踏む事も出来なかった。
和泉利典監督は、「とにかく打てなかったですねえ。」
一方、中山隆幸部長は、「とにかく、打てそうで打てなかったんです。」とコメントした。

【最後まで逆転信じ】

三塁側倉工アルプススタンドを埋めた3千人の大応援団も戦っていた。
グランドの選手と一体となって、この試合も最後まで逆転を信じ大声援を送り続けた。先制点を許す苦しい展開を変えたいと倉工野球部3年石本勝志が、汗びっしょりになりながら大太鼓を打ち鳴らし続けた。
石本は、降雨ノーゲームになった駒大苫小牧との試合で、大雨による通行止めで、応援団が試合に間に合わず、8点差をつけられた段階で「もう、ダメかもしれない。」と、不覚にも泣き出してしまった。しかし、石本は諦めず、再試合で勝利した選手たちを見て「選手と一緒に戦っているという気持ちが足りなかった。」と気が付いたのだった。
石本は、「もう応援の手は止めない。」と心に誓ったのであった。

【応援団選手に心からありがとう】

逆転を信じる倉工スタンド。九回一二塁に走者を送ると総立ちになった。
最後の打者が、併殺に倒れると「ああー」という大きな悲鳴とため息が漏れたが、やがて大きな拍手に変わった。涙ぐむ人もいたが、多くは優しい笑顔でスタンド前に一礼する選手たちを迎えた。
「ありがとう」
「よく、やったあ」
慰労や感謝の言葉が次々とかけられた。
三塁コーチャー、そして伝令としてチームを支え、8回に代打で出た赤沢亮平の母親は「甲子園で打席に立つなんて緊張したでしょうね。今まで頑張ってきたから。」
また、応援団長西洋祐は、駐車場で涙が止まらなかった。
「ぼくらは、甲子園で応援できる幸せを貰った。選手たちには、心からありがとうと言いたい。」と話した。

―お知らせー

次回、32号で、山陽新聞に載った倉工野球部の活躍を讃える記事を紹介して『大願成就』を最終回とします。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」