第67回全国高等学校軟式野球選手権大会の組み合わせが発表されましたので、お知らせします。
倉敷工業高校は、8月24日(水)10時 明石トーカロ球場の予定です。
※詳細は日本高等学校野球連盟のHPでご確認ください。
第67回全国高等学校軟式野球選手権大会の組み合わせが発表されましたので、お知らせします。
倉敷工業高校は、8月24日(水)10時 明石トーカロ球場の予定です。
※詳細は日本高等学校野球連盟のHPでご確認ください。
夏が来る度、話題に上がる『倉敷工業 対 報徳学園』の一戦。
勝敗を超えて、語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡的な大逆転の裏に隠されていた友情物語。
そして、指揮官と選手との深い絆と信頼。
この倉敷工業と報徳学園戦は、高校野球が続く限り、永遠に語り継がれていくことだろう。
また、倉工にとっても、大きな財産である。
今回は、その後の二人の活躍ぶりに注目してみた。
【鎌田豊】
卒業後、法政大に進学。東京六大学リーグの在学中3回の優勝を経験。1963年秋季リーグで、慶応大との優勝決定戦を制する。
同年春秋ともに、ベストナインに選出される。
打率0.240、4本塁打、30打点。ベストナイン2回。1965年広島カープから3位指名を受け入団。走攻守とも優れた中距離打者として期待され、67年一軍に定着。五番打者として起用される。26試合に先発出場を果たす。その後、肩の故障もあり、1970年に引退。
18年間、倉敷で中古車販売をした後、1990年から千代田火災海上に勤務した。
【槌田誠】
報徳戦で、サヨナラ負けのホームインを某然と見送った槌田。
卒業後は、立教大に進学。4年時の1966年春季リーグで4番打者として、戦後2人めの三冠王を獲得。ベストナイン2回。
ドラフト1位で、巨人に入団。
大洋戦で敗色濃厚の時だった。巨人宮田投手の代打に起用された。
この時、自身プロ入り3打席めであったが、大洋森中投手のストレートをライナーで左中間席に打ち込んだ。槌田の初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。
控えが多かったが、ここ一番という時、代打の切り札として起用され、巨人V9の一翼を担った。
その槌田が、一試合3本塁打という離れ業を演じたのは、昭和49年3月。倉敷で行われた阪急とのオープン戦だった。その内の一本は、場外の彼方へと消えた。あの夏の辛い記憶と共に場外の彼方へだったのだろうか。故郷の大観衆が送る喝采の中、槌田は晴れやかな笑顔で、「親孝行ができました。」と胸を張った。
3本のホームランの中、1個のホームランボールが、今でも倉工校長室のショーケースの中に大事に飾られている。
(お願い)
当HP、カテゴリーの中、大分類「校長室のボール槌田誠物語」を参照して下さい。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会
↓このあたりをクリックしてください。校歌が流れます。(PCは自動再生です。)
第67回全国高校軟式野球大会の、東中国大会決勝を観戦しました。
大会は、倉敷マスカット球場で行われ、倉敷工が4対0で鳥取工を下し、7年ぶり9度めの本大会出場を決めました。
9度目の本大会出場は、岡山県からは、最多記録を更新だそうです。
鳥取工000 000 000 0
倉敷工201 010 00X 4
投打が、嚙み合った倉敷工が快勝した。
一回、前田の中前打を足場に、2死二三塁とし、エース左腕中野の右前打で2点を先制。三回は、中野の右越え三塁打。五回は、中野、横張の連続二塁打と長打攻勢で1点ずつを加えた。
エース中野は、快速球と切れのあるカーブを武器に、散発2安打、1死球、13奪三振で完封。
準優勝に泣いた昨年から主力が7人残り、新チーム結成後は、周囲の期待も高かったが、コロナの影響もあって思うような結果を出せなかった。
しかし、そんな中でも目標を失わず地道に鍛錬を重ねた。
準決勝の玉島戦で、大会屈指の好左腕を攻略。蓄えて来た力を集大成の大会で発揮したと言えよう。(8月4日付、山陽新聞を参考)
スタンドの最前列で戦況を見つめる倉工軟式野球部マネージャーの間野惺羽(さわ)さん(T2)は、
「毎日暑い日が続くので、選手の水分補給に一番気を使います。」
今年のチームの特徴を聞くと
「練習の時の声が大きいです。冬場から攻撃力に力を入れて来ましたから。やはり攻撃力が強いと思います。」
「42年前の、倉工軟式野球部OBです。ポジションは、セカンドでした。現在、愛知県で高校、大学の審判をしています。全ての人に感謝し、リスペクトし、全員野球で頂点目指して頑張れ倉工。」
秋岡義典(昭和55年卒E科)
軟式野球部が東中国大会で見事優勝し、7年ぶり9度目の全国大会の切符を手に入れました。選手の皆さん、保護者の皆さん、監督をはじめ指導者の皆さん、おめでとうございました。
第67回全国高等学校軟式野球選手権大会は、8月24日~29日に兵庫県明石トーカロ球場、姫路球場で開催されます。
軟式野球部の全国大会出場までの軌跡をまとめてみました。
高校軟式野球岡山大会16日開幕 「東中国」懸け14チーム争う
(2022年07月15日山陽新聞デジタル)
総社と倉敷工 東中国大会へ 全国高校軟式野球岡山大会
(2022年07月20日山陽新聞デジタル)
倉敷工が軟式野球東中国大会制す 7年ぶり9度目、岡山勢最多更新:山陽新聞デジタル|さんデジ (sanyonews.jp)(2022年8月3日山陽新聞デジタル)
【軟式】第67回全国高等学校軟式野球選手権東中国大会 優勝 倉敷工業高校
(2022年08月03日岡山県高等学校野球連盟HP)
(報徳学園戦の)「あの夜、小沢監督は夜遅くに帰って来たんです。」と内野手だった岡田(現倉工野球部OB会副会長)
「夜中の、11時頃だったと思いますよ。」
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、選手全員小沢監督の帰りを待っていた。
しかも、全員正座をして。「私は、その場に出くわして、私も正座をして、両手をついて申しました。」「(森脇に後を託す意味からも)あの時、永山をベンチに下しておくべきだった。」小沢監督は自分の采配ミスを、選手に謝ったのだった。
そして「申し訳ない。お前たちを、勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったら、お互いことわりをしよう。『どうも、すみませんでした。』と。わしは何回も謝る。君らも、一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を噛みしめて甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」そう言うと小沢監督は、両手をついて、頭を下げた。これに対して、主将の松本が「森脇を、出してくれてありがとうございました。」
すると、全選手が、「ありがとうございました。」
小沢監督の目に光るものがあった。采配ミスを謝る小沢監督に対し選手たちは、逆に「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したのだ。名勝負を飾るのに、ふさわしい友情ドラマ。
小沢監督は、負けたにもかかわらず『監督冥利につきる、試合だった。』と話した。
しかし、それ以上に勝負の世界は非常だった。小沢監督は、その後何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して、選手を責めなかったという。情に熱い人格者でもあったのだ。
報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。外野手の土倉は「森脇が投げられるとは思っていなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあとずっと思っていた。甲子園で彼が投げた時は嬉しかったなあ。」
【全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。すべての責任は、私にある。どんな非難も、私一人が受け止める、それよりかは甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かしてほしい。】
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会
倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7
勝敗を超えて、今日までも語れ継がれる名勝負。
昭和36年夏の甲子園。奇跡の大逆転となった倉敷工業対報徳学園戦は、夏が来る度に話題に上がる。手中の勝利を逃した、投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのだ。
ナインの気持ちは、一つ。
「森脇を、甲子園に連れて行く。」
そして「森脇と共に、甲子園で戦う。」
ナインの気持ちは、早くから、小沢監督にも伝わっていた。
「全員が、森脇を大舞台のマウンドへ。という思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と主将の松本は言う。
その松本(故人)が、十一回先制点となる二塁打を打ち、「森脇を登板させてやってください。」と小沢監督に直訴。
こうして、あとアウト1つを残して投手交代は実現。
この場面は、小沢監督(故人)にとって脳裏に焼きついて離れられないという。
松本は、八回九回頃になった時、ベンチに帰って来ると「森脇を、森脇をお願いします。」と小沢監督に。
そして、十一回表だった。
「では、打って来い。森脇が投げられる状況をお前が作って来い。」
こうして迎えた、十一回表だった。松本は、先制点となる二塁打を打ったのだ。この時だった。小沢監督は、次の様に話す。
「二塁打を打った松本が、何と二塁ベースの上に正座して、手を合わせて『監督さん』と呼びかけた松本の姿に、私は身体が震えました。」
松本らナインは思いを小沢監督にぶつけたのだった。
しかし、ようやく球威を、取り戻し投げられるようになったばかりの森脇にとって「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」永山の再登板はあまりにも酷だった。
この時の、ラジオ中継のアナウンスは「永山疲れました。永山疲れています。」と絶叫している。
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、ナイン全員が、小沢監督の帰りを待っていたのである。しかも、松本ら全員は、正座して小沢監督の帰りを待っていた。
つづく
随時掲載
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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
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11回裏報徳、背番号13の平塚を代打に送る。
沢井監督の温情だったがその平塚、三塁への内野安打で出塁する。
一死後フォアーボールで「一死一塁二塁」
ここで、5番清井ライトへヒット。
平塚、思い切ってホームへ。
うまく回り込んで、間一髪セーフ。『6対1』初陣報徳が、初めてホームを踏んだ。
次打者吉村のファーストゴロで2点目。『6対2』まだ4点差ある。
「二死三塁」小沢監督はここでエース森脇をマウンドへ。
永山は、三塁手に就いた。
森脇、1ボール2ストライクと追い込む。
勝負の1球。外角への渾身のストレート。
決まったかに見えたが、主審の判定は、ボール。この1球からフォアボール。
次打者貴田のレフト前ヒットで『6対3』
ここで、再度永山がマウンドへ。
火のついた報徳を誰も止められない。
連打を許し走者が溜まる。
1番内藤センター前ヒットで、2人ホームイン。『6対4。6対5』アウト1つが遠い倉敷工業。瞬く間に1点差となる。
場内騒然の中2回目の打席となる代打の平塚。今度は、センター前ヒット。
センター鎌田バックホーム。
二塁ランナー東は、三塁で止まった。
ところが、捕手槌田が、後逸。それを見た東がホームを踏んだ。
『6対6』の同点となる。
12回裏二塁打した藤田を、清井の二塁ゴロで三塁へ進める。『一死三塁』
小沢監督は、二人の打者を敬遠して、満塁策を取る。『一死満塁』
大きく報徳に傾いた流れを誰も止められない。
次の打者貴田がライトへ。土倉、飛び込んで取ろうとするが、ボールがグローブをかすめた。『6対7』
倉敷工業サヨナラ負けとなる。
(逆転の報徳)と言われたフレーズは、こうして生まれた。
温情用兵が報徳には幸運を、倉敷工には不運を呼んだ劇的な試合であった。
しかし、小沢監督は、負けたにもかかわらず「監督冥利に尽きる試合だった。」と話した。
手中の勝利を逃した投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのである。
つづく
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本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
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春夏合わせて6回の甲子園出場を誇る倉敷工業と、春夏合わせて初出場の報徳学園の試合は、球史に残る壮絶な戦いになった。
倉敷工業の先発は、二年生の永山。報徳学園は、左腕酒井。
5回裏、倉敷工業小沢監督は、内野手控えの岡田を呼んだ。
「森脇とキャッチボールをしてやってくれ。」
森脇と岡田がキャッチボールを開始する。
9回表二死から、4番鎌田、3安打目となるレフト前ヒットで出塁。「二死一塁」
鎌田盗塁成功。「二死二塁」
5番松本レフト前ヒット。
セカンドランナー鎌田ホームに突入するも、報徳レフト大野の好返球で鎌田タッチアウト。
得点を与えず、初出場ながら報徳落ち着いたプレーを見せる。
9回裏報徳、倉敷工業永山に対し、散発4安打に抑えられる。
10回裏ヒットとフォアボールで、一塁三塁の報徳。
2安打の内藤が永山の前に投手ゴロで報徳サヨナラの好機を逃す。
11回表倉敷工業が襲いかかった。
一死から中村フォアボールで出塁。「一死一塁」
槌田の当たりは、ショートゴロ。
Wプレーを焦った二塁手がキャッチできずボールがライトに抜け「一死一塁三塁」
ここで、報徳沢井監督は3安打の鎌田を歩かせ、敬遠策を指示。「一死満塁」
これが裏目に出た。
ここまで2安打している、5番松本が、打席に立つ。
松本レフトオーバーフェンス直撃の、二塁打で『2対0』「一死二塁三塁」
土倉のショートゴロだったが、バックホームするも、高くそれてフィルタースチョイス。三塁走者鎌田ホームイン。『3対0』「一死一塁三塁」
白川のスクイズで、『4対0』続く高橋のサードゴロをファーストへ、高い悪送球で『5対0』堅実な守備を見せていた報徳が、二本目のエラーを喫し守備の綻びが出る。
永山三遊間を抜くヒットで続く。報徳ベンチ、ここで好投してきた酒井から、本来のエース東に投手交代。
倉敷工業得意のWスチールを決め『6対0』となる。
倉工三塁側、応援アルプススタンドをはじめ、甲子園のいや日本中の誰もが倉敷工業の勝利を確信した。
つづく
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本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
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山陽新聞社「灼熱の記憶」
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瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
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和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
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岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会
(当時)一年生で報徳学園戦を、応援に行っていたという生田岩雄さん(昭39年卒C科現おいまつ会副会長)に、その時の応援について、お話をお伺いする事ができました。お話によると、応援席はもとより、甲子園球場は超満員だったそうです。そして、両校ともに物凄い応援合戦だったとの事。そこで、生田さんに、どのような応援合戦だったのか尋ねてみました。
「歓声一丁」と男子リーダーが大声を上げる。すると、応援席から「おうー」と歓声が上がる。その歓声は「地鳴りの様な歓声が響き渡った様な感じでした。」と生田さん。続いて、太鼓に合わせて一拍子の手拍子が始まり、次に二拍子の手拍子、そして、三拍子の手拍子と進んで行く。次に、男子リーダーが「337拍子」と声を張り上げると、鉢巻きに倉工学生服の男子リーダーが、両足を大きく広げ、その足を90度に曲げ、両手の握り拳を太鼓の「337拍子」に合わせて交互に前に突き出して応援団を鼓舞。すると、三塁側倉工応援アルプススタンドは最高潮に。そして、最高潮のアルプスは、さらにヒートアップして行く。
次に、揃いの帽子に応援ユニホームの男子リーダーが、横一列に並び、両手を上げた。
一瞬の静寂が走った。
「母校の勝利を祈って、校歌斉唱。」
すると、倉工生徒は全員帽子を右手に持って立ち上がった。演奏が始まると、校歌に合わせて右手の帽子を上下に振って行く。
一列目は右に動き、二列目は左に動き、以後各列は交互左右に動き、校歌を熱唱。
揺れる三塁側アルプス。男子リーダーは、校歌に合わせて、両手を上下左右に振り、アルプス席を鼓舞。
【水島灘の沖ゆく白帆も】
「このブラスバンドは、倉敷市内の中学高校からの友情応援だったようです。とにかく、倉工一丸の応援だったですね。」と熱く語ってくれた生田岩雄さんでした。
やがて、この応援スタイルは、昭和42年選抜で初披露となる「桃太郎」の応援へと、受け継がれて行く事になる。「桃太郎」の応援とは、当時、倉工音楽部だった木村義夫(現おいまつ会副会長)と木元太一(トニーエバンス楽団スイス国在中)の両名によって作り上げたもの。
当HPカテゴリーの中(投稿)の中で、『名物応援桃太郎誕生秘話』として紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。(2016年9月3日投稿)
試合は、0対0のまま五回に入った。小沢監督は、内野手控えの岡田(現倉工野球部OB会副会長)を呼んだ。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売、放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会
「やったぞ、甲子園じゃ」
「甲子園に行くぞ」
「森脇甲子園へ行くぞ」
感激にひたる倉工ナイン。
そして、ナインの心は、ひとつ。
『森脇を、甲子園に連れて行き、森脇とともに甲子園で戦う。』
日々の練習に、ますます気合い、闘志が漲る倉工ナイン。
松本は、胸をなでおろすと共に、一段と闘志が沸き起こっていた事だろう。
そんな時、ナイン待望の朗報が舞い込む。
『エース森脇が、投球練習が可能となった。』
役者は、揃いつつある。
ナインは、さらに闘志を燃やす。
こうして、迎えた第43回全国高校野球選手権大会だった。
初戦の相手が決まった。
初出場で、兵庫代表報徳学園。報徳は、創部30年め。
兵庫大会決勝で、県尼崎を2対0で破って念願の甲子園を射止めた。
1961年(昭和36年)8月13日。大会3日め、第3試合。
倉敷工対報徳学園
甲子園は、超満員。
一塁側報徳学園の応援スタンドでは、男子リーダーが両手や両足を上げて気合十分の応援態勢。
一方、倉工三塁側応援スタンドでは、「ファイト倉工」の横断幕が風にたなびく中、倉工学生服に身を包み、鉢巻きした男子リーダーが、両足を大きく広げ、両手の握り拳を、太鼓に合わせ、交互に前に突き出し、相手をねじり伏せるかのよう。
また、揃いのユニホームの男子リーダーが曲に合わせて、両手を広げたり、上げたり下げたりして、大応援団を鼓舞。
その曲とは何か。当時、一年生で応援に行っていたという、生田岩雄(現おいまつ会副会長)は、次のように言う。
「とにかく、校歌校歌の連続でした。今のような曲は、なかったんでね。とにかく
校歌の連続でした。」【水島灘の沖ゆく白帆も】「とにかく、両校すさまじい応援合戦でした。」と生田は当時を懐かしむ。
試合は、嵐の予兆を隠しながら、静かな投手戦で進んだ。
報徳は、左腕酒井葵三夫。
倉敷工、永山勝利の先発。試合は、0対0のまま延長に突入する。
つづく
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本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
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