春風爽快 キセキの春 6

久しぶりに、当HPが、倉工グランドに、立ち寄ってみた。驚いた。びっくりした。
何がびっくりしたか。それは、選手の体格が、大きくなっていた事。思わず、監督中山隆幸に、話しかけた。「みんな、大きくなったなあ。」久しぶりとはいえ短期間での事。何が、そうしたのだろうか。「練習が、終わったら、まずは、食べる事。」中山の、声が響く。選手は、女子マネージャー二人が、どんぶりに盛ってくれたご飯に駆け寄って来る。ふりかけを、かけただけだが、みんなおいしそうにほおばる。約3時間の練習後に、見られる光景。他校に比べ、小柄だった倉工選手。「体格の違いからくるパワー不足は、明らか。」と部長を13年間も努め、2度の夏の甲子園を経験した中山は言う。中山は、スポーツ栄養学を受講。「練習後、すぐに食べる事が良質な筋肉作りに、繋がる。」と中山。粉末のプロテインを取るチームもあるが「ご飯を、しっかり噛んで食べる。選手として、身体を大きくする事。食べる事の大切さを学んでほしい。」
狙い球を決めて積極的なフルスイングがチームのモットー。打撃練習を見ながら指揮官は「スイングが力強くなってきた。打球に鋭さが増し、飛距離も出て来ている。」と。
指揮官の(食育)にも通じる指導は、選手に意外な変化をもたらした。
ある選手の母親が言った。「間食や好き嫌いをしなくなり、送り迎えをする時小さな声で【ありがとう】と言ってくれるようになった事がうれしくて。」
体格だけでなく心のたくましさも感じさせていく倉工選手。
確かな足取りで、新化して行く倉敷工。
こうして、迎えた(2008年秋)岡山県西部地区予選だった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 5

「すまんなあ。本当は、もっと強くして渡さんといけんのに。」倉敷工監督で、今季(2008年)から、総監督に就任した和泉利典が、新監督の中山隆幸に、語りかけたのだった。秋の新チーム(2008年)の、2年生は岡山県一年生大会で、県内でも全く実績のないチームに、一回戦で敗れるという屈辱を、味わっていた。この一年生大会は、優秀校になった場合、甲子園に出場するケースが多い事で知られている。平成8年の倉敷工は、その一年生大会で優秀校に輝いていて、見事に夏の甲子園に出場している。(当HP、捲土重来平成8年の夏を参照して下さい)
ある日、当HPが、倉工グランドに立ち寄って、秋の新チーム(2008年)の状態を見た。選手の身体が小さい事に、驚くと共に打撃力のなさに、気づいた。打球が、遠くに飛んでいない。中山が、ノックを始めた。失策も多い。『打てない』『守れない』という、状態だった。

こうした中、一人の選手に注目が集まった。キッパリとした、物言いと、強いリーダーシップで、チームをまとめようと、必死さが伝わってくる選手。主将で、捕手の頼宏樹だった。その頼が、ある選手に、キッパリとものを言い指示をした。するとそこにいたOBが、「ナイスアドバイスじゃ。」頼は、グランド内外で、チームを牽引。バットコントロールも良く、指揮官が、一番打者として、切り込み隊長に指名。また、野球を良く知っている。指揮官が、最も信頼を寄せる選手でもある。

夏の、岡山県大会一回戦。倉敷工は、おかやま山陽に、10対11でサヨナラ負けを喫す。強敵とはいえ、まさかの初戦敗退。屈辱的な、敗戦は新チームにも、暗い影を落とした。しかし、不安と危機感が増す一方で、少しづつ選手の意識が、変わり始める。【自分たちは、力がない。開き直ってやるしかない。】弱いと自覚しているからこそ、懸命に練習して行く倉工ナイン。何度も、ノックを受け、バットを振り込み、9月の西部地区予選、10月の県大会に備えた。当HPは、今日も倉工グランドに、立ち寄ってみたが、主将頼宏樹の、あごは汗が、いや、倉工選手全員から、したたり落ちていた。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 4

白壁が美しい美観地区を見下ろす、鶴形山の阿智神社。この阿智神社は、倉敷総鎮守の宮である。10月の、秋季例大祭では阿智神社の御神幸は、美観地区から、倉工正門倉敷駅倉敷みらい公園周辺を巡回。この、御神幸を白装束に身を包んだ、倉敷工野球部員が地域貢献活動として、参加している。こうした中、倉敷工野球部に、半世紀以上に渡って続く伝統の、猛練習がある。その猛練習とは、この阿智神社の石段183段を、選手が全力で駆け上がる事。ランニングで、約10回駆け上がるのが、準備運動。その後は、石段、境内の坂道ダッシュと続く。
そして、個々に設定した、目標時間が達成できなければ、30回の腹筋運動が、待っている。毎年、選手たちは口を揃えて言う。
『正直言って、きついです。だけど、下半身が強くなり、これだけ走ったという、自信が生まれた。達成感もある。』この、阿智神社での、猛練習の事を、通称【山】と、呼ぶ。OBが「山は、二度とごめんだ。」と、口を揃える冬場の【山】。昭和50年春の選抜に出場した、コーチの神土秀樹は、「当時も、練習は山が、中心でした。」そして「ほぼ、毎日山を、走りました。野球の練習で、山が、一番きつい練習でしたね。山が、いやで退部する部員もいました。」「山は、慣れたか。」監督の、中山隆幸が選手に、問いかけた。その答えが、成果のバロメーターであろう。「技術より、全ての土台となる精神的な部分を育てたい。」と、中山。
OBの多くは、「山は、思い出したくない。」と、言う。それでも、少しづつ、「慣れました」と、答える選手が増えて行く事に、手応えを感じる事だろう。たゆまぬ努力は、結果になる。
地域貢献といえば、もう一つある。倉敷工野球部は、地域の清掃奉仕活動にも、汗を流している。「倉工甲子園に、行けよ。頑張って。」と、市民から、声を掛けられる機会もあり、地元の期待を、肌で感じながらの、奉仕活動である。この奉仕活動は、以前からあったのだが、中山が、監督に就任してから「もっと、地域から愛されるチームに、なろう。」と、範囲を拡大。週末の練習後、部員たちは、ユニホームのまま、倉敷駅から、倉敷市営球場まで足を、伸ばす。選手たちは、道端の、たばこの吸い殻や、用水路に浮かぶ空き缶を、火ばさみで、ビニール袋に手際よく回収して歩く。倉工グランドに住む、主婦からは、「礼儀正しく、清掃以外の時も、会うと必ず挨拶してくれて、気持ちがいい。ぜひ、甲子園に行ってほしい。」と、エール。選手は「感謝してもらうと、本当に力が出る。地元のためにも、絶対に甲子園に、行く。」と、意気込む。中山の、意図は『甲子園出場』だけではなかった。【地元から、愛されるチームになろう。】が、そこに、あった。

つづく 随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

 

春風爽快 キセキの春 3

倉敷工、校舎の西 約400mの距離にある 野球部専用グランド。

通称 「第2グランド」 は、84年9月に完成した。野球好きの校長の意思が、野球部専用練習場を生むきっかけとなった。倉工グランドは、かつて 野球、サッカー、ラグビー部が一度に練習していた。打球が、サッカー部員の後頭部に直撃して、救急車で運ばれる事もあった。さらには、ファールボールがテニスコートに飛ぶこともあり、「危ないっす、危ないっす」 の声に、テニス部員は、頭をかかえてしゃがみ込む事も。こうした光景に眉をひそめたのが、77年4月に倉工に赴任した貝原輝明校長(当時)。大の野球好きだった。「貝原校長は、校長室にいなければ、大体グランドにいる野球好きだった。」 こう語るのは、次の福田憲治校長(2009年)。

校舎の周囲は、住宅地であり、拡張工事は不可能。新たな土地探しが始まった。

「地権者からは、『私の家は女の子ばかりで、今後は倉工にお世話になる気はない。土地は、

売るつもりはない。』という冷たい反応ばかりでした。(貝原校長の自書より)」

地主に頭を下げる一方、保護者や教職員が寄付金集めに奔走。計画から完成までに5年。

建設費 約5億円がかかった。

貝原校長 在職中の9年間は、甲子園とは無縁だったが、退職した年の86年、倉敷工は

夏の岡山大会を制し、18年ぶりの甲子園出場を果たす。球場(岡山県営球場)にいた貝原前校長は、駆け寄った、倉工ナインから 何度も何度も胴上げされた。そして、涙が止まらなかったという。「野球部が伸び伸びと思う存分練習できる専用の第2グランドを作ってやってよかった」(貝原校長の自書より)。06年 貝原校長は、81歳で他界。

『野球部を伸び伸び練習させてやりたい』 貝原校長(当時)の思いが叶った第2グランドだったのである。

忘れまじ、倉工第2グランドを作った校長 貝原輝明を。

つづく 随時掲載

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参 考

山陽新聞

毎日新聞

(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協 力

小山  稔氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

神土 秀樹氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

和泉 利典氏 「元 倉敷工業高校野球部 監督」

中山 隆幸氏 「前 倉敷工業高校野球部 部長 監督」

春風爽快 キセキの春 2

2008年、20年間倉工野球部監督を努めた和泉利典が、総監督に。そして、部長の中山隆幸が監督に就任する。また、中山の一学年上の和泉と二つ先輩のOB神土秀樹がコーチに。3人は現役時代同じ倉敷工のユニホームを着て白球を追った間柄。同じ絆で結ばれたスタッフが、新たな伝統を築くのだ。昭和50年春の選抜甲子園に出場した神土。開会式直後の開幕試合で中京大中京と対戦。壮絶な戦いで16対15の勝利を飾り、二回戦では、猛打東海大相模と対戦し0対1で惜敗した時の正ショート。(新2年生)【当HPおいまつ会トップページの中『風雲の奇跡涙の甲子園』を参照して下さい。】神土は、卒業後社会人野球川崎製鉄水島「現JFE西日本」に入団。川鉄水島にとって社会人野球最高峰の大会都市対抗に出場するのは悲願の中の悲願だった。
迎えた、昭和59年都市対抗中国地区予選代表決定戦。4対3と川鉄水島がリードしていた。8回表二死ランナー1.3塁で神土が打席に入った。祈る思いで、大声援を送る川鉄水島の大応援団。すると神土の一撃は、レフトオーバーの3ランホームランとなった。都市対抗出場が決定的となった神土の3ランホームラン。「3ランホームランを打って、一塁ベースの所でヘルメットを取って持って走っていました。僕は、公式戦、練習試合を含めて6本しか打ってないんです。その1本があの時の3ランなんです。」奇跡のようなプレーが起こるのは、それを呼び込めるだけの努力をした選手だからである。こうして、倉敷市代表として川崎製鉄水島は、都市対抗に初出場した。神土は、18年間も野球部に在籍。終盤の5年間はコーチ兼任で活躍。今現在でも社員の中では、『神土の3ラン』として語り草となっている。神土は、職人かたぎで不調の選手を見つけると付きっ切りで面倒を見る。
中山が、監督に就任した時、こう切り出した。「スピード重視で行こう守備は早い動きで常にダブルプレーを狙い、攻撃では早いカウントから好球必打で。」を提案すると中山も「自分もやりたかったんです。」と意気投合。これでチームの基本方針が決まった。現役時代、中山と一塁でノックを受けていた和泉は「自分は補佐役。長く部長として支えてくれた中山を今度は自分が支える番。」と。
また、倉工野球部部員の父親で立ち上げた(バス友の会)。順番で、運転手を務め選手を遠征に連れて行く。中には、わざわざ大型免許を取得した人もいるほどの熱の入れよう。長く先輩たちが大切にして来たグラウンド内外の支援の輪が伝統校を支えて行く。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 1 新連載

甲子園で、数々のドラマを演出して来た倉敷工。当HPでは、そのドラマを連載として出して来た。まず、第1弾は対報徳学園戦。無得点で迎えた延長十一回、倉敷工が6点を奪い勝負は、決まったと思われた。ところがその裏、報徳が猛反撃で追いつき同点に。そして延長十二回に決勝点を奪う大逆転劇を演じた。延長十一回2死で、投手永山から、エース森脇に、交代したのが敗因と、言われた。しかし、県大会直前の練習中に、大怪我をした、森脇に、甲子園で、投げさせてやろうというナインの思いが、地区予選突破の、原動力だった。「負けたけど、あれでよかった。」と、永山は言う。
その、友情物語を描いたのが、『昭和36年のドラマ』。敗者の美しさが、そこにある。第二弾は、昭和4243年の春夏と、4連続甲子園出場した時の立役者で、エース小山稔を、主人公とした『青春ヒーロープレイバック』。
「昭和43年夏の準決勝。対静岡商戦の朝、歯を磨こうと思っても、手が上げられない状態。勝ち負けより、投げられるかが、心配でした。しかし、自分の力を出し切って悔いは、ありません。」と、小山。母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山稔の、3年間の完全燃焼物語である。第三弾は、監督として全国に名を馳せた小沢馨の、選手時代から、小沢監督最後の、甲子園を描いたのが、『風雲の奇跡』。
この『風雲の奇跡』は、三部構成とした。その一部は、倉敷工が、甲子園初出場した時の物語で、『風雲の奇跡初陣倉敷工』。二部は、一部に登場した人物をより具体的に表したのが『風雲の奇跡よみがえれヒーロー』そして、三部は、甲子園最後となった監督小沢馨の『風雲の奇跡涙の甲子園』。名監督小沢馨の、選手時代から、監督最後までの物語である。第四弾は、10年ぶり8回めの「夏」を決めた物語『捲土重来』。
この『捲土重来』も、二部構成とした。その一部は、復活に燃える倉工ナインを描いたのが、『捲土重来平成8年の夏』。二部では、その甲子園出場までの道のりを描いたのが『捲土重来復活への道』。倉工野球の意気と誇りと、苦闘の日々の団結が、そこに見える。
【これらは、当HPで、おいまつ会のトップページ、カテゴリーの、中にあります。】
当HPは、夏の甲子園を主に描いて来たが、今度は、春の選抜甲子園に、目を向ける事にした。大銀傘が、架け替えるなど、リニューアル工事で生まれ替わった阪神甲子園球場に、32校が集う(81回選抜高校野球大会)に、スポットを当てる。2009(平成21)、倉工校長室に、待ちに待った春の便りが、やって来た。「謹んでお受けします。頑張ります。」緊張気味に、電話を、取った福田憲治校長は、すぐに表情を緩ませた。そして、福田校長は、その吉報を、グランドで待つ倉工ナインに、快挙を報告した。
「感謝の気持ちを、忘れず粘りの倉工野球を甲子園でも見せてほしい。」と、激励。各ナインは、何度もガッツポーズを繰り返し、帽子を空高く投げ上げて喜びを爆発させた。実に、選抜出場は、34年ぶりの出場。この年の、開会式の入場行進曲は、【キセキ】だった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きますことを、ご了承下さい。

参考
山陽新聞社
毎日新聞社

協力
神土秀樹氏(前倉敷工業高校野球部コーチ)
中山隆幸氏(前倉敷工業高校野球部部長監督)