新連載! 風雲の軌跡 初陣倉敷工

監督 小沢 馨物語

 

戦争の爪痕が、色濃く残る昭和24年。

感激の初陣を果たしたチーム。倉敷工業野球部。イ草の香りが風に乗って

鼻をくすぐる白壁の町倉敷。小さな町のチームが、大きく確かな第一歩を

大甲子園へ。昭和16年に創部された倉工野球部は、戦中廃部。

22年に、野球好きが集まって再結成された。その中心となったのが、野球の

申し子 小沢 馨。小沢が、一人一人に、「 野球をやろう 」と、呼びかけた

のが、切っ掛けだった。そして、やっと9人揃ったところで校長室に行った。

すると、校長は 「 お金のかかる野球は、やらない。 」との返事。それでも

小沢ら、野球の申し子たちは、こずかいを出し合って、ボールやバットを買って

同好会的な形で、練習を行っていたという。野球を愛する人が、自ら結成

したチームだった。そんな活動が認められて、昭和22年新しく野球部を作る

事になったのである。早速、野球部部長は 玉島商OBの 三宅 宅三氏

に、監督をお願いした。三宅は、六尺越えの、伝説の豪傑。昭和21

第一回京都国体軟式野球大会 準優勝。また、陸上競技 砲丸投げの

選手でもあり、同大会で、第三位。港町玉島に陸揚げされた、一個の白い

ボールが、数々のドラマを築いて行く事になる。戦後、 玉島商OBで結成

された野球団、玉島モタエ倶楽部は、堂々の国体決勝進出。

京都国体。それは、死地から生還した当時の若者の、夢舞台でもあった。

玉島モタエ倶楽部野球団は、千年の古都に足跡を残す。

その中心選手 三宅 宅三 。新興 倉工は、三宅 宅三監督就任で

甲子園を、目指すことになった。

 

    つづく   随時掲載

 

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

       山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏 

青春ヒーロー プレイバック 16 ( 最終回 )

小山 稔物語
甲子園から宿舎まで徒歩で帰っていた。小沢監督は、角野に続いて小山に歩みよった。
そして、小山の肩をポンポンと叩いた。「 小山、三年間ご苦労さん。小山、おまえ三年間
本当に良く頑張ったな。今日も肩が痛いのに、良く投げてくれたよ。ナイスピッチングだったよ。」
恩師、小沢監督から初めて受ける ねぎらい と 感謝 の言葉だった。
母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。その言葉に小山は、【 エースの喜びを知り
完全燃焼の涙を流したという。】 ケレン味ない絶妙の投球と、強靭な精神力。小沢監督
に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた甲子園 97 イニング。彼には、40年の
岡山東商に四滴する栄光が求められた。結局母校に、大優勝旗をもたらす事はできなかったが
小山が挙げた 甲子園での勝利数7 を抜く投手は県下に今だに現れていない。
「 黄金の左腕 」と、呼ぶのふさわしい、大エースだった。
心の豊かさ。それは夢を失わず、夢を持って生きる事。決して本調子でなくても、序盤に打ち込ま
れても、投げ続けるのがエース。マウンドを守り続けるのがエース。人生も、またそうなるべきである。
黄金の左腕 小山 稔。彼の青春には、運命のいたずらと、破綻の恐怖が付きまとった。
それでも、夢を見たのである。もしも、あの時繰り上げがなかったら、その後の甲子園の結果は
違っていたかも。「 あの繰り上げ出場がなかったら、甲子園優勝はもとより、日本を代表する
投手に、なっていただろう。 」と、小沢監督は言う。 「 投手生命は、短ったけど、あの舞台で
あそこまで投げれて、満足です。」と、小山。その後、小山は社会人野球の強豪 河合楽器
に行くが、間もなく現役を断念。倉工コーチを経て、野球用品関連の仕事をする。
事業のかたわら、少年たちを指導する、 野球道場 を主宰。技術だけでなく、礼儀、道具の
大切さ、そして野球を愛する心を、説いている。黄金の左腕は、キズついても心は常に野球と
共に。「 いい仲間と、倉工のグランドでせい一杯やれました。野球としての悔いは全くありません。」
と、言い切る小山。そして、少年の日と同じ目の輝きを持ち続けている。小山の夢は終わらない。
「 もう一度生まれ変わっても、野球をしたいですね。今度は、絶対にプロに行きます。高校は
もちろん倉工でやります、」と、小山。今でも、球場アナウンスが聞こえて来るようだ。
【 岡山県代表 倉敷工業高等学校 ピッチャーは 小山くん  小山くん 背番号1 】
      おわり
お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承ください
参 考  瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド )
      山陽新聞社  ( 灼熱の記憶 )
協 力  小山 稔

春の鼓動 球春到来

春の鼓動が聞こえます。球春到来ですね。

3月8日は、高校野球対外試合の、解禁日でした。全国の高校球児が、冬の

厳しいトレーニングを乗り越えて、試合ができる喜びを感じている事でしょう。

倉工も、14日  明誠学院 ( 岡山市 )と第一戦を行いました。また、23日は

倉敷市玉島の森野球場で、共生 ( 新見市 )と行いました。共生は、

倉敷工OBの森下 雄一監督

( 昭和58年3月 )と、太田 学コーチ ( 平成2年3月 )が指導しています。

こうした中、主審を努めたのが、 秋岡 義典 おいまつ会副会長。秋岡副会長

は、愛知県で高校野球の公式審判員でもあります。この日、ちょうど帰倉と

重なって、倉工のためにとマスクをかぶったのでした。きびきびとした、審判ぶりは

さすが と言ったところでしょうか。

今春は、地区予選なしで、4月の県大会に臨む倉工。

倉工スタンドを、大応援団で埋め尽くしましょう。

「 試合のスコアーは、差し控えさせていただきます。 」

この白球を追いかけろ!!

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活躍する 秋岡副会長

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がんばれ!倉工野球部!!

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がんばれ 倉工   視線の先は 甲子園 倉工野球部

 

青春ヒーロー プレイバック 15

小山 稔物語
甲子園から、宿舎まで徒歩で帰っていた。

その時、小沢監督が3塁コーチャーの角野に歩みよった。

「角野、あの時小山を3塁で止めたのは、なぜなんだ?」 と、語りかけた。

角野は 「ランナーが小山だったからです。」

すると「そうか。わかった。」と、小沢監督。

このシーンについて、角野は次の様に語ってくれた。

静岡商に、2 対 0 でリードされていて、回も終盤 ( 7回 )になった時、小山が出塁したんです。

次の中村の当たりは、ライト線2塁打コースとなって、小山が2塁ベースを踏んで、3塁まで来ますよね。中村は2塁へ行きます。

ところが、ライトがもたついたんです。

それで、小山をホームに突入させるべきか、3塁で止めるべきか。私が、迷いに迷ってしまいましてね。

でも、最終的には小山を3塁で止めたんです。それはなぜかと言うと、ランナーが投手の小山だったからなんです。

これで、無死2、3塁となりました。続く富永の当たりは、一塁手と二塁手のド真ん中の当たりでした。

しかも、低いライナーだったんです。

二塁手がダイビングで打球に飛び込んで行って、しかもショートバウンドで捕って、一塁に投げて富永はアウトになりました。

ところが、中村が三塁まで走って来て、三塁ベースで、小山と鉢合わせになったんです。

それを見た一塁手が三塁に転送して、小山がホームと三塁との間で挟まれてタッチアウトになったんです。

私は、この時ものすごい責任を感じましてね。

あの時2,3塁になった時、3塁コーチャーとして、適切ないいアドバイスをしてやれなかった事で。

あの時、いいアドバイスをしておけば、あんな事にはならなかったと思うんです。

もしかしたら、同点にあるいは、逆転勝ちして、決勝に行けたかもしれないのに。

全ては、私の責任と思っていました。

ところが、徒歩で宿舎に帰っている時に、監督さんが、「角野、なぜ小山を三塁で止めたんだ?」と聞かれ「ランナーが小山だったからです。」と答えたんです。

すると、監督さんは、「そうか、わかった」と言ってくれたんです。私は、あの時監督さんの、「そうか、わかった。」のお言葉に、本当に救われる思いをしました。と、熱く語る角野。小沢監督は、角野に大きな信頼を置いていたのである。

次に、小沢監督は、小山の所に歩みよっていった。

つづく  随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  角野 充 氏

小山 稔 氏

青春ヒーロー プレイバック 14

小山 稔物語

 

  チャンスに打てず   惜しい小山の力投

 倉敷工  000 000 000  0

 静岡商  011 000 000  2

 二塁打 中村 ( 倉敷工 ) 犠打 倉敷工3 ( 土倉 武 亀山 )

                       静岡商4 ( 藤波 小泉2 寺門 )

                   盗塁 倉敷工 0  静岡商 1 ( 青木 )

倉敷工は春に続いて、またしても決勝進出をはばまれた。静岡商得意のバント戦法に

苦杯をなめた。静岡商は、二回一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。

俊足の松島は判断良く三進。寺門は21後のウエストボール気味の球を、投手前に

スクイズ。松島が楽にホームを踏んだ。さらに、三回は、先頭の新浦四球に出たが、青木

の、投ゴロで二封された。青木はすかさず二盗。ここで、佐藤は12から倉敷工の深い

守備の裏をかいてドラックバント。これが内野安打となって、一三塁。藤波は11から

外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功をさせた。倉工バッテリーは

スクイズに来ると読んで、はずしたのだが、藤波の執念にしてやられた。ここらあたりに

高校野球でのバントの重要性をまざまざ見せつけられた。肩が痛いと言う 小山 だった

が、連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れも良かった。それだけに、わずかの

すきをついた静岡商のソツのない攻めは光った。この追加点は、連日炎天下で力投を

続け、気力だけで投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。新浦は長身

から快速球を投げこんで、当たっている倉工打線と真っ向から勝負して完封した。

倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。終盤、得点

にこそ結びつかなかったが、その粘りはたいしたものだった。惜しまれるのは、七回。

この回、小山の四球。中村のライト線二塁打で、無死二三塁と攻め寄った。ところが

ここで思いもよらぬ不運があった。富永の打球は一二塁線を抜いたかと思われたが

二塁手に横っ跳びに好捕されて、一塁でさされた。しかも、三塁走者の小山はいったん

ホームに突っ込みかけたが、コーチャーの静止があって三塁へ戻った。その間、中村は

すでに三塁へ。小山は、追い出されるような格好で三本間で挟殺された。まずい走塁

ではあったが、ここは二塁手の好プレーをたたえるべきだろう。結局、倉敷工は好機に

一発が出ず惜敗したが、速球投手 新浦 に対してバットを短く持ったミート打法、

そして、小柄な小山投手の力投などが、強く印象に残った。

                   昭和43822日 山陽新聞 角野 充氏提供

この、静岡商戦が、投手小山の実質的なラストゲームとなった。歯をくいしばって

投げ続けた高校夏の姿。小山と倉敷の熱い季節は終わった。この日、倉敷が泣いた。

 

    つづく  随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド ) 

      山陽新聞社  ( 灼熱の記憶 ) 

協 力  角野 充氏

      小山 稔氏

おいまつ会入会式

第68回卒業証書授与式を翌日にひかえた2月28日、倉工体育館において
「 平成28年度おいまつ会入会式 」が、厳かに行われました。今回は、354人
の入会者があり、おいまつ会は約25000人の大所帯となりました。
式では、吹奏楽部の生演奏により、校歌斉唱から始まり、日下 誠おいまつ会
会長の挨拶、そして楢原 靖おいまつ会名誉会長が挨拶を行いました。
ここから、いよいよクライマックスとなります。在学中、著しい活躍をした生徒さんに
表彰状授与となります。この表彰状授与は 『 科学技術文化功労賞 』と
『 スポーツ功労賞 』の2つの賞があります。一人一人名前を呼ばれ起立して
行く姿に、感動した次第です。そして、各代表者が登壇して 日下 誠会長が
表彰状と記念品を贈りました。そして、記念品贈呈では、受領者を代表して
斉藤 祐大君が登壇。また、新会員代表の挨拶や、おいまつ会役員の紹介
があり、最後は応援団のエールで、おいまつ会入会式を締めくくりました。
特に今回は、倉敷ケーブルテレビによる、テレビ取材があり、早速この日のうちに
放送されました。おいまつ会入会おめでとうございます。

【 科学技術文化功労賞 】
甲種危険物取扱者 資格取得
赤澤 拓磨
甲種危険物取扱者 資格取得
大熊 晃輔
甲種危険物取扱者 資格取得
奥山 加奈子
甲種危険物取扱者 資格取得
斉藤 裕大
甲種危険物取扱者 資格取得
中山 萌
中国地区第2回高校生溶接技術 ( 溶接技術 )競技会 優勝
豊田 和真
中国地区第2回高校生溶接技術 ( 圧力容器 )競技会 第3位
小柴 和哉
【 スポーツ功労賞 】
平成28年度全国高等学校総合体育大会 カヌー競技 第6位
原田 秦
平成28年度全国高等学校総合体育大会 ウエイトリフティング競技 第8位
赤木 聖真
敬称略  順不同
がんばれ 倉工   ようこそ おいまつ会へ

青春ヒーロー プレイバック 13

小山 稔物語

最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける、エース小山の力投で、倉工は春と同じく四強まで、勝ち進む。準決勝の相手は、同じ左腕の好投手 新浦 寿夫 投手を擁する静岡商。しかし、小山の肩は 広陵戦 後、ぼろぼろに。「 歯ブラシを口まで、持ち上げられませんでした。しかも、顔を洗おうとしても、手が顔まで上げられなくて、顔を手に近づけて行って洗いました。」 小山の肩は、悲鳴を上げているのだ。
宿舎から、甲子園までは徒歩で移動。途中ある高校のグランドで練習する事になった倉工ナイン。小山は、「10メートル先の相手に、ボールが届きませんでした。」 と言う。
母に誓った プロ野球選手。消え行く少年の日の夢。 小山は、絶望の中、球場入りしたのだった。
準決勝は、第2試合だったため待機をしていた。そこへ朝日新聞社の記者がやって来た。
「 小山君、小山君。明日の決勝戦は、 興国 と 倉敷工業 に決まっているようなもんなんで、 興国 の丸山君と握手をしている写真を撮らして下さい。今、撮っておかないと、明日の新聞に間に合わないんです。」そう言われた小山は、「 興国は、まだ試合中だし、うちはまだ試合をやっていないし、そんな事をしたら、監督さんに怒られます。 」そう言うと、記者は、「 小沢監督には、了解をもらっているから、大丈夫です。」
小山は、記者に連れられて、まだ試合途中の 興国エース 丸山 朗 投手と握手を交わした。こうして、迎えた準決勝、対 静岡商戦 だったのである。
絶望の小山は、グランドの中に入り、ある光景を見た瞬間、あれほどまで痛かった肩の痛みを忘れた、と言う。小山が、見た光景とは何か?。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。そして、アルプス席から聞こえて来る、大声援。「 小山!、小山!頑張れよ!。小山!。 」 大応援団と、大声援が小山の中に飛び込んで来て肩の痛みを忘れたと言う。「 火事場の、馬鹿力です。 」と、小山は言うが、果たして本当にそれだけだったのだろうか?。いや、もう一つある。小山を支えるもの。小山を支え続けて来たものがある。それは、倉工のエースナンバー1のユニホームであったはず。倉工エースの誇り。
決して本調子でなくても、あるいは序盤に打ち込まれても、投げ続けるのが本当のエース。
マウンドを守り続けるのが、倉工エースの宿命なのだ。小山は、倉工エースの宿命を背負っている自覚を、持っていたのではなかろうか。
こうして、準決勝 対静岡商 との試合が始まった。
マウンドの小山のもとから、各ポジションに散るナイン。

つづく   随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 12

小山 稔物語

野球への探求心が、旺盛な角野。その角野が、エース小山の投球について次の様に語る。
「小山の球は、回転が綺麗なんです。回転がいいからよく球が伸びるんです。しかも、打者の手元でホップするんですね。そして、落差のある縦へのカーブがあるんです。ですから、ホップするストレートの高さと、低めに決まるカーブ、高さと低さを武器にした投球が、持ち味なんです。」と熱く語る角野。
これに対して、エース小山は、「私の、手や指そして肘や肩が、硬式のボールに合っていたんでしょうかね。」と。
事実、エース小山の手の指は、短く太い。

第50回全国高校野球選手権大会
一回の守備につく倉工ナイン。エース小山が、甲子園のマウンドに上がる。
藤川が、捕手席に座る。残りの7人の侍は、小山のすぐ後ろで円陣を組む。
エース小山が、投球練習を開始しようとした時、掛け声と共に、各ポジションに走る7人の侍。

3回戦    倉敷工 9 - 2 高知  小山6勝め

主砲 武 のバットが火を噴いた。4回大会13号ホームランとなる、3ランを左中間スタンドに叩き込み、この回一挙8点を上げ、勝負を決める。

準々決勝  倉敷工 6 - 3 広陵  小山7勝め

この日、第4試合でナイターとなった。
広陵のエースは、( 小さな大投手 )の異名を持つ、左腕宇根洋介投手。
身長167㎝で、甲子園8勝している、宇根投手を、倉工打線は序盤で攻略した。
1回2回3回に、各1点。4回には2点を上げ、試合の主導権を握り、粘る広陵を振り切る。
甲子園に流れるアナウンス。
【勝ちました、倉敷工業高校の栄誉を称え、同校の校歌を斉唱し校旗の掲揚を行います。】
五万の観衆の歓声がとどろく、大甲子園のセンターポールに緑の校旗がはためく。
『水島灘の 沖ゆく白帆も・・・・』 大甲子園にこだまする勝利の賛歌。いつ聞いても、どこで聞いても、そして歌っても「 いいなあ 」と感じる。

そして、8月21日 準決勝 静岡商 との対戦の朝が来た。

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参 考
瀬戸内海放送 番組「 夢 フィールド 」
山陽新聞社「 灼熱の記憶 」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 11

小山 稔物語 

栄冠は君に輝く。 全国高校野球選手権大会の唄。
「 雲は湧き 光あふれて・・・・ 」
1948年に発表された。1948年の学制の改定に伴い、さらにこの時の大会が1回大会から数えて30回めの節目の大会であった事から、主催者の朝日新聞社が、新しい大会歌として、全国から詩の応募を募った。応募総数5000以上の中から最優秀に選ばれたのが、元高校球児の 加賀大介氏 が作詞したこの【 栄冠は君に輝く 】だった。

 50回全国高校野球選手権大会。
196889日から822日まで開催。
球史半世紀を祝う記念大会として開催された。開会式に、皇太子夫妻を招いた。
45都道府県から各1校。北海道は南北から各1校。さらに、米国の統治下にあった
沖縄から、1校を加え、48校が甲子園に集った。

昭和4389日。倉工ナインは、開会式直後のオープニングゲームに登場。
文部大臣の始球式の横に立つエース小山。そして、エース小山が投球練習を開始しようとした時、マウンドの小山の元から、掛け声とともに、各ポジションに走るナイン。

1回戦  倉敷工  5 - 1  享栄   小山4勝め

倉工は9安打の中、二塁打2本、三塁打1本に盗塁4個を決めて、快勝。

2回戦  倉敷工  8 - 0  千葉商  小山5勝め

倉工は、初回4点、五回に3点。打っては16安打した。しかし、千葉商の左腕今井投手に、9三振を喫する

倉敷の商店街では、不思議な現象が起きた。白壁の町は、倉工の試合時

商店街から、人影が消えたのだ。町中は、テレビにクギづけ。勝利に湧く倉敷の町。
そして、最後の夏。肩の痛みこらえ投げ続ける、エース小山。
倉工ナインは、大優勝旗に向けて突き進む。

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参 考
瀬戸内海放送  「 夢 フィールド 」
山陽新聞社   「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック 10

小山 稔物語

「 昭和43年のチームが、史上最強のチームです。」と小山は、胸を張る。
俊足巧打の 土倉。 バントの名手 山口。 強肩捕手で主将の 藤川。 不動の4で長打の主砲 武。 エース小山は、右打席でも左打席でも打てるスイッチヒッター。
広角打法の 中村。 意外性の男 富永。 2年生のレギュラー、チーム一の張り切り男岡本。 渋い打撃が魅力の 亀山。 さらに、野球を愛する心は誰にも負けず、また野球への探求心が旺盛な 角野。この角野が、3塁コーチャーズボックスに立ち、ランナーをホームへと導くのだ。そして、倉工のエースナンバー 1 をつけた 小山 の力投。
甲子園への視界は良好。 ライバルは、エースで4番の 奥江秀幸選手(大洋ホエールズ入団)のいる、岡山東商。まさに、闘魂と百戦錬磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突になるのは、必至の予選である。こうして、史上最強チームの夏が始まった。

50回全国高校野球選手権大会 岡山県大会
50回大会記念大会として、全国都道府県の代表校に、沖縄の代表を加えて48校が甲子園切符をつかむのだ。

2回戦   倉敷工 6 - 0 岡山日大

3回戦   倉敷工 4 - 1 理大附 

準々決勝  倉敷工 10 - 6 笠岡商

準決勝  倉敷工 2 - 0 倉敷商

決勝は、ライバル 岡山東商。岡山県の二大都市、岡山市の代表 岡山東商。
倉敷市の代表 倉敷工業。両校の戦いは、早慶戦の様な特別なものがあるのだ。
岡山県高校野球黄金時代の絶頂期である。
先攻を取った倉工は、一回表 4番 武 が2点タイムリーで先取点を上げる。勢いに乗る倉工は、五回にも 武 の2点タイムリーで4点。主砲 武 が4打点の大活躍で快勝。
投げては、エース小山が完封。倉敷は、市民の大歓声に包まれたのである。
そして、倉工ナインは小沢監督を胴上げして、喜びを爆発させたのだ。
甲子園2年連続6回め、前人未到の 4季連続甲子園出場を果たしたのである。

決勝  倉敷工  4 - 0  岡山東商

母に誓った、プロ野球選手。少年の日の夢。一抹の不安を抱えながら肩の痛みをこらえて投げ続ける 小山。深紅の大優勝旗をつかみに、史上最強チームが聖地へと向かった。

ozawa
4季連続甲子園出場を決め、小沢監督を胴上げする倉工ナイン。
写真の、一番右にいるのが、 4番 武 渉選手

 

つづく  随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送 番組 「夢 フィールド」
山陽新聞社      「 灼熱の記憶」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏