白球100年 岡山の野球 6 「祝 関西高甲子園初出場 1」

〚天の時・地の利・人の和〛
昭和23年春、当時の県野球協会理事長・菊池三郎は、思わずこう言った。
「天の時・地の利・人の和」と。
大正10年、岡山一中(現・朝日高校)の鳴尾大会(甲子園大会の前身)出場があるだけで、長らく甲子園の土を踏めなかった岡山にとって、悲願達成に絶好の機会が訪れた。
しかも会場は菊池の母校・関西高校球場であり、その意気込みは相当なものであったに違いない。

〚学制改革〛
5年制であった旧制中学校は、中学3年・新制高校3年へと改められた。
また、この年、大会名称も「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球大会」へと変更された。
この制度改革により、本来卒業予定であった中学5年生も、そのまま新制高校に1年在籍することが認められた。
明治大学の選手による指導を受けるなど猛練習を重ね、着実に力をつけていた関西高校は、昭和22年には練習試合ながら岐阜商業をはじめ全国の強豪校を次々に撃破していた。

その主力メンバーがそのまま残ることとなり、まさに「天の時」であった。

〚山陽大会から東中国大会へ〛
予選の地区割りも山陽大会から東中国大会へと変更された。
これまで岡山の前に立ちはだかっていた広島・山口との対戦がなくなり、鳥取・島根と代表権を争う形となった。

〚最後は抽選で〛
第1回東中国大会の会場決定を巡っては、「出場校数から見て岡山が妥当」「山陰には適当な球場がない」とする岡山側に対し、「地区割り変更がなければ昭和23年は松江開催と決まっていた」とする山陰側が対立した。
最終的には抽選となり、県連盟会長・高畑浅次郎が当たりくじを引き、関西高校球場での開催が決定した。
「地の利」に加え、用具・資金・OB会組織といった「人の和」も充実していった。
選手たちは全員、甲子園出場への確かな手応えを感じていた。
期待どおり関西高校は岡山県大会を勝ち進み、東中国大会へと進出した。

【お願い】
当ホームページ内カテゴリー〚風雲の軌跡〛もあわせてご参照ください。

つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」

参考:毎日新聞、山陽新聞

協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会(おいまつ会)

 

白球100年 岡山の野球 5 「高野連発足」

岡山の球児たちが、グラウンドに帰って来た。
悲惨な戦争による空白を乗り越えて。

昭和21年7月24日、関西中球場。戦後初めての全国中等学校野球大会県予選の開会式が行われた。

食糧難による栄養不足から、痩せた選手が多く、あり合わせの布やテントの切れ端で作った各自ばらばらのユニホームで、スパイクの代わりに地下足袋という華やかさとはほど遠いセレモニーだったという。しかし、選手の顔は大会に参加できる喜びで輝いていたのだった。

〚活気 活気 活気〛
〚待ってました〛

廃墟の中から立ち上がった岡山野球界は、終戦の翌年のこの年、一気に活気を帯びることになる。2月、「全国中等学校野球連盟」が誕生した。

これを受け、岡山でも玉島商の齋藤信三郎校長らが中心となって、「岡山県中等学校野球連盟創立」の準備を始める。玉島商野球部部長だった福井啓一は、「岡山と違って、うちは空襲を受けず、組織的に動きやすかったので、主体的に働きかけをしたが、どの学校も『待ってました』という感じでした」と、当時を思い起こす。

5月18日、玉島商で創立準備会。6月24日、岡山一中(現・朝日高校)で創立総会を開催。県下21校が加盟して現在までの基礎が確立した。初代会長には高畑浅次郎岡山一中校長が就任。直ちに「全国中等学校野球連盟」に加盟する。

〚決勝は、ニ中対市商〛

こうして迎えた県予選(関西中、六高球場)だった。決勝は、岡山二中(現・操山高校)対岡山一商(現・岡山東商)。延長10回表、二中が4点を入れ優勝。OBたちの献身的な世話が大きかったという。

岡山一中 002 010 040 4 11
岡山一商 200 012 020 0 7

岡山二中は、山陽大会決勝で、下関商に敗れ、惜しくも甲子園初出場にはならなかった。

下関商  410 031 001 10
岡山二中 000 010 001 2

また、11月、「第1回京都秋季国民大会の軟式野球大会」で、玉島モタエクラブが準優勝の快挙を達成する。

こうして、23年、関西高校の戦後初の甲子園出場が実現する。

【お願い】当ホームページ内カテゴリーの中、〚風雲の軌跡〛を参照してください。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 4 「廃墟の中で 2 最終回」

〚道具類の不足〛

なかなか揃わなかったのが道具類。球児たちは焼け残りだけでは当然足りず、先輩から寄付を受けたり、ヤミ市で手に入れたり、進駐軍からお下がりを調達したのだった。

岡山一中(現 朝日高校)の選手だった河田は「ボールはとても貴重品で、何回縫い直したかわからない」と言う。

〚試合再開へ向けて〛

試合再開へ向け、最初ののろしを上げたのは野球部OBたちだった。関西中、岡山一商(現 岡山東商)、玉島商などの出身者が中心になって、岡山進駐軍とオール岡山との親善試合を計画した。しかし、この試合は都合で中止になってしまう。

その代わりに、3チームで10月23日、岡山一商球場でリーグ戦を実施する。(山陽新聞の前身、合同新聞主催)これが戦後最初の野球試合と言われている。

〚大観衆〛

〚野球ができる喜び〛

合同新聞によると「観衆は3,000人。久々の美技快打に熱狂し」とある。リーグ戦は岡山一商OBが優勝したが、選手そして観衆は、勝敗よりも野球ができる喜びに酔いしれたのだった。

玉島商OBの主将、大野仁之助は「みんな重いものから解放された感じで、本当に生き生きしていたねえ」と話す。

中等学校の方も、12月9日に岡山一中、岡山二中(現 操山高校)、岡山一商、市商(現 岡山東商)がトーナメントを実施した。

岡山野球界は復活へ向けて、確かな歩みを刻み始めていくことになる。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 3 「廃墟の中で 1 」

昭和20年8月15日、終戦。

戦争は数多くの人命と財産を奪い、野球界でも不出世の大投手・沢村栄治らの名選手が散っていった。しかし、終戦は今日の野球繁栄のスタートでもあった。

沢村栄治投手(読売ジャイアンツ)1944年没

〚野球ができる喜び〛

「戦争には負けた。しかし、これから平和な時代が来る。生徒たちと一緒に野球ができる」

敵機来襲におびえる心配のない空を見上げ、つぶやいた1人の教師がいた。玉島商野球部部長、福井哲二である。戦争中、適性運動の部長で、しかも英語の教師という立場で、言うに言われぬ苦労を味わった。福井の胸に、昭和11年全国中等学校野球大会県予選で玉島商が初優勝したときの興奮がよみがえった。

〚倉庫にボールやバットが〛

福井は、野球部を解散した昭和18年に学校の倉庫へこっそり隠していたボール、バット、グラブなどを取り出した。終戦の日からわずか2、3日後のことだった。

「まさか、たった2年で再び野球がやれるようになるとは、嬉しかった」

福井は感慨深げに、その時のことを思い起こす。呼びかけにより、元の部員たちも徐々に戻ってきた。

〚復活に燃える球児〛

〚名門チームも練習再開〛

関西中、岡山一中(現・朝日高校)など戦前の名門チームも、終戦後の立ち上がりは早く、この秋からすでに練習を再開している。

岡山は6月29日に空襲を受け、旧市内の大部分が焼失。まさに焦土からの復活だった。岡山一中は焼け跡の空き地で、関西中はイモ畑になっていたグラウンドを整備してからの出発だった。

現在の岡山市北区内山下付近にあった岡山市公会堂(現:岡山県庁)から公会堂筋(県庁通り)を西望。 焼け残った建物は画面左から天満屋、中国銀行、日赤病院。画面右手前は岡山市立岡山女子商業学校(現:岡山県立図書館)の跡。

こうして、終戦後最初の野球大会が開催されることになっていく。

つづく(随時掲載)

参考文献
『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 2 「関西中球場」

岡山市西崎本町の関西高校。西、北側にコンクリート製のスタンドを備えたグラウンドは、昭和初期から終戦直後まで、プロ野球など数多くの好勝負を生んだ。「岡山野球のメッカ」である。
周囲を緑に囲まれたグラウンドを駆け回るのは、今では関西高校の生徒のみだが、その中に立つと、かつての興奮がよみがえってくる。

【昭和3年に着手】

「今上陛下御大典記念事業」として、関西高校の前身である関西中がグラウンド建設に着手したのは、昭和3年のこと。「私学教育の独自性」を唱えた12代校長、佐藤富三郎が下した大英断だった。

【石ころだらけの球場】【甲子園をモデルに】

当時の岡山市内で野球大会ができたのは第六高等学校(現・岡山朝日高校)ぐらい。上伊福、奥市球場が練習試合に使われていたが、石ころだらけで、球場と呼べるものではなかった。六高でさえ、観衆の試合見物にとっては、はなはだ不満足なものだった。
そんな中、大正13年に完成した甲子園球場をモデルに、なだらかな扇状台地という地形を利用し、スタンド付き球場を造ろうというのだから、まさに画期的な試みといえた。

【県下一の大球場の誕生】

(昭和)5年9月。グラウンド西側に立つ拡張記念碑に、完成月が刻まれている。総工費は5万9,000円。総面積は現在の県営球場の約3分の2だが、当時としては、県下一の大球場の誕生だった。

【グラウンド開き】

昭和5年11月10日、グラウンド開きとして「明治大―同志社大」の記念試合を行った。出来立ての関西中グラウンドを埋めた3,000人の大観衆も、初めて見るスター選手のプレーに熱狂した。
昭和24年に倉敷市営球場、26年に岡山県営球場が完成するまで、大試合の舞台といえば、関西中球場だった。

随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考   毎日新聞、山陽新聞
協力   岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 1 「ラジオ中継」

大正から昭和へ、電波とともに広がった野球熱
大正から昭和へ、時代は変わった。

明治28年、関西中で産声を上げた岡山県下の野球も30年を経過した。中等野球、軟式野球が活況を呈する中、競技人口とファン層は拡大。そこに、ラジオ中継という強力な援護が加わる。

〔甲子園から、第一声〕
〔甲子園から、電波が飛ぶ〕

最初の電波は、昭和2年8月13日、甲子園から飛んだ。日本放送協会大阪局が、第13回全国中等学校野球大会の中継放送を行ったのが始まりである。

実況アナウンス第1号は、魚谷忠。大阪市岡中の三塁手として全国大会出場を買われ、入局1年余りでの大抜擢だった。

開幕カードは、札幌一中 対 青森師範。この試合は、日本放送史に残る一戦となった。

〔バッター打ちました〕

当時、野球中継は至難の業とされていた。それに挑むスタッフの意気込みは相当なもので、局長自ら球場で陣頭指揮に当たったという。

「バッター打ちました。打ちました。いい当たりの三塁ゴロ。三塁手前進して掬い取り、いい球を投げアウト。」

手本のない中継放送であったが、回を追うごとに口も滑らかになったと伝えられている。

魚谷は、成功の秘密をこう明かしている。
「本番直前に、兵庫大会をスタンドで観戦しました。周りの観客に構わず、アナウンスの練習をしたんです。変人扱いされながらね。」

〔最初は、関西中対広陵戦〕

岡山放送局の電波に、岡山勢が最初に乗ったのは、昭和6年8月の中等野球山陽大会である。関西中 対 広陵戦を、岡山放送局が放送し、山陽新報に予告記事が掲載された。

準々決勝は、関西中が猛打の広陵の前に6回コールド。11対0の大敗であった。関西中のプレーに歯ぎしりしながら聞き入るファンの姿が、今も思い起こされる。

*随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

硬式野球部 新年懇親会を開催しました

令和8年1月11日、倉敷アパホテルにて、硬式野球部の新年恒例となる懇親会が、約50名の参加者を迎えて開催されました。
おいまつ会からは来賓としてお招きいただき、日下・三宅・大西の3名が出席いたしました。

懇親会に先立ち、令和7年度に卒業を迎える部員より、進学や就職といったそれぞれの進路とともに、今後の目標や信条が語られました。
その真摯な言葉の一つひとつに、出席者一同、深い感銘を受けました。
硬式野球部では、野球技術の向上だけでなく、人間形成にも重きを置き、3年間にわたり監督・スタッフの皆様が丁寧に指導されていることを、改めて実感する場となりました。

生徒の退席後、監督および部長のご挨拶をもって懇親会が始まり、OBの方々や保護者の皆様を交え、和やかな雰囲気の中で親睦が深められました。

監督からは、本年度の目標や硬式野球部の現状についての報告がありました。
ここ数年は苦しい状況が続いているものの、「必ず甲子園を目指す」という強い決意が語られ、選手たちの素質や能力に対する大きな期待が述べられました。

最後にはOBの方々から、当時の思い出や後輩への熱いエールが次々と語られ、予定していた2時間では語り尽くせないほど、盛会のうちに懇親会は終了しました。

倉工柔道部OB会を開催しました

令和8年1月2日(金)、毎年恒例となっている倉工柔道部OB会を、倉工柔道場において開催しました。
当日は、高校生とOBがともに汗を流して練習を行いました。

畳を囲み、現役生徒とOBが整列して話を聞く様子。

現役生徒にとって大きな刺激となりました。

練習後には、山本秀海先生から大会結果等についての報告があり、あわせて、高校生一人ひとりによる自己紹介と目標の表明も行われました。生徒たちの力強い言葉から、今後のさらなる成長と活躍への期待が高まるひとときとなりました。

また、令和7年4月から本校に赴任された、本校卒業生でもある間野聡先生にもご参加いただき、OBと現役生徒をつなぐ貴重な交流の場となりました。あわせて、矢谷延一先生にもご参加いただき、世代を超えた温かな雰囲気の中で会を進めることができました。

参加者全員による集合写真。多くのOBと現役生徒、指導者が一堂に会し、倉工柔道部のつながりと歴史を感じる一枚となりました。

当日は、OBの中には岡山県警や大学で活躍する、岡山県を代表する選手も参加しており、現役生徒にとって大きな刺激となる時間となりました。

さらに、昭和51年卒の森本幸彦さんからは、柔道部およびOB会の歴史についてお話を伺いました。森本さんは、卒業と同時に県外へ就職されて以来、今回が初めてのOB会参加とのことで、当時を懐かしむ思いや、再び母校に集えた喜びを語ってくださいました。

「味蔵」で行われた懇親会の様子。

その後、会場を昭和52年卒業の広兼さんが経営されている「味蔵」に移し、懇親会を行いました。和やかな雰囲気の中、世代を超えた交流がさらに深まり、有意義な時間を過ごすことができました。

恩師やOBがテーブルを囲み、当時の思い出や現在の近況、柔道部への思いを語り合い、和やかで温かな時間となりました。

今後の倉工柔道部のさらなる飛躍を期待するとともに、来年もまた、多くのOBの皆さまと元気にお会いできることを楽しみにしています。

令和8年倉工ソフトテニス部OB会

「こんちは お久しぶりです」

「元気じゃったか?」
「あの時は、苦労したのう。」

倉工ソフトテニス部OB会は、1年おきに実施しています。今回も、1月2日に盛大に開催しました。当日は午後1時に集合し、最初に、ソフトテニス部OB会 佐田野 勝 会長(昭和46年、C科)より挨拶がありました。

開会にあたり、佐田野会長の挨拶です

「コロナの時は、何もできなかったが、今は収まり、我々のOB会を大きく盛り上げたい。寒いので、怪我には注意してほしい。」

続いて、誠実で人間味溢れる指導で導いて下さった、恩師で顧問だった栢野敏典先生の訃報(昨年2月、93歳で他界)の報告もありました。

その後、「ソフトテニス交換会」が始まりました。日頃からラケットを握っている者、何年か振りに握る者もいて、みんな楽しくゲームを楽しみました。現役の時と同じように大きな声を張り上げて楽しむ坂井陽一さん(平成15年、M科)は、「テニスが好きなOBが集まっていて、しかも正月からできる事が嬉しいです。」と話してくれました。

また、山川英雄さん(昭和46年、M科)は、「若い人が集まってテニスを見ていると、自分もテニスを楽しんでやりたくなり、勇気が出ます。」と語ってくれました。

好プレーあり、珍プレーあり、そして大爆笑ありのソフトテニス交換会でした。今回、一番遠い所(静岡)から参加した原田城正さん(平成15年、M科)は、「もっと声を掛け合って、特に同期の者をたくさん集めて盛り上げたいです。」と語り、さらに、「自分たちが行きたくても行けなかったインターハイに、後輩たちには行ってほしいですね。」と、後輩への思い、そしてエールを送っていました。

そしてその夜は、「倉工ソフトテニス部OB会 懇親会」が開催されました。(個室、居酒屋くいもの屋 わん)

交換会に参加できなかった者も、たくさん駆け付けての懇親会でした。話のネタは、やはり現役の時の想い出話。しかし、栢野先生との想い出は尽きないようでもありました。

高原健さん(昭和52年、C科)は、「栢野先生の指導は厳しかった。今でも、倉工に行くと、当時のことを思い出す。」と語り、栢野先生が今でもそこにいる様でもありました。

【栢野先生のご冥福をお祈りします】

こうして、今回の倉工ソフトテニス部OB会はお開きとなりました。次回は2年後です。「もっともっと、多くのOBが集まり、盛大な会にしよう。」
と話し合って散会しました。

おいまつ会副会長・広報担当
ソフトテニス部OB 三宅 香

 

熱闘甲子園 今昔物語 93 栄光の足跡 81

第94回選抜高校野球大会

【大会期間】
2022年3月18日~3月30日

【福島貫太主将】
開会式で選手宣誓の大役を務め、試合では5打数1安打だった。「最強に攻める野球」を体現し、チームの精神的主柱となったが、ここまでの道のりは平たんではなかった。

父も(平成8年卒・M科・野球部OB)、兄も野球をする野球一家で、3人兄弟の末っ子。2番目の兄は、プロ野球・中日に入団した福島章太投手(退団)。自身も小学1年から地域のスポーツ少年団で野球を始め、将来の夢はプロ野球選手だった。

【本気で野球をせえ】
一時は友達と一緒に私立に行ってアルバイトをしようと考え、プロ野球選手の夢も諦めかけた。そんな時、救いの手を差し伸べたのが、倉敷工・高田康隆監督だった。広角に打ち分ける技術と、素直で負けず嫌いな性格を高く評価してくれた。

中学3年の秋、高田監督が熱い言葉をかけてくれたという。
「本気で野球をせえ。俺が成長させてやる。一緒に甲子園を目指そう。」
それを聞いて「自分から野球を取ったら、何も残らないよな」と実感したという。

【周囲への感謝】
【主将は、全部員の使命】
高校では中学時代の考え方から「180度変わった」。周囲への感謝の気持ちを持てるようになり、全部員からの使命で選ばれた主将という立場も、自身をより成長させてくれた。高田監督も「責任感と使命感が増した」と目を細める。

【悔しいという思い】
「やって来たことを自信にして、攻める野球を貫き通す」と臨んだ初戦。初球から積極的にバットを振るも、凡退が続いた。延長11回、「塁に出たい」という一心で、内野安打の際、一塁へ気迫のこもったヘッドスライディングを見せた。

試合後、
「(相手投手の)ストレートが、すごく速く感じた。悔しいという思いしかない。これを糧にして、夏に戻って来たい。」
と、さらなる成長を誓っていた。

(現在、福島は社会人野球・JFE西日本で活躍中)

おわり

本号をもって「熱闘甲子園 今昔物語」は最後とします。永い間のご愛顧、ありがとうございました。

参考
山陽新聞
毎日新聞
朝日新聞「バーチャル高校野球」

協力
歴代倉工野球部監督・部長
おいまつ会