大願成就 己に勝つ野球 4

 

「山を駆け抜けろ」
倉工野球部に、伝統のトレーニングがある。そのトレーニングとは「山」。山とは、倉敷市街地の美観地区にそびえる鶴形山の事。
そこに、倉敷の総鎮守阿智神社が、鎮座している。鶴形山と阿智神社を合わせて「山」と呼び、倉工野球部が誕生した昭和20年代から続いている地獄のトレーニングである。いや野球部だけでなく、時にはソフトテニス部、サッカー部、ラグビー部等山に行く事があり、みんな一口に山と呼んでいるのである。
阿智神社の石段や坂道を、走りぬく。OBコーチ神土秀樹は次の様に話す。
「山は、特に一年生にとっては地獄ですね。あの山が、いやで野球部を退部して行く者が多くいたんですから。」
私、当HPが、その山を見に行った時の事。部長中山隆幸が全選手を集めて、「しんどいのは、全員なんだ。自分だけではない。(中略)とことん自分を追い込め。自分を追い詰めろ。」と訓示をしていた。中山は、石段を駆け上がるところから始めるよう指示した。「おりゃ」と声を出しながら、石段を駆け上がる選手もいる。駆け上がっては、石段を下り、また駆け上がる。これが何往復も続く。さらに、中山の指導は、これだけではなかった。
次は、石段に坂道を付け加えてのコースを設定。しかも時間を決めて「時間内に、帰って来い。」と。必死に喰らいつく倉工選手。
山は、単に足腰の鍛錬だけでなく、精神面も鍛えるところなのだ。
部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、二人三脚でチームを鍛えて行く。そうした中、一人の一年生投手が浮上して来た。
「山は、楽しいです。と、言うんですから、恐ろしい奴です。」と中山が言えば、和泉は「あいつは、何ごともプラス思考ですから。」
山で培った足腰と強靭な精神力を持って平成14年3月倉敷工は、四国遠征に出た。そこで、その一年生投手は、大器の片鱗を見せることになる。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 3

 「相手よりも、まず、自分の弱さに勝つ事が全て。」
 「自分に勝つ」と言うのは、倉工の選手が揃って口にする言葉である。倉工野球部が、取り組む「心作り」と呼ばれるメンタルトレーニングがある。
 監督和泉利典は、2度目の監督就任の89年以後、強豪として注目される中、甲子園への切符をあと一歩のところで手にできずにいた。
 「どうしたら勝てるか」当時同じ教員住宅に住み、不登校の生徒のカウンセリングを実践していた教員に相談したところ、『メンタルトレーニング』を紹介された。理想のプレーやうまく行っている時の様子などを想像する事で、良いイメージを持って本番に臨めるようになるという。
 深呼吸で、呼吸に集中して、雑念を払った状態で「打てる」「勝てる」といった言葉をつぶやき、自己暗示をかける。また、「誰でもできる事を、誰でもできないくらいにやれ。」と言うのが、和泉の口癖でもある。
 「技術を動かすのは心。いくら素晴らしい能力があっても心が強くなくては、勝てない。」と和泉。
 さらに、和泉は「以前は、選手たちに『できないからやれ』とゲキを飛ばしていたのが、今では『できるからやれ』と言う様になったと話す。選手たち倉工ナインは、勝利に対する強い心で、古豪復活を目指す。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 2

平成13年4月。倉工野球部に、将来性豊かな有望選手が多数入部して来た。
その一年生たちの、意識は高く全員が、「倉工で、甲子園に行くんだ。」という目標を持っての入学だったという。そうした中に、一年生渡部和博がいた。渡部は、不治の病に苦しむ親友の元を訪れた。白血病だった。
そして親友に誓った。「絶対に甲子園に行くから。そして、お前を必ず甲子園に連れて行ってやるから、早く良くなってくれよ。」
それ以後渡部は、ことある事に『オレたちは、絶対に甲子園に行くんじゃ。』とチームメイトに訴え続けたのだった。
さらに、渡部は授業が終わって、自転車で練習グランドに向かう時、顔の表情が一変。非常に厳しい顔つきになったという。
(渡部は、倉工卒業後、明治大を経て社会人野球住友金属鹿島で長く野球を続けた。)
倉敷工監督和泉利典は、「選手の動きを見ていると、手応えを感じましたね。このチームで、絶対に甲子園に行くんだ。行かなければならないと。いうならば、背水の陣だったでしょうか。」
しかし、倉工は、順風満帆には程遠く、夢の甲子園までは茨の厳しい道が待っていた。

つづく
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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 1

夏の全国高校野球選手権大会は、幾多のドラマを生んで来た。
そして、人々の記憶に深く刻まれる熱闘は、時代ごとに生まれた。
こうした中、第85回大会に出場した倉敷工。対駒大苫小牧との熱戦は、深く人々の記憶に残っている事だろう。
この試合は、「倉工のベストゲーム」と言われ、強烈な印象を残し、高校野球ファンの心に刻まれている。
2003年第85回大会一回戦

倉敷工   0000
駒大苫小牧 0710
ノーゲーム

倉敷工   012 101 000 5
駒大苫小牧 002 000 000 2

四回途中で、0対8。大差を付けられていた倉敷工に天が味方した。台風接近に伴う激しい雨で、10年ぶりのノーゲーム。
翌日の、仕切り直しは、二回の先制後、小刻みに加点し、5対2で初戦突破した。卒業後、社会人野球JFE西日本で活躍したエース陶山大介が、鋭い高速スライダーで強力打線に立ち向かい、被安打6 奪三振9の好投。前日とは別人のようなできに「立ち直りが凄い」と多くの高校野球ファンは言う。
2回戦も突破し、35年ぶりの8強まであと1勝に迫る躍進だった。
一方、全盛期を築いた駒大苫小牧にとっても語り草となるゲームだったといえよう。この時の野球部長は、後の倉工監督中山隆幸。監督は、ベテランの域にかかった和泉利典。
当、HPは、第85回大会に甲子園出場した倉工チームを振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 29 最終回

第81回選抜高校野球大会 大会初日第一試合

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11
平成21年(2009)3月21日
第81回選抜に出場した倉敷工。
試合は、リニューアルされた甲子園の開会式直後で、異様な興奮が、生き物の様に球場全体を覆う中で始まった。
両チームは、お互いに、1回から激しく点を取り合うサバイバルな試合を展開。
積極果敢な攻めと粘り強い守りで、先行する金光大阪に、倉工が、喰らいつく。
「諦めるな。どんな事があっても、諦めるな。」ベンチの倉敷工中山隆幸監督のゲキが、聞こえて来るような熱戦。結局、延長12回劇的なサヨナラ勝ちを、決めたのだった。その、試合直後の事。


倉敷工業高校の事務室に、1本の電話が入った。電話の主は卒業生でもなく、倉工関係者でもなく、全く面識のない人からだった。
その人は、ガン患者だった。
選抜での倉工の決して諦めない逆転劇を見て感動。
「病気と戦う勇気を、貰った。」という。
「どうか、中山監督をはじめ、選手の皆さんや、関係者の皆様に、どうぞよろしくお伝え下さい。」と、ていねいな、言葉を残して、電話を切ったという。
一方、中山監督にも、別のガン患者から、同様な、お礼の言葉が寄せられたのだった。
「思い切り振り切れ。」春の選抜で、鮮やかなサヨナラを生んだ「あの一球」には、中山監督と、球児たちの熱い信頼の物語が、秘められていたのだ。
オフの長く、地味な打撃練習が、春の光の中で鮮やかに、花を咲かせたといえよう。
にわか仕込みの、甲子園戦法より、平素から培った、自己能力の、認識が重要なのだ。
倉工は、晴れの舞台センバツでその事を、鮮明に見せた。
新化を続けた倉工が、ドキドキする感動ドラマを、また伝えてくれた。

おわり

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 28

想えば、全盛時代の、昭和30年から40年代。小沢監督率いる倉工は、強打力で鳴るチームだったが、「バント」「走塁」にも、絶妙の技があった。連打で、大量点を奪う一方、1点勝負の場面では、ノーヒットでも点を取ってみせた。ライバルの、岡山東商監督の向井正剛氏が、後日談で「小沢さんに負け、悔し涙を流した。おかげで、多くの事を学んだ。」と語っていたあの日が懐かしい。

今回は、ベスト8に進めず、残念ながら快進撃とはいえなかった第81回選抜の倉敷工。全国の強豪校相手に、一回戦は延長12回劇的なサヨナラ勝ち。二回戦は、前半の大量失点を激しく追撃したが、わずか1点差で惜敗。中山隆幸監督率いる倉工の選抜は、1勝1敗に終わった。しかし、その野球は、決して『諦めない』『勝負を捨てない』ものだった。秋の中国大会から続く、チームの進化が物語るものでもあった。『ハラハラ』『ドキドキ』。握りコブシが何度も硬くなった。だが、倉工ナインは諦めていなかった。過去の栄光に満ちた「強打の倉工」は、「諦めない倉工」の名で、見事に、今、伝統の復活を遂げた。
感動に満ちた甲子園ストーリーと言えよう。

甲子園大会では、大会役員が各チームに一人ずつ付き添う事になっている。試合終了後の事。その大会役員を先頭に一列に並んでグランドを出る時だった。「バックネット裏の、大観衆が、総立ちで、拍手喝采だったんですよ。」と中山監督。一方、ナインは、ある物を見つけたのだった。ナインが見た物。それは、【倉工魂】や【侍倉工】の看板だった。ナインは、足や身体が震えたという。また、スタンドからは「また、来いよ」あるいは「すげえ試合を、また見せてくれよ。」と。「本当に嬉しかったです。感無量でした。」と指揮官。感動に満ちた甲子園ストーリーは、さらにつづく。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 27

第81回選抜高等学校野球大会。(34年ぶり10回目)

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11

中京大中京 230 100 000 6
倉敷工   010 004 000 5

第81回選抜に出場した倉敷工。「強打の倉工」の活躍は、もう遠い記憶になっていた。後に、監督となる小沢投手を擁して初出場した昭和24年の夏の甲子園でベスト4に進出。
(当、HP。カテゴリーの中風雲の奇跡初陣倉敷工を参照して下さい。)
その後、倉工全盛時代が続き、春夏合わせベスト4進出3回。
今回の選抜で、19回目の甲子園出場である。
倉工は、地元の倉敷マスカット球場で開催された秋季中国大会を、37年ぶりに制覇し34年ぶりの選抜出場を決めたが、その中国大会には、県大会4位出場資格ギリギリで出場。
2回戦で、県大会覇者の作陽を大差で破って勢いに乗り、準決勝で鳥取城北、決勝で南陽工をそれぞれ下し、見事優勝を飾った。倉工は、粘り強さが身上の実戦的攻撃のチーム。県大会から中国大会にかけ、試合ごとに進化を続けたフレッシュなチーム。倉工監督一年目の中山隆幸監督は、一試合一試合を「どんな事があっても諦めるな。」「死ぬ気でやり切れ。」という精神面で、負けない元気野球を目指し頂点に立った。県大会4位のチームが、中国大会で優勝した記録はない。私、当HPはこのチームの練習をよく見に行ったものである。指揮官は、普通のノックはやらない。常にランナーとアウトカウントを置き、ギリギリでアウトを取れるかどうかのタイミングで放たれる。プレッシャーの中での集中力が狙いであろう。
打撃では、「高め」と「外角」が中心。指揮官は「思いっきり振り切れ」高めでも、ゴロを打つ技術の習得を目指していた。
「強打」と「多彩な攻撃力」が、倉工の身上である。
当HPでは、この第81回選抜高校野球大会出場の倉工チームにあった、出来事をさらに振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 26

8強入りを懸け、これより34年前の選抜で死闘を演じた因縁のチームが相まみれた。

倉敷工 対 中京大中京
中京大中京230 100 000 6

倉敷工  010 004 000 5

倉敷工オーダー
1 捕 頼
2 中 井上
3 遊 三村
4 二 三木
5 一 日下
6 右 山形
7 投 山崎
8 三 内山
9 右 山本

倉工エース山崎は、初戦の金光大阪戦と同様、制球に苦しんだ。
四死球を繰り返すなど二回までに5点を奪われた。そんなエースを立ち直りさせたのは、声をかけ続けたナインだった。
中盤から、制球が安定。
五回以降は、得点を与えなかった。
何度も何度も、這い上がる。「粘りの倉工」のDNAが一つのビックプレイに、呼び覚まされた。
五回二死一、三塁のピンチ。
5点のビハインド。これ以上の追加点は、致命的だ。マウンドに、伝令の内田が、駆け寄る。「内角で、ゴロを打たせろ。」内野陣は、「はっ」とした。
「守りでリズムを作る倉工野球を思い出せ」中山隆幸監督の、ゲキに聞こえた。「俺たちが守る」口々に言い残して、守備位置に散った。打席には、当たっている中京大中京の、一番打者。
エース山崎が投じたストレートは、内角低めに。土煙を上げてセンター方向へ。『抜けたー』っと。【闘志は燃える】二塁手三木が横っ飛び。バシー。グラブに収めた。トスを受けた遊撃手三村がベースを、踏みチェンジ。「よっしゃーええぞー」静まり返っていた倉工大応援団一塁側アルプススタンドが息を吹き返した。指揮官のゲキは、さらに続いた。「(中京大中京のエース)堂林(現広島カープ)のスライダーは二種類ある。高めに入るのと、低めに落ちるスライダーだ。その低めのベルトより低いスライダーは捨てろ。ベルトより高いスライダーを打て。」指揮官は、いつも「積極的に打て」と言って来たが、この時初めて「低めは打つな捨てろ」と言ったのだった。
すると、『守備から、リズムを作る』倉敷工が理想とする展開が六回に。この回の、先頭打者井上が内野安打で出塁。4番三木は、遊撃手が打球を胸ではじく強襲安打。さらに日下の犠飛。
山形の中越え二塁打。五回まで3安打だった倉工打線が一気に爆発した。
「絶対につなぐ」倉敷工一死二塁。山形に続いて、エース山崎が左前打。山崎の一打で、倉敷工は1点差に迫った。六回が終わって、倉敷工5点中京大中京6点。
1点差のまま迎えた九回裏倉敷工の攻撃。
一死後、山本が右前打。だが、後続が倒れゲームセット。強豪相手に、粘り強さを発揮し
観衆に、「キセキ」を見せて来た選手を指揮官は、【選手を称えたい。すごいチーム。本当によく応えてくれた。】と話した。
そこに(敗者の美しさ)が見える。そして、甲子園球場に爽快な春風が吹いていた。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 25

第81回選抜高校野球大会。開幕試合で、壮絶な試合を制した倉敷工。次の2回戦の相手は、今大会№1の打率を誇る中京大中京。
実はこれより34年前、昭和50年第47回選抜大会の開幕試合で対戦し、倉敷工が16対15で勝利。
この試合は「球史に残る開幕試合」として今でも語りとして残っている。当HPでは、すでに「風雲の奇跡涙の甲子園」で紹介しているが、再度振り返ってみる事にした。
(当、HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)

倉敷工005 801 011 16
中 京101 450 310 15

当時の倉敷工オーダー
1.二 安本
2.右 松島
3.一 樋口
4.投 兼光
5.捕 大元
6.中 大倉
7.三 石原
8.遊 神土
9.右 野田

中学3年生の少年は見た。
「ものすごいバッティングにくぎ付けでした。そして、純白のあのユニホームが、もうすぐ着れるんだと思うと、嬉しくて嬉しくて。」
その少年は、甲子園の一塁側アルプススタンドで入学が決まった倉敷工の試合に胸を躍らせたのだった。その少年こそ母校倉敷工野球部監督として、二度の甲子園出場を果たし7試合を戦った和泉利典総監督である。(現在、水島工野球部総監督)

昭和50年3月28日、阪神甲子園球場。
前年、秋の中国大会で準優勝した倉敷工は、優勝校広島工と共に、九回目の選抜出場を果たした。
この時の、入場行進曲歌手森昌子の「おかあさん」のメロディーで開幕。
開幕試合で強豪中京と対戦。中京は、昭和42年に校名を中京商から改めて以来の出場だった。
好カード。最初から乱打戦のシーソーゲームが始まった。
倉敷工エース兼光は、防御率0点代で甲子園に乗り込んだのだが、甲子園入りしてから40度の高熱を発症していた。
三回、長短打にスクイズを織り交ぜ5点を奪うと、四回は野田の左超え3ラン等で一挙8点。13対2と中京を突き離した。エース右腕兼光は、高熱のためフラフラになりながらもマウンドに立っていた。13対2と全く勝負あった感じだったが、その劣勢を跳ね返して、喰い下がったのはさすが中京。五回、三連打で兼光をノックアウト。代わった一年生の塚岡から近澤がライトへ安打。これを、右翼手についていた兼光がエラーをする等、この回5点を加えた。石原(倉工)近澤(中京)のホームランの応酬で、七回にはついに同点。15対15の九回表。二死二塁で、この日3打席無安打の3番樋口を小沢監督はベンチに呼んだ。『3打席ノーヒットなんだから、初めて打席に立ったつもりで行け。』と指示。すると、左打席の樋口は、決勝の左超え二塁打を放ち16対15で逃げ切った。
両チーム合わせて、3本塁打29安打が飛び交った。
(一年生のショート)神土秀樹コーチは、「兼光さんが、熱があった事は知りませんでした。そして、中京はよく打つなあと思っていました。」
一方(当時の)小山稔コーチは、「エースで4番の兼光を中心として、非常に高いレベルで投打にまとまっていたチームでしたね。」
「兼光の投球フォームは、投手としては程遠いものでしたが正しい投球フォームにすると兼光が投げられなくなってしまいますから本人に任したんです。」
「九回、樋口のレフトオーバーは差し込まれたんですが、力でレフトオーバーに繋げました。」
こうした歴史と伝統がある倉敷工と中京大中京。
(第81回選抜高校野球大会。)2回戦の相手は、強打中京大中京。
倉敷工山崎早藤の投手陣対強打中京大中京の勝負だった。

つづく
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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」