春風爽快 キセキの春 3

倉敷工、校舎の西 約400mの距離にある 野球部専用グランド。

通称 「第2グランド」 は、84年9月に完成した。野球好きの校長の意思が、野球部専用練習場を生むきっかけとなった。倉工グランドは、かつて 野球、サッカー、ラグビー部が一度に練習していた。打球が、サッカー部員の後頭部に直撃して、救急車で運ばれる事もあった。さらには、ファールボールがテニスコートに飛ぶこともあり、「危ないっす、危ないっす」 の声に、テニス部員は、頭をかかえてしゃがみ込む事も。こうした光景に眉をひそめたのが、77年4月に倉工に赴任した貝原輝明校長(当時)。大の野球好きだった。「貝原校長は、校長室にいなければ、大体グランドにいる野球好きだった。」 こう語るのは、次の福田憲治校長(2009年)。

校舎の周囲は、住宅地であり、拡張工事は不可能。新たな土地探しが始まった。

「地権者からは、『私の家は女の子ばかりで、今後は倉工にお世話になる気はない。土地は、

売るつもりはない。』という冷たい反応ばかりでした。(貝原校長の自書より)」

地主に頭を下げる一方、保護者や教職員が寄付金集めに奔走。計画から完成までに5年。

建設費 約5億円がかかった。

貝原校長 在職中の9年間は、甲子園とは無縁だったが、退職した年の86年、倉敷工は

夏の岡山大会を制し、18年ぶりの甲子園出場を果たす。球場(岡山県営球場)にいた貝原前校長は、駆け寄った、倉工ナインから 何度も何度も胴上げされた。そして、涙が止まらなかったという。「野球部が伸び伸びと思う存分練習できる専用の第2グランドを作ってやってよかった」(貝原校長の自書より)。06年 貝原校長は、81歳で他界。

『野球部を伸び伸び練習させてやりたい』 貝原校長(当時)の思いが叶った第2グランドだったのである。

忘れまじ、倉工第2グランドを作った校長 貝原輝明を。

つづく 随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞

毎日新聞

(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協 力

小山  稔氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

神土 秀樹氏 「元 倉敷工業高校野球部 コーチ」

和泉 利典氏 「元 倉敷工業高校野球部 監督」

中山 隆幸氏 「前 倉敷工業高校野球部 部長 監督」

春風爽快 キセキの春 2

2008年、20年間倉工野球部監督を努めた和泉利典が、総監督に。そして、部長の中山隆幸が監督に就任する。また、中山の一学年上の和泉と二つ先輩のOB神土秀樹がコーチに。3人は現役時代同じ倉敷工のユニホームを着て白球を追った間柄。同じ絆で結ばれたスタッフが、新たな伝統を築くのだ。昭和50年春の選抜甲子園に出場した神土。開会式直後の開幕試合で中京大中京と対戦。壮絶な戦いで16対15の勝利を飾り、二回戦では、猛打東海大相模と対戦し0対1で惜敗した時の正ショート。(新2年生)【当HPおいまつ会トップページの中『風雲の奇跡涙の甲子園』を参照して下さい。】神土は、卒業後社会人野球川崎製鉄水島「現JFE西日本」に入団。川鉄水島にとって社会人野球最高峰の大会都市対抗に出場するのは悲願の中の悲願だった。
迎えた、昭和59年都市対抗中国地区予選代表決定戦。4対3と川鉄水島がリードしていた。8回表二死ランナー1.3塁で神土が打席に入った。祈る思いで、大声援を送る川鉄水島の大応援団。すると神土の一撃は、レフトオーバーの3ランホームランとなった。都市対抗出場が決定的となった神土の3ランホームラン。「3ランホームランを打って、一塁ベースの所でヘルメットを取って持って走っていました。僕は、公式戦、練習試合を含めて6本しか打ってないんです。その1本があの時の3ランなんです。」奇跡のようなプレーが起こるのは、それを呼び込めるだけの努力をした選手だからである。こうして、倉敷市代表として川崎製鉄水島は、都市対抗に初出場した。神土は、18年間も野球部に在籍。終盤の5年間はコーチ兼任で活躍。今現在でも社員の中では、『神土の3ラン』として語り草となっている。神土は、職人かたぎで不調の選手を見つけると付きっ切りで面倒を見る。
中山が、監督に就任した時、こう切り出した。「スピード重視で行こう守備は早い動きで常にダブルプレーを狙い、攻撃では早いカウントから好球必打で。」を提案すると中山も「自分もやりたかったんです。」と意気投合。これでチームの基本方針が決まった。現役時代、中山と一塁でノックを受けていた和泉は「自分は補佐役。長く部長として支えてくれた中山を今度は自分が支える番。」と。
また、倉工野球部部員の父親で立ち上げた(バス友の会)。順番で、運転手を務め選手を遠征に連れて行く。中には、わざわざ大型免許を取得した人もいるほどの熱の入れよう。長く先輩たちが大切にして来たグラウンド内外の支援の輪が伝統校を支えて行く。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 1 新連載

甲子園で、数々のドラマを演出して来た倉敷工。当HPでは、そのドラマを連載として出して来た。まず、第1弾は対報徳学園戦。無得点で迎えた延長十一回、倉敷工が6点を奪い勝負は、決まったと思われた。ところがその裏、報徳が猛反撃で追いつき同点に。そして延長十二回に決勝点を奪う大逆転劇を演じた。延長十一回2死で、投手永山から、エース森脇に、交代したのが敗因と、言われた。しかし、県大会直前の練習中に、大怪我をした、森脇に、甲子園で、投げさせてやろうというナインの思いが、地区予選突破の、原動力だった。「負けたけど、あれでよかった。」と、永山は言う。
その、友情物語を描いたのが、『昭和36年のドラマ』。敗者の美しさが、そこにある。第二弾は、昭和4243年の春夏と、4連続甲子園出場した時の立役者で、エース小山稔を、主人公とした『青春ヒーロープレイバック』。
「昭和43年夏の準決勝。対静岡商戦の朝、歯を磨こうと思っても、手が上げられない状態。勝ち負けより、投げられるかが、心配でした。しかし、自分の力を出し切って悔いは、ありません。」と、小山。母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山稔の、3年間の完全燃焼物語である。第三弾は、監督として全国に名を馳せた小沢馨の、選手時代から、小沢監督最後の、甲子園を描いたのが、『風雲の奇跡』。
この『風雲の奇跡』は、三部構成とした。その一部は、倉敷工が、甲子園初出場した時の物語で、『風雲の奇跡初陣倉敷工』。二部は、一部に登場した人物をより具体的に表したのが『風雲の奇跡よみがえれヒーロー』そして、三部は、甲子園最後となった監督小沢馨の『風雲の奇跡涙の甲子園』。名監督小沢馨の、選手時代から、監督最後までの物語である。第四弾は、10年ぶり8回めの「夏」を決めた物語『捲土重来』。
この『捲土重来』も、二部構成とした。その一部は、復活に燃える倉工ナインを描いたのが、『捲土重来平成8年の夏』。二部では、その甲子園出場までの道のりを描いたのが『捲土重来復活への道』。倉工野球の意気と誇りと、苦闘の日々の団結が、そこに見える。
【これらは、当HPで、おいまつ会のトップページ、カテゴリーの、中にあります。】
当HPは、夏の甲子園を主に描いて来たが、今度は、春の選抜甲子園に、目を向ける事にした。大銀傘が、架け替えるなど、リニューアル工事で生まれ替わった阪神甲子園球場に、32校が集う(81回選抜高校野球大会)に、スポットを当てる。2009(平成21)、倉工校長室に、待ちに待った春の便りが、やって来た。「謹んでお受けします。頑張ります。」緊張気味に、電話を、取った福田憲治校長は、すぐに表情を緩ませた。そして、福田校長は、その吉報を、グランドで待つ倉工ナインに、快挙を報告した。
「感謝の気持ちを、忘れず粘りの倉工野球を甲子園でも見せてほしい。」と、激励。各ナインは、何度もガッツポーズを繰り返し、帽子を空高く投げ上げて喜びを爆発させた。実に、選抜出場は、34年ぶりの出場。この年の、開会式の入場行進曲は、【キセキ】だった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きますことを、ご了承下さい。

参考
山陽新聞社
毎日新聞社

協力
神土秀樹氏(前倉敷工業高校野球部コーチ)
中山隆幸氏(前倉敷工業高校野球部部長監督)

 

捲土重来復活への道29最終回

平成元年は、決勝で涙。二年は、準決勝。三年は、3回戦で敗退。
甲子園は、近いようで遠かった。「華々しい時代を、知っているだけにイライラし通しだった。」と、倉工ファン。平成五年、甲子園出場経験のある、OBの藤原勝利と永山勝利が、コーチに就いた。さらに六年、倉敷工在学中、監督の和泉利典と、共に白球を追った中山隆幸が、凱旋し部長に。倉敷工野球部出身の和泉と中山。
二人とも現役時代、甲子園出場を果たせなかっただけに、ひのき舞台への、思い入れも強い。「選手のため。応援してくれる人達のためにも頑張りたい。」と、和泉と中山。こうして、和泉をサポートする体制が、出来上がったのだった。大きな転機だった。まず、新体制が手をつけたのは、『習慣』の撤廃。例えば、グランド整備は下級生のみ。「いつの間に、意味のない習慣が増えていたのか、と驚いた。」と、永山。OBコーチの、藤原と永山は、『グランドでは厳しく練習以外では、仲間。』という意識を、植え付けた。指導方法も変化させた。中山は、メンタルトレーニング、ウエートトレーニングを本格的に導入。さらに、栄養学も取り入れたため、選手たちの基礎体力が、みるみるうちに、アップした。「力のある選手を集め、技術練習で強くする事ばかり考えていた。」と、和泉。甲子園出場実績は、もとより県内でも、実績のない学校の監督を努め『力のない選手を、いかに伸ばすか。』に、腐心して来た中山の指導は、大きな刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、藤原と永山の両コーチ。コンディショニング、メンタル面は、中山。すると、新体制の歯車が、がっちりと、かみ合い始めた。さらに、目標は高く設定した。
それは、『全国制覇』。「常に甲子園に出るチームは、全国で勝つという、意識を持っている。目標を、甲子園出場に置くと、途中で息切れをしてしまう。」と、和泉は、説明する。結果もついて来た。
昨夏(平成7年)は久々にベスト4。優勝した関西を、最後まで苦しめた。そして、平成8年の夏、苦しい試合を一つ、また一つと、ものにして行きながら、古豪は、力強く復活を果たした。これぞ【捲土重来】七月二十九日、倉敷マスカット球場。優勝を決めた直後のインタビューで、和泉は、声を詰まらせた。そして泣いた。「あくまでも、目標は
全国制覇。十年かかっても、いや、それ以上かかっても。」主将の北條は、優勝旗を手に、力強く言い切った。先輩たちが、成し遂げられなかった大きな【夢】に向かって、よみがえった名門が、力強く羽ばたき始めた【平成8年の夏】。倉工の玄関には、倉敷工野球部の、業績を記した額が、かかっている。一番左に、『二〇〇九(平成二十一年三月)第八一回選抜高校野球大会出場二回戦開幕試合史上初金光大阪に延長逆転サヨナラ勝利』と、書かれている。まだ、その左には、余白がある。今度は、どんな文字が書き込まれるのだろうか。

捲土重来最終回

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本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

令和元年おいまつ会作品展

倉工創立80周年記念「第71回倉工祭 文化の部」が、11月8,9日盛大に開催されました。一般公開となった9日、早朝から他校の女子生徒をはじめ、保護者、おいまつ会会員など大勢の方々が詰めかけました。屋外特設ステージでは、バンドチームのパフォーマンスや書道部による書道パフォーマンス、さらには吹奏楽部による演奏があり、人気を集めていました。おいまつ会館では、今年も作品展が開催されました。今年も、多数の作品が、所狭しと並べられました。
中でも「倉工80年の歩み」という事で、開校当時の写真パネルや昭和20年代(?)らしき校舎の様子などあり、訪れた方々が足を止めて見入っていました。
こうした中、特に目立ったのが、元倉敷工野球部監督の、和泉利典さんが、今年の夏の県大会開会式で県高校野球連盟から、【功労者表彰】を、受賞され、その表彰状、記念品の展示でした。(当HP。捲土重来を参照して下さい。)そして㈱中原三法堂様から表彰のポスターの作成があり功労者表彰に、いや、作品展に花を添えて下さいました。
来年も盛大な『倉工祭 文化の部』になりますように、おいまつ会も応援をしていきたいものです。
がんばれ倉工 美しい文化の倉工へ


倉工玄関懸垂幕


力作ですね


中庭にて1


中庭にて2


正面玄関です


(株)中原三法堂様と木村副会長


ちょっと休憩です


和泉利典さんの功労者表彰


作品展の様子です

 

捲土重来 復活への道 28

夏9回、春10回の甲子園出場を誇る県内、いや全国屈指の名門倉敷工。
19回の、甲子園出場のうち、ベスト4四回(昭和24夏、昭和32春、昭和43春、夏)。ベスト8は、二回(昭和47春、昭和49春)全国の強豪校として名を馳せ、甲子園での、通算成績は25勝19敗と輝かしい戦績を誇る倉敷工。
この25勝は、現在県最多勝利数である。四十二、四十三年は四季連続出場「当、HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照してください。」を、果たすなど、また、三十年から四十年代にかけては。岡山東商と共に県内二強時代を築き、県高校球界をリードして来た。ところが、五十年代に入ると、普通科志向の、強まりからいい選手が、集まりにくくなった。また、スポーツに力を入れる学校も増え、岡山南や玉野光南そして岡山城東など新勢力も台頭。『勝てない』『選手が集まらない』と、言う悪循環。選手の気質も変わり厳しさ一辺倒の指導では、通用しなくなってきた。名門であるがゆえに、これまでの指導方法、あるいは、気質から脱却できないまま、じりじりと低迷へと追い込まれて行った。夏の大会で、57年は1回戦を、突破したが58、59年は連続して、初戦で姿を消すなど、低迷状態が続いた。和泉利典が、倉敷工監督として、チームを預かったのは、そんな時代の変わり目の、真っ只中の、昭和59年秋。
伝統校も、甲子園から十五年以上、遠ざかっていた。【ぜひとも、古豪復活を】OB、ファンは和泉へ期待が集まった。和泉は、力のある選手を集め、熱血指導で、就任二年目の、昭和60年夏県大会準決勝へ進出。身長168㎝2年生の、エース左腕石井厚志を擁し連続無失点47イニングを達成。手応えを感じていた時、OB塩田富士夫が、監督に着任した。和泉は、コーチに退く事に。
当時、和泉は26歳。翌昭和61年夏、エース石井の、抜群の制球力と、キレのあるカーブを武器に力投で、倉敷工は、岡山大会を制し、実に18年ぶりの甲子園出場を勝ち取る。和泉は、手塩にかけた選手たちの活躍を喜ぶ一方で、「複雑な気持ちもありました。」と打ち明けた。甲子園では、初戦で秋田工に、1対11で敗れたものの倉敷工にとって悲願の【古豪復活】になったと思われた。だが、翌夏から再び甲子園は遠のいた。そして、平成元年再び和泉が監督に返り咲く。満を持しての再スタートだったが、やはり『あと一歩』の状態が続いた。「何が足りないのか」やがて悩み苦しむ和泉に、転機が訪れる。
つづく
随時掲載
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本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

創立80周年記念倉工祭 おいまつ会員・OB 教職員作品展(ご案内)

秋冷の候 皆様方におかれましては、ますますご健勝のことと存じ上げます。また、平素よりおいまつ会運営のために、ご理解ご協力を賜り感謝致します。

さて、今年度は,倉工創立80周年を迎え節目の倉工祭が11月8日(金)校内発表、9日(土)一般公開の両日で開催されます。倉工祭に併せておいまつ会では作品展の開催いたします。ぜひとも多くの方からの出品を募集しております。お知り合いの倉工関係者の方にも声掛けをしていただき作品の出品のお願いと、倉工祭に来校された際には、ぜひ作品展にもおいで下さいますようご案内申し上げます。一般公開日11月9日(土)9時から作品展を開催しております。

出品作品(例)

写真
絵画(油彩,水墨,版画他)
彫刻(仏像,木彫,刻字他)
書道(書,篆刻,ろうけつ染め他)
陶芸
人形(きめこみ,編み物,パッチワーク他)
魚拓
その他(学校行事や部活動等思い出の写真や賞状などの品)

搬 入:令和元年11月  7日(木)13時20分~17時

会 場:倉工おいまつ会館2F (事務局Tel /Fax424-8515)

連絡先:岡本茂樹,山崎秀明 (倉工Tel 422-0476 Fax422-9934)

撤 収:令和元年11月 9日(土)14 時~16時

※作品の搬入・撤収は個人でお願いします。ご要望があればご連絡下さい。
おいまつ会のホームページより『作品展要項』をご覧いただけます。
また、『出品票』もダウンロードできます。

URLはこちら http://www.oimatu-kai.jp/ob_ten/ob_ten.html

E-mail  info@oimatu-kai.jp

 

【お願い】

  1. 出品票は、搬入時に作品と共にご持参または郵送して下さい。出品者の名簿作成をいたしますのでよろしくお願いします。
  2. 11月 7日(木)以前の搬入につきましては岡本,山崎まで連絡をお願いいたします。
  3. 安全管理上、特に貴重な出展物に関しては、事前に事務局までご相談下さい。
  4. 遠方の場合でやむを得ない場合には、破損しないように梱包をして郵送してください。送料は事務局で負担し、送られてきた梱包方法で返送しますが、万が一破損した場合の責任は負いかねます。
  5. 郵送する場合には、発送日や返却方法、梱包方法など詳細について必ず事前に岡本,山崎までご相談ください。写真や絵画など額に入った破損しにくいものに限らせていただく場合がある点をご了承ください。

OB展依頼状

捲土重来 復活への道 27

よみがえった全国屈指の名門倉敷工。倉敷工10年ぶり8回目の甲子園出場。全国に、その名をとどろかせた名門が、久々に大舞台に登場した。
その復活までに、どの様な事があったのか、その舞台裏、復活までの道のりを当HPが、探ってみた。
現在、倉敷工業高校野球部コーチ西川剛正は、次の様に語る。
(監督の)和泉先生と(部長の)中山先生が、一生懸命に、指導して下さったおかげです。県予選の前のミーティングで、『和泉先生は、試合中は、笑顔でいて下さい。』と、言ったのは、実はぼくなんです。和泉先生は、そのとおりを、やってくれました。意見を、取り入れてくれたんですね。あの時、ぼくは、和泉先生の、人間力を感じましたね。それと、OBコーチだった、藤原勝利さん、永山勝利さん。藤原さんと永山さんは、良く僕らの話を聞いてくれましてね。
ぼくらの、気持ちをよく理解して、くれたんだと思います。練習が、しやすくしやすくしてくれた、と思います。それと、主将が、北條だったから、勝てたと思います。」
西川は、走攻守揃い、二番打者、正二塁手として活躍した。
現在、岡山工業高校野球部部長中山隆幸。
平成6年、OB中山隆幸が、凱旋すると同時に、部長に就任した。中山は、技術指導の他に、ウエートトレーニング、イメージトレーニング等を、本格的に導入。
さらには、栄養学も取り入れ、食事にも気を配るようにした。当HPが時々グラウンドに行ってみると、行くごとに、選手の体格が大きくなっていたのは、こうした指導が、あったものと思われる。さらには、選手たちの意識改革も進め。先輩後輩の垣根を、取り払った。甲子園出場実績がない学校の監督を努め【力のない選手を、いかに伸ばすか】に、腐心して来た中山の指導は、大いに刺激になった。中山は甲子園に、3回出場。部長、監督として甲子園で、9試合を戦った。部長として、駒大苫小牧、今治西等と7試合を戦い、特に、鹿児島実業との試合では、野球の厳しさを、学んだという。「あの、スライディングは、厳しいものがありましたね。ルール違反では、ないんですが『塁を取る』という執念を感じました。」また、監督としては、2試合を戦った。金光大阪との試合で、大接戦を制し、強豪中京大中京に対し、56と食い下がったのだった。
現在、水島工業高校野球部監督和泉利典、十年間の、無念さを晴らすかの様に、力を蓄え岡山大会を、勝ち上がった倉敷工。
ベンチ裏で、大きな背中が震えていた。729日、倉敷マスカット球場。延長12回の死闘の末、岡山城東を下して優勝を決めた倉敷工監督和泉利典。
和泉は、OBコーチらに抱きかかえられ、人目をはばからず泣いた。もがき、苦しみ抜いて掴んだ喜び。その姿は、県内、いや全国屈指の名門が復活までに、たどって来た、苦闘の日々の道のりを、表しているかの様に見えた。

つづく
随時掲載

お願い
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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

 

捲土重来 平成8年の夏 鹿児島実業戦

「良く、やったぞ。倉敷工」大会十一日目の十八日、倉敷工は、今春の選抜の覇者鹿児島実業と対戦。鹿児島実業の強力打線の、勢いを止める事ができず、惜しくも敗退。ベスト8進出は、ならなかった。

鹿実  011 340 000 9
倉敷工 000 100 001 2

倉工一塁側アルプスは、優勝候補との対戦を、見届けようと最上段までぎっしり。球場全体を揺らすほどの、大声援で倉工ナインを、盛り上げた。
序盤、鹿児島実業のエース下窪投手の巧投や、たたみかける攻撃に苦戦。じりじり点差を広げられる一方的な展開に。倉工スタンドにも、焦りが、生まれ始めた。
【熱戦の足跡】
5点差を、追う四回裏倉工の攻撃。四球で出塁した、俊足西川が、盗塁をするなどで、迎えた一死三塁の好機に、バッターは主砲福原。
その期待に答えるかの様に、福原の打球は、快音を響かせ、二遊間を、ライナーで抜き、西川が、全力でホームを駆け抜けた。「よし、いいぞ。」と、待望の得点に沸く倉工アルプス。五回表、差は、6点に広がり、つづく無死一、三塁のピンチに、先発の諏訪から、エース中原がマウンドへ。一球一球丁寧に投げ込む中原だったが、鹿児島実業の打線を、食い止める事はできず、さらに2点を失う。最終回の攻撃。二死から代打の稲岡、白神渡辺の3連打で、1点を返すが、反撃もここまで。
最後の打者北條の打球は、内野への高い飛球でゲームセット。倉工スタンドは、時間が止まったように、静まりかえった。
【灼熱の白球】
「よく、やった。」と、倉工応援団三千人。
試合を、終えた倉工の選手たちが、一塁側アルプスに陣取る、約三千人の、大応援団のもとに駆けてくると、惜しみない拍手が湧き起こった。スタンドでは、最後まで大声援が続いた。九回に、1点を返すと「まだまだ、行けるぞ。」「最後まで、諦めるな。」と、この試合最大の盛り上がりを見せた。
西川剛正二塁手は、全力を尽くしたプレイ―に、本人も満足。『野球を続けてきて、本当に良かったです。精神的にも、一回り成長したように思います。』
倉工ナインは、胸を張って、鹿児島実業の校歌を聞き、その校歌に合わせて、手拍子を送ったのだった。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

 

捲土重来 平成8年の夏 東筑戦

無失策で守り切り、追いつかれても気力で突き放しての勝利。
台風12号の影響で、強風が吹く中での、ナイトゲーム。東筑が同点に、追いついてからの、投手戦。苦しい展開が続いたが、八回主砲福原が、勝ち越しの一打を、放った。
倉敷工 111 000 020 5
東 筑 000 210 000 3
東筑石田投手の、丁重に低めをつく力投で、スコアーボードには「0」が、続く。五回には、3対3の同点に追いつかれた。しかし倉工は、粘り強く守って耐えた。八回に試合が動く。坪井が敵失で、出塁。四番福原が、右打席に立つ。5球目内角の直球を、とらえた。風は、バックスクリーンから、本塁に向かう「浜風」。
球は、風に流されて、突っ込んできた右翼手のグラブの下を、くぐった。
坪井が、一塁から一気にホームに駆け込み勝ち越した。東筑外野陣は、深い守備位置についていた。
【熱戦の足跡】
倉工エース中原は、中盤から球の切れが失われていた。カーブを狙い打ちされ、四回には4連打を浴びて、2点が入り1点差に迫られる。
中盤は投手戦。石田投手の好投に空振り三振が続く。七回は三者三振。中原ー福原のバッテリーは、六回から、配球を替えて二塁を、踏ませなかった。強風に備えた外野守備は十分にしてきた。
また、改めて基本動作を確認すると共に、内野の守備も堅実さを増した。五回の、先頭打者のライナー性の打球を、一塁手高本が飛び上がってキャッチ。抜ければ、右翼への長打になりうるところを食い止めた。和泉監督は、試合前に『ミスは必ずあるもの。
それを、いかに最小限に食い止めるか。踏ん張る野球を心がける。』と、語った。声を掛け合いながらの無失策。倉敷工「浜風」の中、輝く笑顔。風が、倉敷工に味方したゲームだった。
【灼熱の白球主将北條剛中堅手】
『東筑のエース石田投手は、ストレートが早いので、そのストレートを狙って打ち崩す。』試合前の言葉どおりだった。一回戦の勝利から六日間待ち望んだ二回戦。先頭打者として、石田投手に向かった。
4球目、インコースに思い切りバットを振る。打球は、快音を残して
左中間を抜け、二塁打に。この一打がチームを勢いづけ、序盤の優勢
を、決めた。しかし、中盤に追いつかれ苦しい展開。勝利を信じて
『明るく、開き直って行こう。』と、沈んだベンチを、励まし続けた。
『どんな相手でも、毎回初戦という気持ちで頑張りたい。』と、北條。
自宅は、倉敷市南端の下津井。一時間四十分かけて自転車での
通学で、下半身を鍛えた努力の証が、そこにあった。

つづく随時掲載

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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」