正門から母校を見て

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正門付近から、正面玄関を見ますと思わず目に飛び込んで来る大きな物があります。

それは、今年全国大会に出場した各部の懸垂幕であります。いったい何本あるのかと数えてみました。すると、国民体育大会が2本。全国高校総合体育大会が5本。全日本卓球選手権大会など、7本もあり合計14本の懸垂幕が掲げられていました。

その懸垂幕を目にした時、「 やっとるな!」 「 がんばっとるな!」 と感じずにはいられません。近年、県立高校にとって、また文武両道を目指す倉工にとって全国大会の舞台に立つ事は非常に厳しいものがあると思います。その難関を乗り越えて晴れの全国大会に出場した選手の皆さん、おめでとうございました。また、惜しくも全国大会に出場できなかった選手の皆さんも、その悔しさを持って卒業できる事はとてもいい事です。どうか、その悔しさを忘れずに、また悔しさをバネに代えて各方面で頑張って下さい。それにしても、懸垂幕に登場した各部をはじめ、毎日毎日選手の指導に汗を流されている顧問、監督さんには、本当に頭の下がる思いです。

今後も、おいまつ会は懸垂幕にも注目して行きます。

がんばれ 倉工
 目指せ文武両道
    倉敷工業

祝 国民体育大会出場
カヌー部
水泳部

祝 全国高校総合体育大会出場
陸上競技部
ウェートリフティング部
   カヌー部
卓球部
水泳部

祝 全国高等学校ボーリング大会出場
ボーリング

祝 高等学校選手権大会
ボーリング

祝 高体連加盟全国高等学校選抜大会
ボーリング

祝 全日本卓球選手権大会
卓球部

祝 全国高等学校選抜大会
卓球部

祝 全国高等学校7人制ラグビー大会
ラグビー部

祝 全国高等学校弓道選抜大会
弓道部

青春ヒーロー プレイバック 9

小山 稔物語 

昭和43年の倉敷市。工業都市として、みぞうの発展を遂げ また 観光都市としても全国にその名を知られる。水島コンビナートでは連日フル操業が続く。
こうした中、倉敷のシンボルとして、あるいはアイドルとしてその存在価値を高めて行く倉工野球部。 「今度こそ、全国制覇を。」 と、倉敷市民は熱い期待を寄せるのだった。
特に、エース小山に寄せる熱い期待と信頼は絶大なものであったに違いない。
「倉工のファンは、熱狂的で特別なファンなんです。」 と小山。「練習を終えて帰宅していると ( 小山、今帰っているんか。気をつけて帰れよ。) とかですね、( おおい、小山がんばれよ。)とね。」 「毎日、たくさんの人が声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。」と、小山は言う。小山は、今現在も感謝の心を持ち続けている。
全国制覇に向けて走る、倉工ナイン。当然、練習の厳しさも一日一日と増して行く。

グランドの周囲には、のどかな田園地帯が広がっていた。田んぼからは、カエルの鳴き声が
聞こえる。ところが、その田んぼの中にボールが飛び込んで行く事があった。すると部員たちは先を争う様に田んぼの中のボールを拾いに行くのだった。当時は 「水をのんでは、いけない。」と言われていた時代。ところが、部員たちは何と、田んぼの水を飲んでいたのである。
小山もその一人。 「田んぼの中に、ボウフラがいましてね。そのボウフラを手でかき分けて手で田んぼの水をすくって飲みました。もしかしたら、一匹や二匹のボウフラを飲んだかも知れませんね。」と、苦笑いする小山。田んぼで農作業をしていた、おばさんがその光景を見て「 まあ、可哀想に。倉工の野球部は田んぼの水を飲んでいる。 」と、周囲に漏らしていたのも事実である。その、おばさんが田んぼに農作業に出かける時、麦茶を用意してボールを拾いに来た部員に、そっと飲ませていた事もあるそうである。そして、 「倉工、頑張って。」と、一声。 倉敷に満ち溢れるエネルギーと、歩を合わせる快進撃を、いや 全国制覇を倉敷市民は期待していた。

つづく     随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

       山陽新聞社   「灼熱の記憶」

協 力   小山 稔氏

部活動訪問 書道部

文字は、 はじめ文化の進展につれ、美的に表現される方法が生まれました。
その書道は、人間修養の一方法でもあります。


おいまつ会による、部活動激励訪問。
今回は、第68回倉工文化祭で、書道パフォーマンスを発表している、書道部を訪問させて頂きました。
書道部は、8人の部員 (女子3) で、週3回の練習を行っていて、岡山県書道展にも出展し、多くの入賞者を出しています。訪問日は、文化祭と言う事で、多くの見学者がいる中、ステージ場で音楽に合わせ大きな筆で一気に書き上げる様子は迫力十分。書道部部長の、河村 智史君 (3) は「部員を増やしていき、楽しい書道部にして行きたいです。」と、抱負を語ってくれました。顧問の、速水 昌子先生は、「もっとモチベーションを上げて、やる気を出してほしい。」と、今後の活躍を期待していました。

おいまつ会も、書道部の今後の活躍を期待し、応援して行きます。頑張って下さい。

がんばれ 倉工 輝け 日本の伝統文化  倉工書道部

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倉工文化祭 おいまつ会OB展開催

倉工パワーが爆発しました。
68回倉工文化祭が、111819日に盛大に開催されました。一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。
同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開もありました。こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。
小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。
さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。
こうした中、昭和4243年と4季連続甲子園出場した時の選手で、角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。
角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

故 小沢 馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 (甲子園の土) の始まりと言われている。
卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。
移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト43が最高成績。 【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。
甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

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青春ヒーロー プレイバック8

小山 稔物語

春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。当然、招待試合などに招かれるケースも増える。小山にとっては、これが不運。痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。
倉敷工 武  津久見 太田 。 両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。当然、倉工ファンも多くなって行く。
小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

つづく    随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
山陽新聞     (灼熱の記憶)
瀬戸内海放送  (夢 フィールド)

協 力
小山 稔氏
武  渉氏

 

青春ヒーロー プレイバック7

小山 稔物語

第40回選抜高等学校野球大会。

昭和43年3月28日から4月6日までの10日間開催。中国地区からは、倉敷工 尾道商 広陵 防府商が出場した。昨年の選抜において倉工が、繰り上げ出場。夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、小山の左腕は肘と肩に後々までいえない故障を抱えていた。

昔から甲子園には、魔物が潜んでいると言われているが、その魔物は、「倉敷工業を甲子園に出場させてやるが、小山の肩をくれ。」と、言っているのだろうか。こうした中、小山は歯を食いしばって投げつづける。

2回戦     倉敷工 3 - 0 清水市商   小山2勝め

準々決勝   倉敷工 4 - 0 銚子商    小山3勝め

今大会、優勝候補筆頭の銚子商を下す。

「肩が痛いのは、当然です。でも痛いながらのピッチングができました。」と小山。

「黄金の左腕 小山 稔」 2試合連続完封を達成する。

準優勝    倉敷工 1 - 3 尾道商

準決勝 ベスト4にて敗退。宿舎に帰った倉工ナイン。小山は、小沢監督に呼ばれた。

「気力が足りない。今日の、ピッチングは何んだ。お前みたいな者は出て行け。」すると、小山は下を向いたまま、宿舎を出た。出て見ると外は雨が降っていた。小山は、宿舎の外で雨に打たれながら下を向いて立っていたのである。すると、小山のもとに一人のOBが優しく語りかけて来た。

「小山、中へ入れ。風邪をひくぞ。監督さんは ( 小山には夏があるんだ。夏に向けて頑張れ )と言ってるんだよ。監督さんの愛のムチなんだよ。」と。すると、小山は自分の手を握りしめた。前を向いた。そして、唇をかみ再び闘志がみなぎって来たのだった。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 6

小山 稔物語

昭和43年 春の選抜出場が決定した。地力でつかんだ3季連続の甲子園。歓喜に湧く倉工ナイン。

工業都市として、観光都市として発展して行く倉敷市。その中、倉工の選抜出場は何より。

まさに、倉敷市発展の象徴的な存在であったに違いない。

選抜が近くなったある日、小沢監督から新しいユニホームが配られた。その新しいユニホームは従来の物とは違っていた。従来は、アイボリーに濃紺の文字を基調としていて、帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングも濃紺だった。(現在甲子園博物館に所蔵されている。)

しかし、今回のは純白を基調とした早稲田カラー。帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングは純白にエンジ色のライン2本。胸には、従来と同じ「KURASHIKI」。そして、小山には倉工のエースナンバー1が贈られた。しかし、この新しいユニホームを配った時、小沢監督から替えた理由はげられなかった。何日かして、次のような説明があったと小山は言う。

「濃紺を基調としたユニホームは、身体の大きい選手が揃った時には似合う。しかし、君らのような身体の小さい選手ばかりでは、似合わない。そこで、高校生らしく爽やかな色で早稲田カラーとした。

ここで、替えないと替えられる時はなかった。」と。この純白のユニホームが、倉工の伝統の1ページを飾る事になる。選抜は2年連続6回目。春夏合わせて11回目の甲子園出場。白壁の町、倉敷から大応援団がアルプス席を埋め尽くすのだ。そして、木村 義夫 と 木元 大一 が作った、名物応援として、発展して行く ( 桃太郎 )を乗せた何十台もの応援バスが、聖地へと向かった。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏

野球部の社会貢献活動

白壁の街にそびえる、鶴形山。その、鶴形山に、倉敷の総鎮守 阿智神社があります。

阿智神社の秋祭りは、毎年10月の第3土曜日と日曜日に行われます。この秋祭りに

倉工野球部一年生が、社会貢献活動として、神輿を担ぎ氏子地区となる、倉敷美観

地区周辺を、練り歩いている事をご存じですか? (他にも、清掃活動も実施しています)

今年で10年近くになります。白装束に身を包み、神輿を掛け声と共に差し上げ、その下を

お客様や、氏子にくぐって頂きます。この神輿は、日曜日の午後からで、黒住教倉敷大教所

を出発。   (今年は、10月16日、13時より)  御旅所を回り、阿智神社東参道に帰って

来ます。ここからが、阿智神社秋季例大祭のクライマックスとなる、「お山入り」です。

夕方5時ごろ、阿智神社に上がる長い階段を最後の力を振り絞って、駆け上がるのです。

鳥居をくぐって88段の米寿段、そして境内までの石段を駆け上がる様は、倉敷の風物でも

あるのです。無事、神輿が帰って来た境内は歓声に包まれます。その様子を、多くの観光客

が、カメラに収めるのです。阿智神社の秋祭りが終わると、倉敷は冬支度へと入ります。

一年生部員は、楽しみにしているようです。

がんばれ 倉工 わっしょい わっしょい わっしょい  倉工野球部

協 力
宮野 義治氏
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部 顧問
阿智神社

 

青春ヒーロー プレイバック 5

小山 稔物語

昭和42年、秋の新チームが結成された。
俊足巧打の土倉を切り込み隊長とし、バントの名手山口、長打の武、強肩の藤川。
それらの選手は、2年生からの出場メンバーで、持ち味に磨きをかけチーム力は着々と向上すると共に、全国トップクラスに成長。
そこに、小山の力投が加わるのだ。
さらには、野球を愛する心は誰にも負けず、ただひたすらに白球を追いかける角野。
「角野の学力は抜群でした。」と小山。「全選手が、技術力を高めるためにそれぞれに各方面で、努力をしていたと思います。
これは、絶対に断言できます。」と角野。
さらに「私は、野球が大好きだったんです。
キャッチボールも野球、ノックを受けても野球、グランド整備も野球練習その物が野球だったんです。」と、角野は熱い思いを語ってくれた。
名将 小沢監督がそんな角野を見逃すはずがない。
名将は、角野を3塁コーチャーに抜擢した。役者は揃った。あとは大舞台に立つだけ。
勝負の時が来た。
秋の中国大会。
倉工は順調に勝ち進み決勝に進出。決勝の相手は、小山の好敵手、宇根投手の広陵。
3回まで、0 対 0 だったが、降雨のため中止。
(広島市民球場) 翌日、会場を替えて再開され、当然投手戦になったが、軍配は広陵に上がった。

(倉敷工 0 - 1 広陵  呉二河球場)

秋の中国大会で準優勝した事で、来春の選抜出場は当確。
しかし、浮かれた選手は誰一人もいなかった。
昭和42年、倉敷 玉島 児島が合併。新しい倉敷市が生まれた。
倉敷は、工業都市として、観光都市として発展して行き、全国に名を知られる事になる。
そこに、選抜出場の期待がかかる倉敷工業。
倉敷市民は、熱い期待に包まれて行く。
ただ、一つの心配な事。
それは、母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山の肩だけが心配だった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

参 考
山陽新聞社 「灼熱の記憶」

 

名物応援 桃太郎誕生秘話

昭和42年選抜に、繰り上げ出場となった頃である。

音楽部の、木村義夫 と 木元大一はある同じ悩みを抱えていた。それは、楽器が古すぎる事。

「中には、壊れているのもありました。」と木村。そこで、木村と木元は校長室に向かった。

「せっかく甲子園に行くのに、こんな楽器では恥をかきます。校長先生何とかして下さい。」と

小山俊雄校長に直訴したのだった。すると、小山校長は「よし、わかった。」と言って、ポンと

25万円を出して二人に渡した。25万円の大金をである。当時の25万円と言うと、現在では

おそらく、150万円近くになるのではなかろうか。早速、木村と木元の二人は、四国、高松市の

日本楽器に買いに走った。トランペット、サックス、トロンボーン等一式を買って帰ったのである。

そして、木村は思った。「ここまでしてくれたのだから、何か恩返しをしなければ。」と。

木村と木元は、「岡山県代表なのだから、岡山に関係ある曲で、しかも、倉工をPRできる曲を。」

と言う事で。こうして、生まれたのが 桃太郎 での応援だったのである。早速、木元が桃太郎の

曲をアレンジして、楽譜を部員に配った。そして、昭和42年選抜で初披露となったのである。

しかも、練習も応援団との打ち合わせも十分に出来ずに、ほぼぶっつけ本番。アルプス席で

すぐに演奏した。最初、倉工生は桃太郎の唄を歌っていたが、いつの間にか歓声が入るようになった。

「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)

それ以後桃太郎の応援は倉工名物となって、常に相手校を圧倒。ある年の甲子園出場が

決まった時、テレビ取材で応援団員が言った。「甲子園では、ランナーが一人でも出たら、すぐに

桃太郎をやります。」と。しかし、時代の流れと共に現在では使われていないのが残念。

桃太郎の応援を望む、倉工オールドファンは多い。

木元大一は、現在海外でジャズを教えて活躍中。25歳で、イギリスに渡ってトニーエバンス楽団に

入団。No.1のトランぺッターに。日本、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス と、トランペット一本で

生きて来た男。管楽器なら、何でもござれ の、まれな才能も持ち合わせている。

現在は、スイスに定住。5か国が話せると言う。

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

協 力
木村 義夫氏
小山 稔氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂