【観戦記】7年ぶり9回目の全国大会 倉工軟式野球部

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【観戦記】

第67回全国高校軟式野球大会の、東中国大会決勝を観戦しました。
大会は、倉敷マスカット球場で行われ、倉敷工が4対0で鳥取工を下し、7年ぶり9度めの本大会出場を決めました。
9度目の本大会出場は、岡山県からは、最多記録を更新だそうです。

鳥取工000 000 000 0
倉敷工201 010 00X 4

【評】

投打が、嚙み合った倉敷工が快勝した。
一回、前田の中前打を足場に、2死二三塁とし、エース左腕中野の右前打で2点を先制。三回は、中野の右越え三塁打。五回は、中野、横張の連続二塁打と長打攻勢で1点ずつを加えた。
エース中野は、快速球と切れのあるカーブを武器に、散発2安打、1死球、13奪三振で完封。
準優勝に泣いた昨年から主力が7人残り、新チーム結成後は、周囲の期待も高かったが、コロナの影響もあって思うような結果を出せなかった。
しかし、そんな中でも目標を失わず地道に鍛錬を重ねた。
準決勝の玉島戦で、大会屈指の好左腕を攻略。蓄えて来た力を集大成の大会で発揮したと言えよう。(8月4日付、山陽新聞を参考)

スタンドの最前列で戦況を見つめる倉工軟式野球部マネージャーの間野惺羽(さわ)さん(T2)は、
「毎日暑い日が続くので、選手の水分補給に一番気を使います。」
今年のチームの特徴を聞くと
「練習の時の声が大きいです。冬場から攻撃力に力を入れて来ましたから。やはり攻撃力が強いと思います。」

【応援メッセージ】

「42年前の、倉工軟式野球部OBです。ポジションは、セカンドでした。現在、愛知県で高校、大学の審判をしています。全ての人に感謝し、リスペクトし、全員野球で頂点目指して頑張れ倉工。」
秋岡義典(昭和55年卒E科)

力投するエース中野

ラグビー部が友情応援

倉工応援団

おいまつ会役員も応援しています。

優勝決定の瞬間

応援ありがとうございました。

鳥取工0-4倉敷工

表彰式 選手の皆さんおめでとうございます。

メダル授与

場内1周する倉工ナイン

【速報】軟式野球部 東中国大会優勝 7年ぶり9度目の全国大会出場決定

軟式野球部が東中国大会で見事優勝し、7年ぶり9度目の全国大会の切符を手に入れました。選手の皆さん、保護者の皆さん、監督をはじめ指導者の皆さん、おめでとうございました。
第67回全国高等学校軟式野球選手権大会は、8月24日~29日に兵庫県明石トーカロ球場、姫路球場で開催されます。

軟式野球部の全国大会出場までの軌跡をまとめてみました。

高校軟式野球岡山大会16日開幕 「東中国」懸け14チーム争う
(2022年07月15日山陽新聞デジタル)

総社と倉敷工 東中国大会へ 全国高校軟式野球岡山大会
(2022年07月20日山陽新聞デジタル)

倉敷工が軟式野球東中国大会制す 7年ぶり9度目、岡山勢最多更新:山陽新聞デジタル|さんデジ (sanyonews.jp)(2022年8月3日山陽新聞デジタル)

【軟式】第67回全国高等学校軟式野球選手権東中国大会 優勝 倉敷工業高校
(2022年08月03日岡山県高等学校野球連盟HP)

東中国大会結果
東中国大会決勝戦(対鳥取工業戦)

熱闘甲子園 今昔物語 10 伝説の記憶

(報徳学園戦の)「あの夜、小沢監督は夜遅くに帰って来たんです。」と内野手だった岡田(現倉工野球部OB会副会長)
「夜中の、11時頃だったと思いますよ。」
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、選手全員小沢監督の帰りを待っていた。

しかも、全員正座をして。「私は、その場に出くわして、私も正座をして、両手をついて申しました。」「(森脇に後を託す意味からも)あの時、永山をベンチに下しておくべきだった。」小沢監督は自分の采配ミスを、選手に謝ったのだった。
そして「申し訳ない。お前たちを、勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったら、お互いことわりをしよう。『どうも、すみませんでした。』と。わしは何回も謝る。君らも、一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を噛みしめて甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」そう言うと小沢監督は、両手をついて、頭を下げた。これに対して、主将の松本が「森脇を、出してくれてありがとうございました。」
すると、全選手が、「ありがとうございました。」

小沢監督の目に光るものがあった。采配ミスを謝る小沢監督に対し選手たちは、逆に「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したのだ。名勝負を飾るのに、ふさわしい友情ドラマ。
小沢監督は、負けたにもかかわらず『監督冥利につきる、試合だった。』と話した。
しかし、それ以上に勝負の世界は非常だった。小沢監督は、その後何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して、選手を責めなかったという。情に熱い人格者でもあったのだ。

報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。外野手の土倉は「森脇が投げられるとは思っていなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあとずっと思っていた。甲子園で彼が投げた時は嬉しかったなあ。」

【全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。すべての責任は、私にある。どんな非難も、私一人が受け止める、それよりかは甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かしてほしい。】
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

 


【写真は第44回選抜甲子園大会での小沢監督】

倉敷工業-報徳戦の動画はこちら(バーチャル高校野球より)

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 9 伝説の記憶

倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7

勝敗を超えて、今日までも語れ継がれる名勝負。
昭和36年夏の甲子園。奇跡の大逆転となった倉敷工業対報徳学園戦は、夏が来る度に話題に上がる。手中の勝利を逃した、投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのだ。

ナインの気持ちは、一つ。
「森脇を、甲子園に連れて行く。」
そして「森脇と共に、甲子園で戦う。」
ナインの気持ちは、早くから、小沢監督にも伝わっていた。
「全員が、森脇を大舞台のマウンドへ。という思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と主将の松本は言う。
その松本(故人)が、十一回先制点となる二塁打を打ち、「森脇を登板させてやってください。」と小沢監督に直訴。

こうして、あとアウト1つを残して投手交代は実現。
この場面は、小沢監督(故人)にとって脳裏に焼きついて離れられないという。

松本は、八回九回頃になった時、ベンチに帰って来ると「森脇を、森脇をお願いします。」と小沢監督に。

そして、十一回表だった。
「では、打って来い。森脇が投げられる状況をお前が作って来い。」

こうして迎えた、十一回表だった。松本は、先制点となる二塁打を打ったのだ。この時だった。小沢監督は、次の様に話す。

「二塁打を打った松本が、何と二塁ベースの上に正座して、手を合わせて『監督さん』と呼びかけた松本の姿に、私は身体が震えました。」

松本らナインは思いを小沢監督にぶつけたのだった。
しかし、ようやく球威を、取り戻し投げられるようになったばかりの森脇にとって「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」永山の再登板はあまりにも酷だった。
この時の、ラジオ中継のアナウンスは「永山疲れました。永山疲れています。」と絶叫している。

その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、ナイン全員が、小沢監督の帰りを待っていたのである。しかも、松本ら全員は、正座して小沢監督の帰りを待っていた。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。

参考
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熱闘甲子園 今昔物語 8 伝説の記憶

11回裏報徳、背番号13の平塚を代打に送る。
沢井監督の温情だったがその平塚、三塁への内野安打で出塁する。
一死後フォアーボールで「一死一塁二塁」
ここで、5番清井ライトへヒット。
平塚、思い切ってホームへ。
うまく回り込んで、間一髪セーフ。『6対1』初陣報徳が、初めてホームを踏んだ。
次打者吉村のファーストゴロで2点目。『6対2』まだ4点差ある。
「二死三塁」小沢監督はここでエース森脇をマウンドへ。
永山は、三塁手に就いた。

森脇、1ボール2ストライクと追い込む。
勝負の1球。外角への渾身のストレート。
決まったかに見えたが、主審の判定は、ボール。この1球からフォアボール。
次打者貴田のレフト前ヒットで『6対3』
ここで、再度永山がマウンドへ。
火のついた報徳を誰も止められない。
連打を許し走者が溜まる。
1番内藤センター前ヒットで、2人ホームイン。『6対4。6対5』アウト1つが遠い倉敷工業。瞬く間に1点差となる。


11回裏、報徳学園は、内藤の中前安打で、2者が帰って1点差になる。

場内騒然の中2回目の打席となる代打の平塚。今度は、センター前ヒット。
センター鎌田バックホーム。
二塁ランナー東は、三塁で止まった。
ところが、捕手槌田が、後逸。それを見た東がホームを踏んだ。
『6対6』の同点となる。

12回裏二塁打した藤田を、清井の二塁ゴロで三塁へ進める。『一死三塁』
小沢監督は、二人の打者を敬遠して、満塁策を取る。『一死満塁』
大きく報徳に傾いた流れを誰も止められない。
次の打者貴田がライトへ。土倉、飛び込んで取ろうとするが、ボールがグローブをかすめた。『6対7』

倉敷工業サヨナラ負けとなる。
(逆転の報徳)と言われたフレーズは、こうして生まれた。


まさかの逆転負けに、茫然とする倉敷工ナイン。

温情用兵が報徳には幸運を、倉敷工には不運を呼んだ劇的な試合であった。
しかし、小沢監督は、負けたにもかかわらず「監督冥利に尽きる試合だった。」と話した。
手中の勝利を逃した投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのである。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語 7 伝説の記憶

春夏合わせて6回の甲子園出場を誇る倉敷工業と、春夏合わせて初出場の報徳学園の試合は、球史に残る壮絶な戦いになった。
倉敷工業の先発は、二年生の永山。報徳学園は、左腕酒井。

5回裏、倉敷工業小沢監督は、内野手控えの岡田を呼んだ。
「森脇とキャッチボールをしてやってくれ。」
森脇と岡田がキャッチボールを開始する。


倉敷工のエースとして、投球練習をする当時の、森脇投手。

9回表二死から、4番鎌田、3安打目となるレフト前ヒットで出塁。「二死一塁」
鎌田盗塁成功。「二死二塁」
5番松本レフト前ヒット。
セカンドランナー鎌田ホームに突入するも、報徳レフト大野の好返球で鎌田タッチアウト。
得点を与えず、初出場ながら報徳落ち着いたプレーを見せる。

9回裏報徳、倉敷工業永山に対し、散発4安打に抑えられる。
10回裏ヒットとフォアボールで、一塁三塁の報徳。
2安打の内藤が永山の前に投手ゴロで報徳サヨナラの好機を逃す。

11回表倉敷工業が襲いかかった。
一死から中村フォアボールで出塁。「一死一塁」
槌田の当たりは、ショートゴロ。
Wプレーを焦った二塁手がキャッチできずボールがライトに抜け「一死一塁三塁」
ここで、報徳沢井監督は3安打の鎌田を歩かせ、敬遠策を指示。「一死満塁」
これが裏目に出た。

ここまで2安打している、5番松本が、打席に立つ。
松本レフトオーバーフェンス直撃の、二塁打で『2対0』「一死二塁三塁」


11回表、倉敷工一死満塁。松本のレフトオーバー二塁打で中村( 右 )槌田( 左 )が生還。2点先制する。

土倉のショートゴロだったが、バックホームするも、高くそれてフィルタースチョイス。三塁走者鎌田ホームイン。『3対0』「一死一塁三塁」


延長11回表、倉敷工一死二三塁。土倉の遊撃ゴロは野選を誘い三塁走者の鎌田が生還。3点目をあげる。

白川のスクイズで、『4対0』続く高橋のサードゴロをファーストへ、高い悪送球で『5対0』堅実な守備を見せていた報徳が、二本目のエラーを喫し守備の綻びが出る。
永山三遊間を抜くヒットで続く。報徳ベンチ、ここで好投してきた酒井から、本来のエース東に投手交代。
倉敷工業得意のWスチールを決め『6対0』となる。

倉工三塁側、応援アルプススタンドをはじめ、甲子園のいや日本中の誰もが倉敷工業の勝利を確信した。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語 6 伝説の記憶

(当時)一年生で報徳学園戦を、応援に行っていたという生田岩雄さん(昭39年卒C科現おいまつ会副会長)に、その時の応援について、お話をお伺いする事ができました。お話によると、応援席はもとより、甲子園球場は超満員だったそうです。そして、両校ともに物凄い応援合戦だったとの事。そこで、生田さんに、どのような応援合戦だったのか尋ねてみました。

「歓声一丁」と男子リーダーが大声を上げる。すると、応援席から「おうー」と歓声が上がる。その歓声は「地鳴りの様な歓声が響き渡った様な感じでした。」と生田さん。続いて、太鼓に合わせて一拍子の手拍子が始まり、次に二拍子の手拍子、そして、三拍子の手拍子と進んで行く。次に、男子リーダーが「337拍子」と声を張り上げると、鉢巻きに倉工学生服の男子リーダーが、両足を大きく広げ、その足を90度に曲げ、両手の握り拳を太鼓の「337拍子」に合わせて交互に前に突き出して応援団を鼓舞。すると、三塁側倉工応援アルプススタンドは最高潮に。そして、最高潮のアルプスは、さらにヒートアップして行く。

次に、揃いの帽子に応援ユニホームの男子リーダーが、横一列に並び、両手を上げた。

一瞬の静寂が走った。
「母校の勝利を祈って、校歌斉唱。」
すると、倉工生徒は全員帽子を右手に持って立ち上がった。演奏が始まると、校歌に合わせて右手の帽子を上下に振って行く。
一列目は右に動き、二列目は左に動き、以後各列は交互左右に動き、校歌を熱唱。
揺れる三塁側アルプス。男子リーダーは、校歌に合わせて、両手を上下左右に振り、アルプス席を鼓舞。
【水島灘の沖ゆく白帆も】
「このブラスバンドは、倉敷市内の中学高校からの友情応援だったようです。とにかく、倉工一丸の応援だったですね。」と熱く語ってくれた生田岩雄さんでした。

やがて、この応援スタイルは、昭和42年選抜で初披露となる「桃太郎」の応援へと、受け継がれて行く事になる。「桃太郎」の応援とは、当時、倉工音楽部だった木村義夫(現おいまつ会副会長)と木元太一(トニーエバンス楽団スイス国在中)の両名によって作り上げたもの。
当HPカテゴリーの中(投稿)の中で、『名物応援桃太郎誕生秘話』として紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。(2016年9月3日投稿)

試合は、0対0のまま五回に入った。小沢監督は、内野手控えの岡田(現倉工野球部OB会副会長)を呼んだ。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語  5  伝説の記憶

「やったぞ、甲子園じゃ」
「甲子園に行くぞ」
「森脇甲子園へ行くぞ」
感激にひたる倉工ナイン。
そして、ナインの心は、ひとつ。
『森脇を、甲子園に連れて行き、森脇とともに甲子園で戦う。』
日々の練習に、ますます気合い、闘志が漲る倉工ナイン。
松本は、胸をなでおろすと共に、一段と闘志が沸き起こっていた事だろう。
そんな時、ナイン待望の朗報が舞い込む。
『エース森脇が、投球練習が可能となった。』
役者は、揃いつつある。
ナインは、さらに闘志を燃やす。
こうして、迎えた第43回全国高校野球選手権大会だった。

初戦の相手が決まった。
初出場で、兵庫代表報徳学園。報徳は、創部30年め。
兵庫大会決勝で、県尼崎を2対0で破って念願の甲子園を射止めた。

1961年(昭和36年)8月13日。大会3日め、第3試合。
倉敷工対報徳学園
甲子園は、超満員。
一塁側報徳学園の応援スタンドでは、男子リーダーが両手や両足を上げて気合十分の応援態勢。
一方、倉工三塁側応援スタンドでは、「ファイト倉工」の横断幕が風にたなびく中、倉工学生服に身を包み、鉢巻きした男子リーダーが、両足を大きく広げ、両手の握り拳を、太鼓に合わせ、交互に前に突き出し、相手をねじり伏せるかのよう。
また、揃いのユニホームの男子リーダーが曲に合わせて、両手を広げたり、上げたり下げたりして、大応援団を鼓舞。

その曲とは何か。当時、一年生で応援に行っていたという、生田岩雄(現おいまつ会副会長)は、次のように言う。

「とにかく、校歌校歌の連続でした。今のような曲は、なかったんでね。とにかく

校歌の連続でした。」【水島灘の沖ゆく白帆も】「とにかく、両校すさまじい応援合戦でした。」と生田は当時を懐かしむ。

試合は、嵐の予兆を隠しながら、静かな投手戦で進んだ。
報徳は、左腕酒井葵三夫。
倉敷工、永山勝利の先発。試合は、0対0のまま延長に突入する。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語 4 伝説の記憶

「病院から帰って来て(ユニホームに着替えて)ベンチに入ったんですけどベンチに入るのがイヤだったですね。ベンチに入りたくなかったんです。」
明日に、甲子園出場をかけた東中国大会決勝。対岡山東商。
その前夜だった。全員が寝静まっていたが、誰か一人いない事に気づいた小沢。
「誰かいないぞ。」全員が起きた。騒然となった。誰かが言った。「森脇がいない」
宿舎中を探し回った小沢。「森脇は、宿舎の中庭の石の上に座って泣いていました。」
「こんな、夜中に何をしているんか。」
「監督さん。今日ベンチにいてたまりませんでした。明日、倉敷に帰らして下さい。」
森脇は、涙を流しながら小沢に、訴えた。
「この、バカたれが。お前がいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいなくて、何で勝てるか。」と叱責。小沢は、そう言ってなだめて森脇を寝かせたのだった。
こうして迎えた東中国大会決勝だった。
森脇は、投げられない自分と戦っていたのである。

倉敷から、大応援団が駆けつけた。
エース森脇を欠いての決勝進出。
昭和36年7月31日。
鳥取県公設野球場。この決勝の試合は、3対1で、岡山東商を下し、春夏合わせて6回め。2年ぶり3回めの甲子園出場を果たす。
倉敷工の勝利を決定づけたのは、七回、一死一三塁からの、Wスチールだった。
勝負のあやを知り尽くした、思い切った作戦。
「とにかく、投手の勝(永山勝利)のコントロールが、抜群だったんです。右打者の外角へのストレート。スライダーが、コーナー一杯に決まりましてね。コントロール抜群でした。」と、内野手の岡田。外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだからどうしてもという気持ちが、東商さんより上まっていたのではないか、と思います。」

全国屈指のエースを、練習中の負傷により欠きながらも、炎の闘志と団結力で、予選を勝ち抜いた(昭和36年夏の)倉敷工。こうして、苦しみながら勝ち抜いて、ついに掴んだ
甲子園切符。松本が泣いた。倉工ナイン全員が泣いた。松本と森脇が抱き合った。
そして、森脇が「ありがとう。」監督の小沢は「チームワークの勝利です。」と。
そこにある夢。あこがれの舞台。歓喜の瞬間。そこが甲子園。

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熱闘甲子園 今昔物語 3 伝説の記憶

急遽、主戦投手に選ばれた2年生の三塁手永山。新田中時代は投手。
強肩制球力の良さを監督の小沢は買った。
永山は、次のように話す。
「投げろ。と言われて県大会までには、何日間かの練習期間があったんですけど、投手としての経験という点では、不足していたと思います。」
一方、小沢は「永山よ。君は森脇の代わりではないんだ。永山一個人として投げろよ。」と指示。
これに対し永山は「小沢監督の指導もユニークで(早い球は、放るな。遅い球で勝負しろ。)とか(スライダーは、この様に握って投げなさい。)と色々と教わりながら、練習をしていきました。」
「スライダーの投げ方を教えたが、器用だったのですぐ覚えた。」と小沢。
永山の急成長に、「もしかしたら。」と監督の期待も膨らんだ。
「こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こう。」とナインも奮起。こうして迎えた県大会予選だった。

初戦は、笠岡商。「もう、一回戦の笠岡商に、負けるんじゃないかと思いましたよ。」と外野手の土倉。
笠岡商エース池田投手は、威力十分のストレートを右打者インコースに投げ込んで来た。打ちあえぐ倉工打線。8回が終わり、1対2で笠岡商リード。
9回倉工最後の攻撃。後がない倉敷工。
「ナインは、負けを覚悟したと思いますよ。」と内野手の岡田。【現倉工野球部OB会副会長】
9回、1対2で笠岡商リード。
しかも、一死ランナーなしの倉工。
ここで、岡田が四球を選び出塁する。
一死一塁。送りバント成功。
二死二塁。ここで、捕手の槌田が、左中間に打ち返す。
岡田が生還して、同点に追いつく。
その後、延長に入りやっとの事で勝利する。

「この試合経過は、かすかな記憶によるものです。」
笠岡商に勝利した倉敷工は、二回戦以後、打線が爆発。
県大会を突破して東中国大会に進出。
当時は、岡山と鳥取の上位2校が対戦し勝ち抜いた1校が甲子園に出場できたのである。
初戦は、鳥取の強豪米子東。
「何としても、森脇を、甲子園に連れて行きたい。」
ケガをさせた負い目を感じていた主将の松本は、そうメンバーに訴えたのだった。『森脇を甲子園へ』『森脇を甲子園に』一丸となった倉工は、9対7で米子東に打ち勝ち決勝に進む。
対米子東戦において松本は、神がかり的な大活躍を見せる。
決勝の相手は、岡山東商。
その決勝前夜だった。その夜、事件が起きる。

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