捲土重来 平成8年の夏 7

平成7年夏。 和泉 と 中山 のコンビは、OBコーチ 藤原 と 永山 の

助言を得て、近年にない大型チームを作りあげる。県春季ベスト4、8校選抜優勝。

「 8校選抜は、現在は廃止 」 甲子園が見える。 倉敷工 は、エース辻村

に加え、球速140を超え、社会人野球注目の 平 がリリーフし、勝利の方程式

が、完成。打線も 4番平 を中心に、上位下位何処からでも、得点が取れる。

快進撃を続ける 倉敷工。

倉敷工 6 - 2 津山

倉敷工 6 - 4 和気閑谷

倉敷工 9 - 8 倉敷商

準決勝は、この年選抜甲子園に出場し、エース吉年投手を擁する、最大の難敵

関西。吉年投手は、全国的にも知られ、高校生離れした球威を誇る。 倉敷工

としては、何としても打ち崩したいところ。試合が始まった。いきなり倉工打線が、

吉年投手に襲いかかった。 4番平 の左中間への豪快なホームランかと思える、

フェンス直撃弾をはじめ、前半を終えて、6点のリード。吉年投手を攻略し勝負

ありかと思われたが、さすがに 関西 も意地がある。 倉工エース辻村 に疲れが

見え始めた後半、関西打線が爆発。試合が終わって見れば、 6 対 7 の

逆転負けを喫したのだった。

準決勝   倉敷工 6 - 7 関西

『 関西の方が、より多くの経験を積んでいたと、思います。 』と、和泉。

『 準々決勝、倉商戦と、準決勝、関西戦は、天国と地獄を味わったようで。

記憶に残る試合となりました。 』と、中山。

敗戦は、時として、チームを強くする。 負け から、学ぶ事さえある。

倉工野球の 意気 と 誇り と 苦闘 の日々はつづく。

つづく   随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

共創 共に創り上げる喜びを

11月9,10日 「 共創 共に創り上げる喜びを 」を、テーマに 第70回倉工祭 文化の部 が盛大に開催されました。

一般公開となった、10日は早朝から他校の生徒さんをはじめ、保護者、そして昭和20年入学の3人をはじめとする多くの、おいまつ会会員が、詰めかけしました。

おいまつ会館では、今年も おいまつ会作品展 を開催し、同窓生の絵画 書道 彫刻 等の展示を行いました。その中で最も注目を浴びたのは、『 倉工硬式野球部77年の歩み 』と、題し 昭和24年甲子園初出場した時の写真から、平成21年選抜甲子園出場に至るまでの写真パネルでしたが、多くの人々が、足を止めて見入っていました。さらに、当HPで、お馴染みの 「 青春ヒーロー プレイバック 黄金の左腕 小山稔物語 」を、印刷して、展示したのも、多くの女性から人気を博していました。

 

今後の課題としては、より一層の展示物を期待したいと思います。

 

がんばれ倉工   輝け 美しい文化の倉工

 

捲土重来 平成8年の夏 6

倉敷工野球部 部長中山 隆幸  監督和泉 利典。

この若い二人を、補佐し支えて行く、二人のOBコーチ。藤原 勝利( 昭36年卒 )

と、永山 勝利( 昭38年卒 )。二人とも、甲子園 と 国体 に出場経験を持つ。

遊撃手だった 藤原 は、主に 守備コーチ を担当。【 私らの現役時代は、たとえば

打撃練習では、一本めをバントして、二本めから打撃なんですが、そのバントを失敗

したら、もう打たしてくれないんですからね。一つも気がぬけませんでした。それから

ランナーを二人出したとします。例えば一三塁とします。それで、どちらかのランナーを

牽制で挟んだとします。すると、二人のランナーを、アウトにする練習をしていました。

二人のランナーをアウトにするには、9人全員がわかっていないと、無理ですからね。 】

と、語る 藤原。卒業後、石油関係の会社の 軟式野球部 の主力として活躍。

50歳以上のシニアの部で、岡山県代表選手として、長崎国体で準優勝の実績を持つ。

一方、 永山 は、全国屈指の好投手、エースを欠きながらも 炎の闘志と団結力で

甲子園出場を勝ち取った昭和36年夏。そのエースの 代役 として活躍。

あの、高校野球不滅の名勝負 対報徳学園 戦の時の投手。二年連続で甲子園

出場を果たしている。卒業後は、社会人野球 東洋紡岩国 で野球を続け

社会人野球最高峰の大会 都市対抗 にも出場。倉敷に帰ってからは、自動車

関係の会社に勤務し、自社野球部の監督として、 秩父宮杯全国準硬式野球大会

において、 全国準優勝 にまで導いている。投手コーチを担当。選手との年齢差が

親子ほどに大きいものの、コミュニケーションを大事に進めて行く、 藤原 と 永山 の

両コーチ。内野手の 西川 剛正 は、「 藤原さんと永山さんは、よく僕らの話を

聞いて下さいました。そして、理解してくれましたね。 」 また、倉敷工は全国屈指の

名門校。甲子園に出場する度に、何か話題を ふるさと倉敷 に持って帰る。

それだけに、熱烈なファンも多い。時には、外部やOBからの圧力もある。そうした

圧力を、両コーチは一切遮断。 和泉 中山 の指導がしやすくサポート。

『 とにかく指導に集中できる様になりました。選手から信頼を得られました。』と、和泉。

また、両コーチは 父母会 の意識改革にも乗り出す。その結果、野球部 スタッフ一同

そして 父母会 一同が、一体感が生まれたのだった。体制は、できた。

こうして、平成7年夏。暗く長かったトンネルに、光がさしてきた。遠かった 甲子園 へ

の道。甲子園の、あの大歓声が聞こえて来るところまで来ていた。

つづく   随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 5

「 一年生大会の時は、中山先生が良くノックをしてくれましてね。大会試合の時は
和泉先生が監督として、采配でした。とにかく無我夢中で必死で頑張りました。

大会に入ると、試合ができるという喜びがありましたね。もう、怖い物知らずでした。」

こう語るのは、内野手 西川 剛正。現在は、倉敷工野球部コーチ。

この一年生大会は、一年生で退部するのを防ぐと共に、一年生全員が、どこかで

出場する事を趣旨としている。また A、B の2ブロックに別れていて、各ブロックの

優勝チームが、 優秀校 として表彰されるものである。決勝戦は、行わない。

平成6年県一年生大会で、 倉敷工 は その優秀校 となる。

倉敷工  8 -1 作陽

倉敷工 12 - 1 東岡山工

倉敷工 14 - 1 玉野

決勝 倉敷工 13 - 3 玉島商

暗く長いトンネルが続いていた 倉敷工。ここに来て、やっと出口が見つかりかけた

平成6年。この大会の主戦投手は、 中原 俊博。右打者に対し、インコースに

ナチュラルシュートがあり、インコースに投げ切れる投手。そして、アウトコース低めに

決まる、 伸び 切れ があるストレートが持ち味。和泉監督は 『 そこそこは

できるチームだなと感じました。手応えを感じましたね。 』

こうした中、 部長、監督 を補佐し支えて行く 二人のOBコーチがいた。

つづく  随時掲載

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 4

監督がいない 倉敷工野球部。その期間は約5か月にも及んだのだった。

そうした中、和泉らが最終学年に差し掛かろうとした、3月末やっと新監督が誕生した。

名前は、OB吉田 豊。昭和47年選抜甲子園ベスト8の時の内野手。吉田は卒業後、大学に進学( 大東文化大 )。卒業と同時に倉敷工監督となった。

主将和泉は、ナインに訴えた。「今日は、新監督が来る日。ちゃんと大きな声で挨拶をしよう。練習も気合いを入れて、監督に気にいってもらえるようにしよう。」と。そして和泉は、退部していた、本来のエースを呼び戻したのだった。こうして、若き青年指揮官と、共に夏の甲子園を目指す事になった。結局、夏の予選は、準々決勝で岡山南に敗れ、甲子園への道は絶たれた。この年、水島工が甲子園初出場した。和泉は卒業後、法政大に進学。走力と打力には、自信があったが、全国から集まった精鋭たちの前に、あまくはなかった。 法政大を卒業した和泉は、理大附の教壇に立ったが、すぐに倉敷工校長から「和泉よ、倉工に帰って来い」と言われ、その後長いこと 倉敷工野球部監督をする事になる。しかし、思うようにはいかず、マスコミから厳しい言葉を受ける事もあったという。こうして、時は過ぎ平成6年を迎えた。監督経験もある、頼もしきOB中山隆幸を野球部部長として迎え、和泉と中山のコンビが誕生。あくまでも、野球を通じて人としての心、人間性を重んじる中山の野球道。一方、どんな投手でも、打ち崩せる打撃チームを理想とし、戦術面で時には、緻密な作戦を用いた、小沢野球を追求して行く監督和泉利典。平成6年の一年生を見た和泉は、『面白い奴が多いなあ』と感じたという。「特に、北條なんか、中学のスポーツバッチテストが、100点満点でしたからね。いいのが、来たなと思いましたよ。」こうして県一年生大会を前にして、中山の猛ノックが始まった。

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

祈 花園出場 夢を抱いて走れ ラグビー部

( One for All,  All for One )
ラグビーで、良く使われる言葉であります。その意味は 「一人一人が、自分自身の役割を把握し、それを果たした上で、全体の事を考えるのが本来。」が、精神だと言われています。
昨年、倉敷工ラグビー部監督に就任し、4年ぶりの 花園出場 へと導いた 黒住 晃 監督。昨年末にあった一回戦で敗れたが、常勝 倉工 を育てていきたい 』と鼻息は荒い。テレビドラマ 「 スクールウォーズ 」を見て、ラグビーを通じて築かれて行く人間の成長に憧れたという 黒住監督。当、HPは 2年連続花園出場 を狙う倉敷工ラグビー部 黒住 晃監督 に単独インタビューを、試みた。

Q1  部員数は、何人か
3年生が19人。2年生9人。1年生7人です。女子マネージャー4人です。

Q2  春の大会から、夏合宿をやって、チームが成長したところはどこか
すべての面で、レベルが上がっていると、思います。

Q3  今年のチームの特徴 昨年と違う点とは
3年生が多い事ですね。花園経験者が 10人 いまして、みんな試合
に出ていますからね。運動能力が高い子がいますよ。

Q4  昨年の 花園出場 で監督として学んだ事とは
全国上位のチームは、パスの速さが違いますね。当たり合う コンタクト
の強さ が凄いです。

Q5  花園出場にあたり、ライバルとなるチームとはどこか
玉島高校でしょうか。一年生に、中学時代の経験者が、多いですからね。

Q6  今年の夏、どの様に チーム を鍛えたか
長崎県や愛媛県遠征をやって、全国トップレベルのチームと、合同合宿
を行いまして、全国レベルを知る事ができました。

Q7  今後の課題とは
全力で、最後まで 走り切る 体力作り が大事かと思います。

Q8  おいまつ会に一言
2連覇目指して頑張りますので、応援よろしくお願いします。
追記 岡山県予選は、美作ラグビーサッカー場で行われます。
11月11日 準決勝。11月18日決勝。


雨の中、練習するラグビー部

 


指揮する黒住監督(中央)


がんばれ、倉工ラグビー部

 


この重い、夢を抱いて、走れ!!

 

がんばれ 倉工   重い夢を 抱いて走れ 倉工ラグビー部

取材日:平成30年9月15日

捲土重来 平成8年の夏 3

【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に 甲子園 に行くんだ 】

小沢監督に憧れ、倉工の 門 を叩いた 和泉。 倉工 に行けば 甲子園 に行ける。

夢 を追いかけた。「 倉工 の迫力ある 打力 打撃 に憧れましてね。 」と、和泉。

しかし、 小沢監督 の背中を、追いかける時間は、長くはなかった。いや、短かすぎた。

和泉 が、一年生の時 ( 10月 ) 小沢監督 が、引退してしまったのだ。選手たちは

『 小沢監督 の指導を受けたい 』『 そんな、はずじゃあないなのに 』と。

「 次は、誰が監督になるのか、心配でした。 」と、 和泉。 小沢監督 の後任に

当時、コーチだった、 脇田監督 が誕生した。しかし、 脇田監督 も、 和泉 が二年生

の、11月で、退任してしまった。主将だった 和泉。 和泉 の苦労は、ここから始まる。

在学中、二人の 指揮官 を失った 倉敷工野球部。 主将の和泉 は、 小沢 の

所へ行っては、 「 どんな、練習をしたらいいですか。」と、何回も何回も 足 を運んだ

という。冬場の 鶴形山の階段 は、きつい。部員の中には、「 監督もいないし、もう

帰ろう。 」と、言い出す者もいた。また、手を抜く者もいた。 和泉 は、訴えた。

「 俺たちが、 甲子園 に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。

しっかり、走って足腰を鍛えよう。 」『 当時は、倉工のグランドで練習していまして。

サッカー部やラグビー部もいましてね。それで、打撃練習は、一人づつしかできなかったんです。』

と、和泉。その、打撃練習の時だった。同じ学年の 部員 に「 悪いが、打撃練習から

外れてくれんか。 」 和泉 の胸中は、いかなるものだったのか。こうして、指揮官の

いない月日は、流れた。

つづく   随時掲載

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ    」

捲土重来 平成8年の夏 2

平成6年4月、頼もしきOBが母校に凱旋する。そのOBは 倉敷工在学中 から大いなる

夢を抱いていた。その夢とは、「 教師になる事。野球の指導者になる事。 」 卒業時には

約10社からなる 社会人野球 からの勧誘を断り、大学へ進学( 足利工大 )。野球部には

入らず、ひたすら学業に専念。そして、 野球の勉強 と 指導学 を独学で学んだ。

その努力が実り、 教員採用試験 に一発で合格。 東岡山工 笠岡工 を経て 母校 に

帰って来たのだった。その OB の名前は、 中山 隆幸。 倉敷工 に転勤命令を受けた

中山 は、すぐに 和泉 に電話した。 中山 から報告を受けた 和泉 の第一声は

「 ほんま か 」だった。【 コーチはいたんですが、外部コーチだったんですね。ですから学校

行事や授業と、練習の時間が合わなくて。コーチがいない時は、私一人で指導してたんです。

それで、監督経験がある 中山 が来てくれる事を聞いて、これで時間が合う 仲間 が

できたと、すっごく喜びましたよ。 】苦労に苦労を重ねていた 和泉 にとって何よりの 吉報

だったに違いない。一方、 中山 は、【 倉敷工で、指導する事になり、プレッシャーが

ありました。 】と言う。それは何故なのか。普通なら、母校で指導できる 喜び というのが

あるはず。なのに 【 プレッシャーがあった 】とは、どういう事なのだろうか。それは、次の事の様

に、思われる。まず1点めは、 笠岡工監督 の時の事。 倉敷工 に完封勝利。

また、甲子園初出場を果たす 岡山城東 に打ち勝って、県大会堂々の ベスト8 入りを

果たした 実績。2点めは、以前より周囲から常に 注目 されていた事。そして、3点めは

【 中山 が、うちに来たから 倉敷工 は必ず3年以内に 甲子園 に行きますよ 】と

倉敷工校長 が、周囲に語っていた事。それらの要因が重なり、プレッシャーを感じていた

のかもしれない。こうして、 倉敷工野球部部長 中山 隆幸。 倉敷工野球部監督

和泉 利典 のコンビ ( 和泉が一学年先輩 )が誕生したのである。そして、この二人のコンビ

で、 甲子園 で 倉敷工旋風 を巻き起こす事になる。しかし、 和泉 と 中山 らの

在学中の 倉敷工野球部 は、 順風満帆 ではなかった。これも、名門校ゆえの事で

あろうか。

つづく  随時掲載

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 1

全国屈指のエースを、練習中の負傷により、欠きながらも 炎の闘志と団結力 で予選を

勝ち抜いた 昭和36年夏。その36年夏を、呼び起こすような 一丸の勝利 を 倉敷工が

見せたのは、平成8年夏の県大会。球史に残る激戦となった 選抜甲子園ベスト4

岡山城東 との決勝。序盤の失点にも、ベンチはエースを続投させ、そして完投させた。

ナインは、エースを励まし続け、エースは終盤から本領を発揮。10年ぶり8回めの、甲子園

出場を勝ち取る。激闘の延長戦。 倉敷工 が勝利を決定づけたのは、二本連続の

タイムリー。最後の選手を打ち取った瞬間、ナインはマウンドのエースへ走った。

そして、抱き合った。 倉敷工監督 和泉 利典 は、何度も何度も宙を舞った。そして

倉敷工応援スタンドから、「 和泉 和泉 」の、和泉コールが、沸き起こる。 和泉 は

倉敷工応援スタンドに赴き、帽子を取った。そして、スタンドを見上げ、 深々と頭を下げた。

どのくらい頭を、下げたのかはわからない。ベンチが泣いた。ナインも泣いた。そして、応援

スタンドも泣いた。 倉敷工野球の、意気と誇りと苦闘の日々の団結 はしっかりと息

づいていた。当、HPはこの平成8年夏を、振り返ってみる事にする。物語の、始まりは

平成6年にさかのぼる。平成6年4月、頼もしきOBが、母校に凱旋した。

つづく  随時掲載

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  西川 剛正  「 現 倉敷工業高校硬式野球部コーチ 」

風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 25 「 最終回 」

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨   岡山東商監督 向井 正剛
あくまでも、投手を含めた 守りの野球 を基本とし、マナー 精神面 を重視した 向井。
心憎いばかりの 人心掌握術 で、ナインの心を一つにした。一方、どんな投手でも
打ち込める 打撃チーム を理想。練習時間を短く設定した中、 高度な戦術指導 を
施した 小沢。社会人やプロでも通用する技術を、教え込んだ。小沢 の愛弟子
黄金の左腕 小山 稔。その 小山 は、 小沢 を『 親父 おやじ 』と、慕う。
【 親父は、自分のところが強ければ、相手はどこでも構わない。と、言っていました。
また、相手チームを 偵察 する事はなかったですね。中京戦で 13 対 2 から
逆転負けしていたら、その時点で 辞表 を出していただろう、と晩年言っていました。
そういう 心の思い があったようです。 】 向井 は、48年の選抜出場後に 部長
になり、49年の選抜を最後に現場を離れ、県教委へ。この時、両雄が初めて一緒に
選抜の晴れ舞台 を踏んだのも、不思議な因縁だ。
倉工野球部を作った男 小沢 馨   2016年9月28日死去 その勇姿は見る事は
出来ない。 甲子園から、野球の素晴らしさを ふるさと倉敷 に持ち帰った男
小沢 馨。 倉敷の名前を、全国に知らせた男 小沢 馨。 倉工野球部 を作った男
小沢 馨。 甲子園17勝 は 県高校野球監督 として最高成績である。
   おわり  風雲の奇跡 最終回です
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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」 
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏