熱闘甲子園 今昔物語 18 栄光の足跡 6

第41回全国高校野球選手権大会(昭和34年)

倉敷工 10―3 太田(1回戦)
倉敷工 013 110 202 10
太 田 000 010 000 1
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打 中村

東北 2―0 倉敷工
倉敷工 000 000 000 0
東 北 000 002 00X 2
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打

【概要】
1959年8月8日~8月18日出場29チーム
地方大会を編成替えした。北海道を南北に分け、長野、静岡、広島が単独で代表を送る事になった。また、6チーム増えて29代表となる。初出場は9チーム。
開会式に皇太子殿下(当時)を迎えた。大会後の選抜チームは、ハワイでの親善交流試合の後、初めて米本土でも試合をした。

倉敷工(東中国岡山) 10―1 太田(西中国島根)
倉敷工打線は三振10を喫すが、10安打10打点と打線が爆発。
犠打7個を決め、打っては二塁打、三塁打、本塁打の各1本と打線が繋がった。小沢監督の「緻密な小沢野球」が見える。

東北(東北宮城) 2―0 倉敷工(東中国岡山)
倉敷工打線は、東北2投手に対し3安打に抑えられる。
三振の数も11となる。

この対太田戦、東北戦の2試合において一年生左腕森脇敏正が、甲子園のマウンドに上がった。

(当HP.カテゴリーの中昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。)

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送はありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語17 栄光の足跡5

第31回選抜高校野球大会(昭和34年選抜3年連続出場)

東邦 10―3 倉敷工
倉敷工 020 001 000  3
東 邦 002 000 71X 10
倉敷工投手 中原→杉本
本塁打

【概要】
1959年(昭和34年)4月1日~4月10日
出場23チーム入場曲「皇太子のタンゴ」

倉敷工打線は、東邦山本投手に安打3本に抑えられる。また三振も12個を喫す。
一方、東邦打線は11安打二塁打3本。
七回は、集中打で7点。東邦は、春に強いという印象を植え付けた。
『東邦(愛知)は、選抜5回の優勝を誇る。』

どんな投手でも打ち込める打撃チームを理想とし、社会人やプロでも通用する技術を自ら実践して教え込んでいく小沢監督にとって、屈辱的な敗戦だったであろう。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 16 栄光の足跡 4

第30回選抜高校野球大会(昭和33年選抜2年連続出場)

立命館3―2倉敷工(2回戦)
立命館 100 000 200 3
倉敷工 100 100 000 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打

【概要】

出場23チーム入場曲「クワイ河マーチ」
昭和33年。ここから、岡山県高校野球黄金時代が幕を開ける。
白壁の街に、白球に夢を追い求める男。倉敷工業監督小沢馨。
漆黒の岡山城が見下ろす街に、この男を倒すために、一途な情熱を燃やす男。
岡山東商業監督向井正剛。
岡山県高校球界を語る上で、この二人を抜きには語れない。
二人の監督が、重複した昭和33年から48年までの県勢の甲子園出場校を見ると35年と44年以外は、必ずどちらかが出場を果たしている。それも交互のように。まさに、竜虎の戦い。また小沢と向井の二人の好勝負は、全国的にも知られるようになる。そして岡山高校野球が、最も光彩を放つ時代を演出して行くことにもなっていく。

倉敷工は、2回戦から登場。
倉敷工エース渡辺は、立命館打線から9個の三振を奪う好投。
また、倉敷工打線は5個の犠打を決め、ランナーを前に進める。
しかし、チャンスに打てず残塁9。惜しい渡辺の力投となった。

倉敷工 小沢馨監督

岡山東商 向井正剛監督

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
現在、夢フィールドは放送ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 15 栄光の足跡 3

第29回選抜高校野球大会(昭和32年選抜初出場)

倉敷工 2―1 市立沼津(1回戦)
市立沼津000 000 001 1
倉敷工 020 000 00X 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打

倉敷工 2―0 育英(2回戦)
倉敷工 000 010 010 2
育 英 000 000 000 0
倉敷工投手 小野
本塁打

倉敷工 4―0 高松商(準々決勝)
倉敷工 000 100 300 4
高松商 000 000 000 0
倉敷工投手 渡辺
本塁打

高知商 3―1 倉敷工(準決勝)
高知商 210 000 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手 小野-渡辺
本塁打

【概要】
出場20チーム。入場曲は「緑のこだま」
「ひたすらに、フェアプレーで戦った。」昭和24年、甲子園ベスト4進出を決めた直後の倉敷工主将で、エース小沢馨の談話である。

この精神は、以後倉工野球の礎となった。小沢の選手時代の監督は三宅宅三(玉島商―明治大)。その三宅から倉工監督に就任した小沢は20歳だった。それから、監督6年めで、甲子園初出場を成し遂げる。小沢が賞賛に包まれている時、一人の大学生が卒業を控え、郷里の岡山へ帰る準備に追われている大物がいた。その大物の名は、『向井正剛』という。

この年の、主力選手は「室山」。
法政大に進学。東京六大学4度の優勝に貢献。首位打者も獲得した。
阪神タイガースに入団、七番打者として活躍。アキレス腱を切断し引退。フロント入りした。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 14 栄光の足跡2

第31回全国高校野球選手権大会(昭和24年初出場)

倉敷工7―6小倉北(準々決勝)
小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7(延長10回)
倉敷工投手小沢
本塁打藤沢2

倉敷工2―5岐阜(準決勝再試合)
岐 阜 130 100 000 5
倉敷工 002 000 000 2
倉敷工投手小沢
本塁打

【概要】
今大会からボールの改良やラッキーゾーンの新設などによって、活発な打撃戦が繰り広げられた。優勝は、大方の予想を覆し、創部4年めで、初出場の湘南。大優勝旗が21年ぶりに東日本のチームに渡った。

三連覇を目指す小倉北。洗練された野球をするチーム。
知名度は、雲泥の差。スタンドを埋めたファンも倉敷工の勝利よりも善戦を期待していた。息詰まるシーソーゲーム。倉敷工の守備の乱れに乗じて、重盗、スクイズと多彩な攻めで先手先手と攻める小倉北に対して、二回と六回の藤沢の2本塁打をはじめ、長打で追いすがる倉敷工。延長十回一死満塁から横山の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。「終わってみたら勝っていた。相手に悪い事をしたと思った。」と小沢。
薄暗い通路で、肩を震わせ泣きじゃくる小倉北の福島投手に帽子を脱いで「すまなかった。」と頭を下げたという。

準決勝対岐阜戦
1対3とリードされた四回。1点を返し、さらに無死満塁のところで突然の雨。翌日、再試合となった。
再試合では、強振を続ける打線は空回りし、頼みのエース小沢は、連投の疲れで肘が上がらない。2対5で敗れた。
敗戦を決めた無情の雨。「あの雨さえ無かったら。」
「今でも、雨の日には思い出す。」と小沢は言う。
なお、小沢は4試合で、ドロップを武器に27個の三振を奪っている。

小倉北に勝利した倉敷工の健闘を報じた山陽新聞(昭和24年8月18日)

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。

協力
和泉利典(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語12 伝説の記憶 最終回

「私は、報徳との試合については、10年間誰にも言わずにいたんです。それで、10年経ってから話すことになったんです。」
「えつ。そうなんですか。」
「そうです。10年してから、実はこういう事だったんですと。」
「そうだったんですね。でも、いい話ですね。」
「松本は、森脇に怪我をさせてしまったと思い。その松本には、本当に大きな負担を掛けさせてしまいました。」
この話のやり取りは、小沢氏と私(筆者)との二人だけの対談の一部である。

小沢氏は、倉工監督を勇退してからは、公演会に呼ばれる事が多かった。
その公演会の中で、最後の方に報徳との試合について話を持ち出す事にしていた。報徳との試合について話を切り出すと、いつも場内は「シーン」と静まり返ったという。

ある日の、公演会の事。
いつものように、公演を終えて、小沢氏は車に乗りかけ帰ろうとしていた。
その時、一人の老人が追いかけて来た。「小沢さん、小沢さん。ちょっと待って下さい。」その老人は、小沢氏に、語り掛けた。
「ワシは、今まで小沢さんをボロくそに言ってました。あそこで、森脇に替えるから、倉工が負けたんじゃと。今日の、小沢さんの公演を聞いて、初めてわかりました。そうだったんですね。いい話をありがとうございました。」
そう言うと、その老人は、深々と頭を下げたという。その老人とは誰か。
東中国大会決勝で戦った岡山東商岡本成機投手の実父だったのである。

小沢氏は、公演会の最後にいつも次の様な言葉を残して会場を後にしていた。
『鎌田の思いも。松本の思いも。槌田の思いも。結果の全ては、監督だった全て私の責任であって、彼らは、野球人として高校野球の選手として、最高の野球を見せてくれたと今でも信じています。』
自分の、采配ミスを謝る小沢に選手たちは、「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したという。名勝負を飾るにふさわしい、友情ドラマ。
しかし、それ以上に、勝負の世界は非情だった。

倉敷工業 対 報徳学園。

この【試合】【物語】は、永遠に、語り継がれて行く事だろう。

終わり

小沢 馨 監督

倉敷工監督の小沢馨(右側)  岡山東商を率いた向井正剛と共に一時代を築いた。

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 11 伝説の記憶

夏が来る度、話題に上がる『倉敷工業 対 報徳学園』の一戦。
勝敗を超えて、語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡的な大逆転の裏に隠されていた友情物語。
そして、指揮官と選手との深い絆と信頼。
この倉敷工業と報徳学園戦は、高校野球が続く限り、永遠に語り継がれていくことだろう。
また、倉工にとっても、大きな財産である。
今回は、その後の二人の活躍ぶりに注目してみた。

【鎌田豊】
卒業後、法政大に進学。東京六大学リーグの在学中3回の優勝を経験。1963年秋季リーグで、慶応大との優勝決定戦を制する。

同年春秋ともに、ベストナインに選出される。
打率0.240、4本塁打、30打点。ベストナイン2回。1965年広島カープから3位指名を受け入団。走攻守とも優れた中距離打者として期待され、67年一軍に定着。五番打者として起用される。26試合に先発出場を果たす。その後、肩の故障もあり、1970年に引退。
18年間、倉敷で中古車販売をした後、1990年から千代田火災海上に勤務した。

【槌田誠】
報徳戦で、サヨナラ負けのホームインを某然と見送った槌田。
卒業後は、立教大に進学。4年時の1966年春季リーグで4番打者として、戦後2人めの三冠王を獲得。ベストナイン2回。
ドラフト1位で、巨人に入団。
大洋戦で敗色濃厚の時だった。巨人宮田投手の代打に起用された。
この時、自身プロ入り3打席めであったが、大洋森中投手のストレートをライナーで左中間席に打ち込んだ。槌田の初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。
控えが多かったが、ここ一番という時、代打の切り札として起用され、巨人V9の一翼を担った。
その槌田が、一試合3本塁打という離れ業を演じたのは、昭和49年3月。倉敷で行われた阪急とのオープン戦だった。その内の一本は、場外の彼方へと消えた。あの夏の辛い記憶と共に場外の彼方へだったのだろうか。故郷の大観衆が送る喝采の中、槌田は晴れやかな笑顔で、「親孝行ができました。」と胸を張った。
3本のホームランの中、1個のホームランボールが、今でも倉工校長室のショーケースの中に大事に飾られている。

(お願い)
当HP、カテゴリーの中、大分類「校長室のボール槌田誠物語」を参照して下さい。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 10 伝説の記憶

(報徳学園戦の)「あの夜、小沢監督は夜遅くに帰って来たんです。」と内野手だった岡田(現倉工野球部OB会副会長)
「夜中の、11時頃だったと思いますよ。」
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、選手全員小沢監督の帰りを待っていた。

しかも、全員正座をして。「私は、その場に出くわして、私も正座をして、両手をついて申しました。」「(森脇に後を託す意味からも)あの時、永山をベンチに下しておくべきだった。」小沢監督は自分の采配ミスを、選手に謝ったのだった。
そして「申し訳ない。お前たちを、勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったら、お互いことわりをしよう。『どうも、すみませんでした。』と。わしは何回も謝る。君らも、一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を噛みしめて甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」そう言うと小沢監督は、両手をついて、頭を下げた。これに対して、主将の松本が「森脇を、出してくれてありがとうございました。」
すると、全選手が、「ありがとうございました。」

小沢監督の目に光るものがあった。采配ミスを謝る小沢監督に対し選手たちは、逆に「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したのだ。名勝負を飾るのに、ふさわしい友情ドラマ。
小沢監督は、負けたにもかかわらず『監督冥利につきる、試合だった。』と話した。
しかし、それ以上に勝負の世界は非常だった。小沢監督は、その後何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して、選手を責めなかったという。情に熱い人格者でもあったのだ。

報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。外野手の土倉は「森脇が投げられるとは思っていなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあとずっと思っていた。甲子園で彼が投げた時は嬉しかったなあ。」

【全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。すべての責任は、私にある。どんな非難も、私一人が受け止める、それよりかは甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かしてほしい。】
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

 


【写真は第44回選抜甲子園大会での小沢監督】

倉敷工業-報徳戦の動画はこちら(バーチャル高校野球より)

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 9 伝説の記憶

倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7

勝敗を超えて、今日までも語れ継がれる名勝負。
昭和36年夏の甲子園。奇跡の大逆転となった倉敷工業対報徳学園戦は、夏が来る度に話題に上がる。手中の勝利を逃した、投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのだ。

ナインの気持ちは、一つ。
「森脇を、甲子園に連れて行く。」
そして「森脇と共に、甲子園で戦う。」
ナインの気持ちは、早くから、小沢監督にも伝わっていた。
「全員が、森脇を大舞台のマウンドへ。という思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と主将の松本は言う。
その松本(故人)が、十一回先制点となる二塁打を打ち、「森脇を登板させてやってください。」と小沢監督に直訴。

こうして、あとアウト1つを残して投手交代は実現。
この場面は、小沢監督(故人)にとって脳裏に焼きついて離れられないという。

松本は、八回九回頃になった時、ベンチに帰って来ると「森脇を、森脇をお願いします。」と小沢監督に。

そして、十一回表だった。
「では、打って来い。森脇が投げられる状況をお前が作って来い。」

こうして迎えた、十一回表だった。松本は、先制点となる二塁打を打ったのだ。この時だった。小沢監督は、次の様に話す。

「二塁打を打った松本が、何と二塁ベースの上に正座して、手を合わせて『監督さん』と呼びかけた松本の姿に、私は身体が震えました。」

松本らナインは思いを小沢監督にぶつけたのだった。
しかし、ようやく球威を、取り戻し投げられるようになったばかりの森脇にとって「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」永山の再登板はあまりにも酷だった。
この時の、ラジオ中継のアナウンスは「永山疲れました。永山疲れています。」と絶叫している。

その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、ナイン全員が、小沢監督の帰りを待っていたのである。しかも、松本ら全員は、正座して小沢監督の帰りを待っていた。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 8 伝説の記憶

11回裏報徳、背番号13の平塚を代打に送る。
沢井監督の温情だったがその平塚、三塁への内野安打で出塁する。
一死後フォアーボールで「一死一塁二塁」
ここで、5番清井ライトへヒット。
平塚、思い切ってホームへ。
うまく回り込んで、間一髪セーフ。『6対1』初陣報徳が、初めてホームを踏んだ。
次打者吉村のファーストゴロで2点目。『6対2』まだ4点差ある。
「二死三塁」小沢監督はここでエース森脇をマウンドへ。
永山は、三塁手に就いた。

森脇、1ボール2ストライクと追い込む。
勝負の1球。外角への渾身のストレート。
決まったかに見えたが、主審の判定は、ボール。この1球からフォアボール。
次打者貴田のレフト前ヒットで『6対3』
ここで、再度永山がマウンドへ。
火のついた報徳を誰も止められない。
連打を許し走者が溜まる。
1番内藤センター前ヒットで、2人ホームイン。『6対4。6対5』アウト1つが遠い倉敷工業。瞬く間に1点差となる。


11回裏、報徳学園は、内藤の中前安打で、2者が帰って1点差になる。

場内騒然の中2回目の打席となる代打の平塚。今度は、センター前ヒット。
センター鎌田バックホーム。
二塁ランナー東は、三塁で止まった。
ところが、捕手槌田が、後逸。それを見た東がホームを踏んだ。
『6対6』の同点となる。

12回裏二塁打した藤田を、清井の二塁ゴロで三塁へ進める。『一死三塁』
小沢監督は、二人の打者を敬遠して、満塁策を取る。『一死満塁』
大きく報徳に傾いた流れを誰も止められない。
次の打者貴田がライトへ。土倉、飛び込んで取ろうとするが、ボールがグローブをかすめた。『6対7』

倉敷工業サヨナラ負けとなる。
(逆転の報徳)と言われたフレーズは、こうして生まれた。


まさかの逆転負けに、茫然とする倉敷工ナイン。

温情用兵が報徳には幸運を、倉敷工には不運を呼んだ劇的な試合であった。
しかし、小沢監督は、負けたにもかかわらず「監督冥利に尽きる試合だった。」と話した。
手中の勝利を逃した投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのである。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会