倉工の卒業生の活躍が掲載されていたので紹介します。
昭和62年卒の水本勝己君です。現在、広島カープの二軍監督に就任されています。
◎日々是広島東洋鯉
広島に思いを寄せるDEATH METALな野球バカのブログ
「2016年 広島東洋カープコーチングスタッフ雑感/二軍編 水本勝己コーチ、ついに監督へ」
http://kugyousou.net/blog-entry-2596.html
◎広島カープブログ
倉工の卒業生の活躍が掲載されていたので紹介します。
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春夏合わせて、6回目の甲子園を目指す戦いが始まった。
その戦いは全部員が「森脇を甲子園に連れて行ってやろう、森脇を甲子園に連れて行くんだ。森脇と甲子園で戦うんだ。」と言う、熱い思いの戦いでもあるのだ。
ところが、森脇本人はベンチに入りたくなかったと言う。
「倉敷球場なんかで、予選が始まりましたわね。病院から帰って来て、ベンチに入るのがいやだったですね。ベンチに入りたくなかったですね。」と、森脇。
県予選の、一回戦は笠岡商業。この一回戦から延長戦に突入。外野手の土倉は「あの、笠岡商業との試合は、もう負けるんじゃあないかと、と思いました。」と話す。
長く苦しい延長戦を制した倉工は、二回戦から打線が爆発。あっという間に東中国大会へと駆け上がった。
当時は、岡山県から2校、鳥取県から2校で、甲子園切符1校を決める仕組みになっていた。
岡山県からの代表校は、岡山東商。甲子園まであと2勝。土倉はこう話す「中国大会に行ってからは、森脇を甲子園へという気持ちが一段と強くなった。」と。
しかし、どうしても越えなければならない山。
それは、強豪米子東。
この米子東を倒さないと甲子園に行けない事を、ナインは知っていた。
その米子東と最初にぶつかったのである。
昭和36年7月30日、鳥取県公設野球場。ナインは悲壮感を闘志に変えて戦った。打撃戦になった。
打撃戦なら倉工も負けていない。
倉工は3本のホームランを放った。
特に、森脇に「右鎖骨骨折」という大怪我をさせてしまったと、一人責任を背負っていた松本は狙っていた。
7回、快心の2塁打を打ち、猛打倉工の口火を切る。その大活躍は「神がかり的」と、称賛を浴びたのである。
永山と槌田の若きバッテリーは、米子東のスクイズを全て外した。
永山は「米子東の部長、監督は青ざめていた」と。
こうして、9対7で米子東の追撃を振り切ったのである。
ナイン全員の闘志あればこその勝利であった。
新聞には、「倉工3ホーマー」「松本 7回に殊勲打」と出た。
甲子園まであと1勝。
その夜の事。全員が寝ていると思っていたのに、誰か一人いない事に気がついた監督小沢。
宿舎中を探して、やっと見つけた背中。
宿舎の中庭で泣いている森脇だった。
「おまえ、こんな所で何をしているんだ」
「監督さん、今日ベンチいてたまりませんでした。明日倉敷に帰らせて下さい」
「この馬鹿たれが。おまえがベンチにいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいないで、なんで勝てるか」と言ってなだめて森脇を寝かせた夜だったのである。
森脇は、投げられない自分への苛立ち。
森脇は一人重圧と戦っていたのではないだろうか。
こうして迎えた決選の日。相手は、向井監督が率いる岡山東商。
朝起きたナインは、驚いた。そして反発したのだった。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社 灼熱の記憶
協力
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会
1年生で、34年の夏の甲子園、国体と大舞台を経験して来たエース森脇。
今、3年生になって最後の夏に掛ける思いは、相当強かったはず。
また、全選手から、その信頼と期待は絶大であったであろう。
外野手三宅は、「森脇の球は速いというものではなかった。ものすごいスピードボールを投げていた。
あの森脇の球は、打てるわけがない。打てるもんか。」と、力を込める。それだけ森脇は左腕で素晴らしい投手であったのである。
ところが、事もあろうに県予選の直前に「右鎖骨骨折」というアクシデントに見舞われたのである。
全国屈指の好投手と言われたエースの突然の負傷。
しかも、県予選までに完治の可能性はない。
日数が足りないのである。
「これで、甲子園もおしまいか。」1年生から3年生まで、全選手に重苦しい空気が伝わった。
その時である。主将の松本が、全選手を集合させた。
そして、涙を流しながら、訴えたのだ。
「みんな、頼む。もしこの夏、森脇が投げられなかったら、ワシは生涯森脇に頭が上がらないんだ。みんな頼む。甲子園、甲子園へ。」と涙で。
すると、選手の顔が上がり始めた。
そして、全員が前を向いた。
「そうだ。森脇を甲子園に連れて行ってやろう。森脇を甲子園に連れて行くんだ。そして、森脇と共に戦うんだ。」全選手の心は一つに団結したのである。
三宅は、こう言う「松本の一声で、一致団結力が生まれた」と。
真に「意気と力の 溢るるところ」である。
こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こうと全員考えた。
2年生の永山は、控え投手ではあったが、三塁手。永山は、コントロールが良かったので、小沢は打撃投手をよくさせていた。
「永山、お前が投げろ。ただし、森脇の代わりで投げるのではなく、永山一個人として投げろ」と指示。
その永山は「県予選までは何日間かあったけど、投手としての経験としては浅かった。
しかし、小沢監督の指導もユニークで、速い球は投げるな。遅い球で勝負しろ。変化球は、こうして投げろ。
と色々アドバイスを受けた何日間でした。」「スライダーの握り方を教えたが、器用だったんで、すぐ覚えた」と小沢。
こうして、急造投手、永山が誕生したのである。小沢は、投球術と、配球術を教えた。
ところが、永山は一日一日、急成長し始めたのだ。
「もしかしたら」小沢の期待も膨らんだ。
こうして、2年生捕手槌田との若きバッテリーで、困難に立ち向かう事になったのである。
そして、松本の思いも板野の思いも、岡田、国方、中村、土倉、白川も全員が、「森脇を甲子園に連れて行くんだ」と言う強い思いを胸に、昭和36年の倉工の夏が始まろうとしていた。
新聞には、「痛いエース欠場。破壊力秘める大型打線」と出ていた。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂くことを、ご了承下さい。
参考 瀬戸内海放送 番組 「夢 フィールド」
山陽新聞 灼熱の記憶
協力 岡山県立倉敷工業高等学校学校 硬式野球部OB会
「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。
「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。
小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。
と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。
「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。
外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。
小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。
しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承ください
参 考 瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社 「灼熱の記憶」
協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会
伝説の夏がある。
勝敗を超えて今でも語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡の大逆転劇となった、倉敷工業 対 報徳学園の試合は、今でも夏が来るたび話題に上がる。
36年の倉工は、岡山県の秋季大会と選抜大会を制しており、夏の大会も優勝候補の筆頭とされていた。また、岡山県や中国地区の多くの関係者から、「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、高い評価を受けていたのである。
エースは、34年の夏の甲子園、国体の大舞台を一年生で経験している、剛球左腕の森脇。また、打撃陣では核となる不動の4番で、長距離打者の鎌田らがいて、破壊力は群を抜いていた大型チームであった。
この様な大型チームを作り上げたのは、のちに名将の名前を欲しいままにする、監督 小沢 馨。弱冠30歳の青年指揮官だった。
この様な、大型チームに突然のアクシデントが襲うとは、誰が予想できたであろうか。それは、バント練習中に起こったのだ。
- つづく - 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂く事をご了承ください。
協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会
白壁の街に、そびえ立つ鶴形山。その鶴形山が毎日、倉工を見下ろしています。
そして、「倉工がんばれ!!倉工がんばれ!!」 と言っている様に見えてなりません。
倉工の生徒諸君は、その鶴形山の事を一口に、「 山 」と呼んでいます。
いつ頃からなのか、誰が言い出したのかは、わかりません。「山に行くぞ」それは鶴形山の坂道を、そして石段を走り、足腰を鍛える意味でもあるのです。
今から、約10年程前、倉工野球部を特集したテレビ番組がありました。その中で元野球部監督の名将 小沢 馨さんがご出演されていました。
「私が、少年時代、野球チームの練習で球拾いをしていた頃、自宅に帰っては、すぐ裏の鶴形山に走って行き、坂道を走り、石段を駆け上がっては、口に入る物を食べていた時期があったんです。しかし、本格的に野球をする様になってからは、その坂道や石段を走り込んだ事で、足腰が強くなったのではないかと思うのです。私の原点は鶴形山なんです。」 と。
今でも続いている伝統の冬場のトレーニング、野球部の「 山 」。
最近では、毎年国体やインターハイに出場している、陸上競技部。次の花園や国立を目指す、ラグビー部やサッカー部も、「 山 」に行っては冬場のトレーニングに励んでいるところです。
ただし、鶴形山、阿智神社、そして参拝者や観光客の皆様に、ご迷惑にならない様に、注意しながらの、冬場のトレーニングでもあるのです。
がんばれ 倉工!!
勝ち取れ 勝利を!!
倉工運動部
「真 善 美」とはよく弓道で、使われる言葉であります。
弓道は、古代より射術として、世界中に広がりを見せると共に日本においては、武道の一つでもあります。
おいまつ会による、部活動激励訪問。今回は、11月28日、部員数40人を誇り、来年の岡山インターハイ強化指定校にもなっている弓道部を訪問させて頂きました。
弓道場は、倉工の片隅にあり、決して恵まれている環境には見えない中でも、今年もやってくれました。6月の県総体では、18年ぶり6回目の男子団体優勝を飾ると共に、個人戦においても、優勝と準優勝。今秋でも、団体と個人で中国大会に連続出場している強豪チームであります。こうした弓道部の活躍ぶりは、おいまつ会役員会議でも早くから話題に上がっていました。
訪問団が弓道場に到着した時、黒川正英監督以下全選手が整列して待っていてくれました。「おはようございます」。早速おいまつ会を代表して、日下誠会長が激励の挨拶を行いました。
そして、黒川監督から、弓道の解説を聞きましたが、弓道の持つ奥深い話に、訪問団もびっくりです。その後、弓道場に入らせて頂きました。一度に3人の選手が、28メートル先にある、38センチの的を狙います。
他の選手は、外で待機。し~んと静まりきった弓道場に緊張が走ります。
訪問団としても、固唾を飲んで見守るしかありません。その時です。
弓が放され、矢はほぼ一直線に飛んで行き、見事に的に的中です。
他の選手たちは一斉に「シャー」と言う掛け声と拍手。しかし、どの選手も微動だにしません。そこに、弓道にかける思い、姿勢を感じた次第です。主将の、山本 湧介君(C科)は、「中国大会、インターハイに出場できる様に頑張っています。黒川先生は、明るい人柄で生徒思いでもあり、お父さんのようです」と。
倉工弓道部で培われた修練は、即射人生につながる事でしょう。
がんばれ倉工 めざせ全射的中 倉工弓道部
第67回倉工文化祭が、11月20、21日に約1000人の来場者を迎えて盛大に開催されました。これに伴いおいまつ会館では、おいまつ会作品展を開催しました。同窓生の絵画、遺作展、書道、彫刻作品、写真に加え、各運動部の優勝楯、そして野球部の甲子園出場記念のペナントの展示もあり、訪れた方々は、足を止めて見入っていました。
今年は、例年以上の数の展示があった様に思います。
昭和26年3月卒業の、末竹 正さんは、「先生は、兄貴の様な存在だった。いい学校でした。」と、感慨深く当時を語ってくれました。また、同級生の守安 忠さん(元 倉工教師)は、「母校の教師と言う事で、何もかも力の入れようが違った」と。二人のお互いの元気な姿での再会を喜ぶと共に想い出話が弾んでいるようでした。
がんばれ 倉工 咲き誇れ 倉工文化祭
岡山県高校野球一年生大会が、11月7日から倉敷マスカット球場など県内14球場で開催されました。その結果、倉工は準優秀校と言う結果となりました。
この大会に出られるのは、一年生のみ。48校が2ブロックのトーナメントで争い、各ブロックの1位の2校を、優秀校として表彰される大会です。
倉工は本大会に向けて、5試合の練習試合(全勝)で、本大会に備えました。
強力な投手力を前面に勝ち進み、準決勝の難敵倉敷商に、2対1で勝利。
決勝では、関西に対し、投手戦を演じながらも、1対2で惜敗。あと一歩の所で優秀校表彰を逃してしまいました。
本大会を指揮したのは、倉工を平成12年3月に卒業し、徳山大に進学。共に内野手として活躍した、辻田浩一コーチ(D科)が監督代行をつとめました。辻田監督代行は、「声と工夫」をチームに要求。本大会期間途中において「投手力は、同じ程度の力を持つ4人の投手がいる。打線の繋がりを期待する中で、今年のチームは、粘り強さ、勝負を諦めないものを感じている。今後の試合も含めて自分に与えられた事を、確実にやって欲しい」と、期待を寄せていました。
一方、本大会終了後、中山隆幸監督は、「倉敷商に勝ったり、関西に善戦したりで、良く頑張ってくれました」と、目を細めていました。
昨年の一年生大会は、準優秀校。今秋には、中国大会に出場。そして今回の一年生大会も準優秀校。何か復活の予感がする倉工野球部ですね。
がんばれ 倉工 頼むぞ 捲土重来 倉工野球部
【一年生大会の試合結果】
倉敷工 4 - 3 高梁日新 延長11回タイブブレーク
倉敷工 8 - 1 倉敷南 7回コールド
倉敷工 4 - 1 就 実
倉敷工 2 - 1 倉敷商 準決勝
倉敷工 1 - 2 関 西 決勝
秋の中国路を、純白のユニホームが、躍動しました。
来年の、選抜甲子園出場への、登竜門と言うべき、秋の中国地区高校野球大会に、7年ぶり21回目の出場を果たした、倉工ナイン。
その、倉工ナインを応援しようと、応援バスや野球部父母会の車に分乗した、応援団が、まだ夜が明けてないうちに、出発して山陰(島根)へと向かいました。
しかし、約300人の応援団の必死の応援もむなしく、準々決勝で敗れてしまい、来春の選抜甲子園への道は、遠くなったようです。
応援バスには、おいまつ会会員をはじめ、特に今回は、昭和39年40年の卒業生数人も含まれていました。さらには、野球部父母会、倉工の大ファンである、施設応援団も同乗しての応援でもありました。
今年の、秋の新チームは、強力な投手力を前面に出し、高い守備力を武器にして、少ないであろうチャンスを、いかにものにできるか。と言うチーム。その守備力の高さは、近年にない完成度を示すものでもありました。
中山隆幸監督をはじめ、社会人野球、川崎製鉄水島で18年もプレーした、神土秀樹ヘッドコーチ(昭和52年3月卒)ら、コーチ陣が、鍛えに鍛えた事を示すものでもあったと思います。今後は、さらにレベルアップをして、夏の甲子園出場を、勝ち取ってもらいたいと思います。
がんばれ 倉工 行くぞ 夏の甲子園 倉工野球部