祈 花園出場 夢を抱いて走れ ラグビー部

( One for All,  All for One )
ラグビーで、良く使われる言葉であります。その意味は 「一人一人が、自分自身の役割を把握し、それを果たした上で、全体の事を考えるのが本来。」が、精神だと言われています。
昨年、倉敷工ラグビー部監督に就任し、4年ぶりの 花園出場 へと導いた 黒住 晃 監督。昨年末にあった一回戦で敗れたが、常勝 倉工 を育てていきたい 』と鼻息は荒い。テレビドラマ 「 スクールウォーズ 」を見て、ラグビーを通じて築かれて行く人間の成長に憧れたという 黒住監督。当、HPは 2年連続花園出場 を狙う倉敷工ラグビー部 黒住 晃監督 に単独インタビューを、試みた。

Q1  部員数は、何人か
3年生が19人。2年生9人。1年生7人です。女子マネージャー4人です。

Q2  春の大会から、夏合宿をやって、チームが成長したところはどこか
すべての面で、レベルが上がっていると、思います。

Q3  今年のチームの特徴 昨年と違う点とは
3年生が多い事ですね。花園経験者が 10人 いまして、みんな試合
に出ていますからね。運動能力が高い子がいますよ。

Q4  昨年の 花園出場 で監督として学んだ事とは
全国上位のチームは、パスの速さが違いますね。当たり合う コンタクト
の強さ が凄いです。

Q5  花園出場にあたり、ライバルとなるチームとはどこか
玉島高校でしょうか。一年生に、中学時代の経験者が、多いですからね。

Q6  今年の夏、どの様に チーム を鍛えたか
長崎県や愛媛県遠征をやって、全国トップレベルのチームと、合同合宿
を行いまして、全国レベルを知る事ができました。

Q7  今後の課題とは
全力で、最後まで 走り切る 体力作り が大事かと思います。

Q8  おいまつ会に一言
2連覇目指して頑張りますので、応援よろしくお願いします。
追記 岡山県予選は、美作ラグビーサッカー場で行われます。
11月11日 準決勝。11月18日決勝。


雨の中、練習するラグビー部

 


指揮する黒住監督(中央)


がんばれ、倉工ラグビー部

 


この重い、夢を抱いて、走れ!!

 

がんばれ 倉工   重い夢を 抱いて走れ 倉工ラグビー部

取材日:平成30年9月15日

捲土重来 平成8年の夏 3

【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に 甲子園 に行くんだ 】

小沢監督に憧れ、倉工の 門 を叩いた 和泉。 倉工 に行けば 甲子園 に行ける。

夢 を追いかけた。「 倉工 の迫力ある 打力 打撃 に憧れましてね。 」と、和泉。

しかし、 小沢監督 の背中を、追いかける時間は、長くはなかった。いや、短かすぎた。

和泉 が、一年生の時 ( 10月 ) 小沢監督 が、引退してしまったのだ。選手たちは

『 小沢監督 の指導を受けたい 』『 そんな、はずじゃあないなのに 』と。

「 次は、誰が監督になるのか、心配でした。 」と、 和泉。 小沢監督 の後任に

当時、コーチだった、 脇田監督 が誕生した。しかし、 脇田監督 も、 和泉 が二年生

の、11月で、退任してしまった。主将だった 和泉。 和泉 の苦労は、ここから始まる。

在学中、二人の 指揮官 を失った 倉敷工野球部。 主将の和泉 は、 小沢 の

所へ行っては、 「 どんな、練習をしたらいいですか。」と、何回も何回も 足 を運んだ

という。冬場の 鶴形山の階段 は、きつい。部員の中には、「 監督もいないし、もう

帰ろう。 」と、言い出す者もいた。また、手を抜く者もいた。 和泉 は、訴えた。

「 俺たちが、 甲子園 に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。

しっかり、走って足腰を鍛えよう。 」『 当時は、倉工のグランドで練習していまして。

サッカー部やラグビー部もいましてね。それで、打撃練習は、一人づつしかできなかったんです。』

と、和泉。その、打撃練習の時だった。同じ学年の 部員 に「 悪いが、打撃練習から

外れてくれんか。 」 和泉 の胸中は、いかなるものだったのか。こうして、指揮官の

いない月日は、流れた。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ    」

捲土重来 平成8年の夏 2

平成6年4月、頼もしきOBが母校に凱旋する。そのOBは 倉敷工在学中 から大いなる

夢を抱いていた。その夢とは、「 教師になる事。野球の指導者になる事。 」 卒業時には

約10社からなる 社会人野球 からの勧誘を断り、大学へ進学( 足利工大 )。野球部には

入らず、ひたすら学業に専念。そして、 野球の勉強 と 指導学 を独学で学んだ。

その努力が実り、 教員採用試験 に一発で合格。 東岡山工 笠岡工 を経て 母校 に

帰って来たのだった。その OB の名前は、 中山 隆幸。 倉敷工 に転勤命令を受けた

中山 は、すぐに 和泉 に電話した。 中山 から報告を受けた 和泉 の第一声は

「 ほんま か 」だった。【 コーチはいたんですが、外部コーチだったんですね。ですから学校

行事や授業と、練習の時間が合わなくて。コーチがいない時は、私一人で指導してたんです。

それで、監督経験がある 中山 が来てくれる事を聞いて、これで時間が合う 仲間 が

できたと、すっごく喜びましたよ。 】苦労に苦労を重ねていた 和泉 にとって何よりの 吉報

だったに違いない。一方、 中山 は、【 倉敷工で、指導する事になり、プレッシャーが

ありました。 】と言う。それは何故なのか。普通なら、母校で指導できる 喜び というのが

あるはず。なのに 【 プレッシャーがあった 】とは、どういう事なのだろうか。それは、次の事の様

に、思われる。まず1点めは、 笠岡工監督 の時の事。 倉敷工 に完封勝利。

また、甲子園初出場を果たす 岡山城東 に打ち勝って、県大会堂々の ベスト8 入りを

果たした 実績。2点めは、以前より周囲から常に 注目 されていた事。そして、3点めは

【 中山 が、うちに来たから 倉敷工 は必ず3年以内に 甲子園 に行きますよ 】と

倉敷工校長 が、周囲に語っていた事。それらの要因が重なり、プレッシャーを感じていた

のかもしれない。こうして、 倉敷工野球部部長 中山 隆幸。 倉敷工野球部監督

和泉 利典 のコンビ ( 和泉が一学年先輩 )が誕生したのである。そして、この二人のコンビ

で、 甲子園 で 倉敷工旋風 を巻き起こす事になる。しかし、 和泉 と 中山 らの

在学中の 倉敷工野球部 は、 順風満帆 ではなかった。これも、名門校ゆえの事で

あろうか。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 1

全国屈指のエースを、練習中の負傷により、欠きながらも 炎の闘志と団結力 で予選を

勝ち抜いた 昭和36年夏。その36年夏を、呼び起こすような 一丸の勝利 を 倉敷工が

見せたのは、平成8年夏の県大会。球史に残る激戦となった 選抜甲子園ベスト4

岡山城東 との決勝。序盤の失点にも、ベンチはエースを続投させ、そして完投させた。

ナインは、エースを励まし続け、エースは終盤から本領を発揮。10年ぶり8回めの、甲子園

出場を勝ち取る。激闘の延長戦。 倉敷工 が勝利を決定づけたのは、二本連続の

タイムリー。最後の選手を打ち取った瞬間、ナインはマウンドのエースへ走った。

そして、抱き合った。 倉敷工監督 和泉 利典 は、何度も何度も宙を舞った。そして

倉敷工応援スタンドから、「 和泉 和泉 」の、和泉コールが、沸き起こる。 和泉 は

倉敷工応援スタンドに赴き、帽子を取った。そして、スタンドを見上げ、 深々と頭を下げた。

どのくらい頭を、下げたのかはわからない。ベンチが泣いた。ナインも泣いた。そして、応援

スタンドも泣いた。 倉敷工野球の、意気と誇りと苦闘の日々の団結 はしっかりと息

づいていた。当、HPはこの平成8年夏を、振り返ってみる事にする。物語の、始まりは

平成6年にさかのぼる。平成6年4月、頼もしきOBが、母校に凱旋した。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  西川 剛正  「 現 倉敷工業高校硬式野球部コーチ 」

風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 25 「 最終回 」

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨   岡山東商監督 向井 正剛
あくまでも、投手を含めた 守りの野球 を基本とし、マナー 精神面 を重視した 向井。
心憎いばかりの 人心掌握術 で、ナインの心を一つにした。一方、どんな投手でも
打ち込める 打撃チーム を理想。練習時間を短く設定した中、 高度な戦術指導 を
施した 小沢。社会人やプロでも通用する技術を、教え込んだ。小沢 の愛弟子
黄金の左腕 小山 稔。その 小山 は、 小沢 を『 親父 おやじ 』と、慕う。
【 親父は、自分のところが強ければ、相手はどこでも構わない。と、言っていました。
また、相手チームを 偵察 する事はなかったですね。中京戦で 13 対 2 から
逆転負けしていたら、その時点で 辞表 を出していただろう、と晩年言っていました。
そういう 心の思い があったようです。 】 向井 は、48年の選抜出場後に 部長
になり、49年の選抜を最後に現場を離れ、県教委へ。この時、両雄が初めて一緒に
選抜の晴れ舞台 を踏んだのも、不思議な因縁だ。
倉工野球部を作った男 小沢 馨   2016年9月28日死去 その勇姿は見る事は
出来ない。 甲子園から、野球の素晴らしさを ふるさと倉敷 に持ち帰った男
小沢 馨。 倉敷の名前を、全国に知らせた男 小沢 馨。 倉工野球部 を作った男
小沢 馨。 甲子園17勝 は 県高校野球監督 として最高成績である。
   おわり  風雲の奇跡 最終回です
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」 
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏

風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 24

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨。   岡山東商監督 向井 正剛。
闘魂と百戦練磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突。しかし、球場を離れると両者とも情に厚い 人格者 でもあった。 倉敷工 は、昭和42,43年 4季連続甲子園出場。
甲子園で数々のドラマを演じた 倉敷工 が 最も全国制覇に近づいたのが、昭和43年。今まで県球史に前例のない甲子園 春夏連続ベスト4。その快進撃は、街に満ち溢れるエネルギーと 歩 を合わせるかのようだった。しかし、あと1歩のところで惜しくも夢に届かず。
その日、倉敷が泣いた。昭和49年 小沢と向井が見つめる中、倉敷工 の純白のユニホームと岡山東商の白桃色のユニホームが甲子園を並んで行進。まさに壮観。だが、それは岡山県高校野球が群雄割拠の時代の 「 始まり  」 となるのである。小沢 の最後の甲子園出場は、昭和50年春。
豪腕 兼光を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で 東海大相模 に 0-1 で惜敗。
この一戦、高熱でフラフラになりながらも歯を食いしばり、投げ抜いた 兼光 の姿に 小沢 は感涙。
「 よくやった。男の中の男 」と賛辞を贈ったのだった。希代の名監督が甲子園で見せた涙。
号泣する 小倉北 福島 の姿に戸惑った無欲の初出場。福島 の涙から「 かけるものの大きさ 」「 甲子園の夢の大きさ 」を知った 小沢。そして、兼光の 「 がんばり 」 に涙した 小沢。
小沢 には涙の物語に始まり、涙の物語で終わるものがあったのである。
そこには 四半世紀 が過ぎていた。
  つづく  随時掲載
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏

風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 23

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」

倉敷工監督 小沢 馨   岡山東商監督 向井 正剛

昭和40年、岡山東商、選抜優勝。県勢唯一の甲子園優勝。

当時は、 倉敷工 が県高校野球の盟主として君臨。

向井は、「 打倒 小沢。打倒 倉工 」を目指し、猛練習でチームを鍛えた。

「 倉工に勝たないと。あの男を倒さないと私の甲子園人生はない。 」と 向井。

向井 正剛。 監督として、春夏通算甲子園出場八回(部長として二回)。

優勝 一回。ベスト4 一回。国体優勝 一回。

小沢 馨。 同十五回。ベスト4 三回。ベスト8 一回。

ある年の 甲子園開会式リハーサル中 に、大会役員が全選手に言った。

「 岡山東商の行進を見習え。 」人々は言った。『 岡山東商 野球もマナーも日本一 』と。

マナーに力を注ぐ一方で  向井 は他校に先がけ合宿所を作り選手を鍛え抜いた。

その姿は 鬼気迫るものがあったという。「 小沢 さんは勝負師で、 向井は 教育者と言われていますが、

小沢さんも教えている時は教育者ですよ。でも勝負と言った時は、私よりも徹底していたかも

知れませんね。 」と 向井。先を越された 小沢。 岡山東商の選抜優勝の直後の春の県大会では

「 ここで岡山東商をたたかんと倉工の存在価値はない。今日が我々の甲子園だ。 」悲壮感にも似た

気持ちで臨み、準々決勝 5-3でライバルを倒す。

全国優勝で自信をつけ、甲子園出場の度にたくましくなる 向井。益々、老練さを加えていく 小沢。

二人の勝負は全国的にも知られ、岡山野球が最も光彩を放った時代を演出した。

岡山東商の甲子園優勝 の最大の功労者は、ライバル倉敷工監督 小沢 馨 と言えるかもしれない。

 

つづく  随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

風雲の軌跡 よもがえれヒーロー 22

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」

倉敷工、小沢 馨監督 、岡山東商 向井 正剛監督。

岡山県高校野球黄金時代。 この二人抜きには、戦後の 県高校野球界 を語れない 名監督 である。

二人の監督が重複した 昭和33年から48年までの県勢の 甲子園出場校 を見ると

35年と44年以外は 必ずどちらかが出場を果たしている。それも交互のように。

まさに 竜虎の戦い。 自身でも 現役時代に甲子園ベスト4。プロ野球に身を置いた事もある 小沢。

一方、 向井 の野球経験は、 東京教育大(現、筑波大) の時だけ。 小沢 のキャリアに比べれば、素人同然。

しかし、 小沢 は次の様なコメントを残している。

「 あの人は、野球は素人だと言われているけれど、私は、野球は素人ではできないと思います。 」

30年代、両チームの練度の差は明らか。36年夏、エースを欠く 倉敷工 と 岡山東商 は、甲子園をかけて

東中国大会 決勝で対決。 倉敷工 の勝利を決定付けたのは、七回一死、一、三塁からの 重盗 だった。

勝負のあやを知り抜いた思い切った作戦。「 野球が違っていた。 」と、その時の 岡山東商のエース岡本。

「 おもちゃにされていた。いつかは かたき を取らないと男がすたると思った。 」

向井は、 打倒 小沢 に執念を燃やし、 猛練習に次ぐ猛練習 でチームを鍛えて行く。

 

つづく  随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 21

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」

大いなる期待を背に 小沢 馨 は、大群衆に約束した通り母校、倉敷工野球部監督に就任する。

20才の時だった。伝統は、ここから始まる。バッテリーを組んでいた捕手、藤沢新六 は次の様に語る。

「 小沢は、野球に対して、すごく、研究熱心なところがありましてね。」

その研究熱心さが早くも結実した。昭和32年、第29回選抜に初出場を果たす。

この時は、左右の両エースを前面に打ち出したチーム。小沢監督、甲子園デビュー。

昭和24年夏、三連覇を狙う 小倉北 を破り、旋風を起こした倉敷工。

甲子園は 小さな大投手の出現に沸いた。あの時の小さな大投手が、今度は母校の監督として

甲子園に凱旋。多くの高校野球ファンは感動した事だろう。

 

第29回選抜高校野球大会

1回戦 倉敷工 2-1 市沼澤

2回の 2点を守り切る。

2年生、左腕、渡辺が5つの三振を奪う。

 

2回戦 倉敷工 2-0 育英

5回と8回に1点づつ得点。

3年生 右腕 小野が2安打 完封。

 

準々決勝 倉敷工 4-0 高松商

4回に1点、7回に3点を上げ、勝負を決める。

倉工14安打。渡辺7安打 完封。

 

準決勝 倉敷工 1-3 高知商

2回が終わって、3点の失点がひびく。

小野から渡辺へ投手リレー。

 

小沢監督、甲子園初采配で ベスト4に導く。

小沢監督が賞賛に包まれている頃、東京教育大(現 筑波大) を卒業して

郷里、岡山へ帰る準備に追われていた一人の学生がいた。

名前を 向井 正剛 という。

 

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

 

部活動激励訪問 バスケットボール部

おいまつ会による、部活動激励訪問を実施しています。

今回は、5月26日バスケットボール部を訪問させて頂きました。部員数は34人。

女子マネージャーが何と6人だそうです。また、女子バスケットボール部もあって

他校との、合同チームで、大会に出場しているとの事です。

早速、生田 岩雄おいまつ会副会長が、「 強い、倉工バスケットボール部

であってほしい。 」と、激励の挨拶を行いました。

横溝未来マネージャー(F3)と長島ひかるマネージャー(F2)は、

「森先生は おもしろい人です。また、部員同士、仲がいいのも特徴。

選手にとって意味のあるマネージャーでありたいです。」と語ってくれました。

主将の三好涼介君(M3B)は、

「最後の大会に向けて チームを盛り上げていって、最後の大会も自分たちらしく

伸び伸びとしたプレーをしたいです。」と、力強く語ってくれました。

ピンと張りつめた緊張感のある練習の中、倉工OB 森 准一監督の指導する

声が体育館にひびいていました。

 

がんばれ倉工!! 決めろ3点シュート!!   倉工バスケットボール部P1000184 P1000186