青春ヒーロー プレイバック 4

小山稔物語

昭和42年3月20日、朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぎり込み新聞を広げた。  「津山商出場辞退」  衝撃的な見出しが寝ぼけまなこに飛び込んで来た。目をこすりながら記事を読み進めると、 「補欠校の倉敷工が繰り上げ出場か」 と続く。
「本当に甲子園に」 喜びと驚きの中で失意にくれた2月始めの、選抜出場校発表の日が思いだされた。それが、一転して甲子園出場が現実に。「夢のような気持だった。」と小山は言う。
登校した小山を待っていたのは、小沢監督からの呼び出しだった。「小山、すまんが今日から投げ込みをしてくれ。」 ここで、小沢監督の「すまんが」の意味は何であろうか。大会まで一週間を切っての話。
選抜出場校の発表以降、夏に向けて走り込み中心の練習に取り込んできていた。ところが、急な投げ込み。それが原因で小山の左腕は、肘と肩に後々まで癒えない故障を抱えることになる。
4月1日、初戦の相手は、津久見(大分)。実践練習が不足していた選手たちだったが、小山の力投に打線も答え、この選抜大会で初優勝を飾る強豪 津久見 相手に 2 対 3 と食い下がった。
「倉敷工は強い。夏が楽しみ」期待の声が高まって行くのだった。倉敷の街は熱い期待に包まれる。
しかし、町の声援に、小山の肩が悲鳴を上げる。
昭和42年 夏。倉工ナインが地力でつかんだ甲子園。

倉敷工 4 - 0 秋田本庄   小山1勝め

小山は、2年生から全国の注目をあびた。そして、「黄金の左腕 小山 稔」の異名までついたのだった。
甲子園常連校になった、倉敷工業。ここで、新しい伝統が生まれようとしていた。

つづく 随時掲載

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園  中原三法堂

 

青春ヒーロー プレイバック 3

小山 稔物語

昭和41年 秋の県大会は、津山商に敗れて準優勝。しかし、この決勝戦は 津山商にリードを許してはいたが、日没のため試合を打ち切られ、準優勝となったものである。
(倉敷工 2 対 3 津山商 8回日没コールド 倉敷市営球場 )
つづく、秋の中国大会では、2試合連続完封。決勝 尾道商 との対戦も9回まで 1 対 0のリードしていて、ランナーを置いた所で、エラーが連続で出て、1 対 6 の逆転負け。
しかし、中国大会では津山商より、戦績は上だった。県大会 中国大会共に準優勝した事で来年の選抜甲子園出場は、間違いないと言われた。ナインの気持ちは、早くも選抜甲子園に向いていたのである。選抜出場校の発表の日が来た。「多くの報道陣がグランドにきていました。40人ぐらいはいたかな。」と小山。冬の日の夕暮れは早い。気の早い報道陣から催促されてナインは小沢監督を胴上げして、感激の知らせを待った。ところが、春の便りは 津山商に。
それを聞いた報道陣は、一斉に津山商へ向かったのだった。「あっという間にいなくなりました。」と小山は言う。小沢監督は、失意のナインに語り掛けた。「決まった事は仕方ない。今さらどうにもならない。こうなったら、グランドをいくら走ってもいいから、思いっきり涙を流せ。」と。
ナインは横4列に並んで、涙が枯れるまで何周も何周もグランドを走り続けた。
「あの時、泣いてない選手は誰もいませんでした。」と小山は言う。小沢監督も、目頭を押さえてナインを見つめていた。失意のドン底の倉工ナイン。
しかし、この涙のランニングが結束を生み高める。「夏は、必ず甲子園に行くんだ。」と。
そして、ナインの絆も深いものに。
この日を境に、練習メニューは夏を見据えた形に変わったのである。小山も、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んだ。
昭和42年3月20日 朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぐり込み新聞を広げた。

つづく    随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
山陽新聞社  「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔氏
木村 義夫氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂

 

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 2

小山 稔物語

昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では

「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。この試合で

2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。その2年生、いや新3年生

の、強打者がずらりと、小山の前に立った。シートバッティングと言えども真剣勝負。

小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。ファールチップが

やっとだったのである。新3年生が言った。「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より

上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。新1年生で早くもベンチ入りを

果たしたのである。41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は

やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる

小山だった。左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。

当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。その秋の中国大会では、優勝候補と

言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。決勝では、尾道商 (広島)

に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。ところが、9回ランナーをおいて

倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。しかし、県大会準優勝、中国大会も

準優勝。2試合連続完封。「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。

つづく 随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社「灼熱の記憶」

協 力
小山 稔 氏
木村 義夫氏
仏壇 墓石 霊園 中原三法堂

 

青春ヒーロー プレイバック 1

小山 稔物語

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。
(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。その頃、倉敷市は
工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。
実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。その戦いは竜虎の戦いと
言われたものでもあったのだ。こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」
それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。
こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、翌日の
3月27日の事だった。早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。
つづく 随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社   灼熱の記憶

協 力

小山 稔  氏
木村 義夫 氏
中原三法堂

昭和36年のドラマ10 (最終回)

土倉、永山、森脇の三人に質問をした。

Q もう一度、生まれ変わっても倉工で、野球をやりますか?

土倉 「小沢監督には、叱られてばっかりで、褒めてもらった事なんか一度もないんですけどね。それでも、小沢監督とあの時と同じメンバーでやりたいです。」

永山 「とにかく、走りますね。」

森脇 「今度は、きちっと予定を立てて、アクシデントのない様にしたいですね。小沢監督と、あの時と同じメンバーでやりたいです。」

インタビューを終えた三人は、談笑をしながら倉敷市営球場を後にした。

あの夏、倉工ナインは10代の少年には、あまりにも過酷な運命にさらされました。しかし、何も悲惨な記憶でもないのです。何物にも代えられない友情の証として誇らしい甲子園の戦いの想い出として、今も彼らの胸を熱くするのです。

あの夏の勝利の女神に見放された少年たちは、勝利以上に貴い心の糧を手に入れたのです。

おわり

がんばれ  倉工 羽ばたけ 紺碧の大空へ 倉工野球部

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考  瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ9

新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。
森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。
宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。小沢も正座をして手をついた。
「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。
一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。
この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。
全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

参 考 山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」

協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

 

祝 第87回都市対抗野球大会出場

真夏の祭典。第87回都市対抗野球大会が、7月15日から東京ドームで開催されます。
都市対抗は、社会人野球の最高峰の大会であり、各地区予選を勝ち抜いた32チームが「黒獅子旗」を目指し熱戦が展開されます。この都市対抗に4人のおいまつ会会員が出場しますので紹介します。

  陶山 大介 投手    ( 倉敷市福山市  JFE西日本 )

  三木 太知 内野手   ( 倉敷市福山市  JFE西日本 )

  渡部 和博 外野手   ( 鹿島市      新日鉄住金鹿島 )

  井上 直也 内野手   ( 広島市      JR西日本 )

また、都市対抗と言えば、応援合戦です。特設ステージ上で、男子リーダーと女子チアーリーダーが行うパフォーマンスは、大観衆の目が、くぎづけとなります。
昭和24年、倉工が甲子園初出場した時の捕手で、甲子園で3本のホームランを打った藤沢 新六さんは、岡鉄局の4番打者として活躍。チームをベスト4にまで導きました。
「当時は、まだ昭和20年代でしたが、それでも応援合戦だけは、ものすごかったですね。」
と、感慨深く語ってくれました。
また、郷土芸能 (過去では、水島源平太鼓や茶屋町鬼太鼓)も披露されるだけに、郷土色が豊かな都市対抗でもあります。

がんばれ 倉工
先輩につづけ 倉工球児

 

******* 第87回都市対抗野球大会応援メッセージ *******

岡山県立岡山工業高等学校
中 山 隆 幸
JFE西日本スチール株式会社
陶山大介君 三木大知君 
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。さらに5年連続出場という事で、全国の常連チームの仲間入りだと思っております。
教え子として、大変誇りに思っていますし、益々の活躍を願ってやみません。
さて、陶山君に関して、今更言うまでもなく、主戦投手として長年活躍してくれております。JFE西日本スチール入社13年目ではありますが、未だ一線級で公式戦はもとより、大事な場面での起用に応えて期待通りの役割をはたしてほしいものです。
次に三木君ですが、最近やっと試合に起用されるようになり、チームに貢献できる所まできました。さらなる成長と必ずチームに貢献できる、期待に応える選手になってもらいたいと切に願っております。

JR西日本株式会社
井上直也君
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。社会人野球に復活してからの躍進は目を見張るものがあります。チームとして期待しておりますし、教え子としても、大変誇りに思っています。今後共、益々の活躍を願ってやみません。
さて、井上君に関して、俊足・好守をかわれて入社4年目になります。やっと昨年より少しずつ試合に出場する機会を与えられ、課題だった打撃や肩の強さも向上し、成長の跡が見られるようになりました。少しでもチームの貢献に絡んでもらいたい。そして、必ずチームにとってなくてはならない存在になってもらいたいです。

新日本製鐵住友金属工業株式会社鹿島製作所
渡部和博君
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。全国の常連チームとして、また教え子として、大変誇りに思っていますし、さらなる活躍を願ってやみません。
さて、渡部君に関して、JFE西日本スチールの陶山君と同級生で同チームの主力であり、打線では常に4番を努めていました。ベテランの域に達しておりますが、まだまだ情熱は衰えず、元々内野手でありましたが、一時期外野手に転向したり、オールラウンドプレイヤーとして、活躍しながら、他のチームの補強選手に選出されたり、幅広く活躍してくれております。この度も必ず活躍してくれると信じております。
私にとって、3チームから4名もの選手が都市対抗野球に出場してくれて、大変光栄に思っております。ぜひ1チームでも多く勝ち残り、決勝で対決してくれたらこれ程幸せはないと感じております。

どのチームもどの子も全力でやり遂げて下さい。期待しております。

 

昭和36年のドラマ8

延長11回表、倉工は一死満塁から松本の左越え二塁打や、白川のスクイズ等で一挙6点を上げた。日本中の誰もが、「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。土倉は、「私の方から監督さんに言ってませんが、あと一回でいいんで、森脇を投げさせてほしい。と思っていました。」と。
延長11回裏、報徳沢井監督は、先頭打者の4番奥野に代えて、試合に出た事のない平塚を代打に送った。その平塚は、ボテボテの内野安打で出塁。一死後、6番藤田が死球で一塁二塁。
7番清井は、浅いライト前ヒットだったが、平塚が迷わず本塁に突入。本塁上のクロスプレーは大きくうまく回り込んで、きわどく生還。6 対 1。続く吉村のファーストゴロの間に2点め。
6 対 2。 倉工4点リード。 ランナー3塁。 しかし二死。
小沢は思った。「今まで、頑張って来たのは、全ては森脇のためなんだ。ここで使おう。」と。
こうして、エース森脇がマウンドへ。松本らナインの悲願は達成できたのだった。一方、永山は三塁へ回った。永山は「やれやれ、これで自分の役目は終わった。」と、思ったのだった。
エース森脇、2ストライク1ボールと追い込んだ。そして、渾身のストレートを投げ込んだ。
すると、主審の右手が上がりかけた。上がりかけた。土倉は、「ライトから見ていると、ストライクか、ボールかがわかるので、その一球でベンチに帰りかけていました。」と。ところが、主審の右手が下がった。「ボ ボール」 結局、この一球が、倉工にとって運命の一球になったのだった。
この運命の一球について、永山は「審判は、自信を持って、ジャッジコールをしていると思いますが捕手の槌田は (あの一球は、絶対にストライク) と、何年も何年も言い続けていました。」
森脇は、その7番高橋に四球。8番の貴田に、レフト前にタイムリーで3点め。森脇にとってやっと、投球練習が出来るようにはなっていたが、甲子園でのマウンドは、明らかに酷だったのだ。
ここで、倉工ベンチは、森脇をベンチに帰し、永山に再登板を命じたが、レフト前ヒットで満塁に。
続く、内藤は、センター前ヒットで、二人のランナーが帰り、1点差となった。打順は一巡。
平塚は、センター前へヒット。二塁走者の東は本塁に突入できず、三塁で止まるが、センターからの返球を、捕手の槌田が後逸。それを見た、東が帰って 6 対 6 の同点となった。
報徳の勢いを、倉工は誰も止められない。12回裏、報徳は、藤田がレフトへ2塁打。
清井のサードゴロの間に、三進。ここで、倉工ベンチは、2人の打者に敬遠を指示し満塁策を取った。続く、貴田は、ライトへ。わずかに土倉のグローブをかすめた。 6 対 7 の信じられない試合の結果となった。こうして、倉敷工業 対 報徳学園 の死闘は終止符を打ったのだった。この死闘から、報徳学園は「逆転の報徳」の異名をとるようになる。
やはり、甲子園には魔物が潜んでいるのだろうか。
また、この試合は 「奇跡の大逆転」 として後世に受け継がれる事になって行くのであった。
新聞には、「倉工、継投に誤算」「報徳、ねばり勝つ」「大量の、先取点むなし」「選手に謝る、小沢監督」と出た。宿舎に帰った小沢。ふすまを開けると、思わず息を飲んだ。
つづく 随時掲載 

お願い
本文に、迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
報徳学園HP 「
奇跡の大逆転」
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン「高校野球 不滅の名勝負 3
協力
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

部活動訪問 陸上競技部

おいまつ会による、部活動激励訪問を実施しています。
今回は、5月21日(土)倉敷運動公園陸上競技場を、ホームグランドにして練習をしている陸上競技部を訪問させて頂きました。部員数は、40人。(うち女子部員2人、女子マネージャー3人)
陸上競技部は、県外チームと合同練習を積み重ねると共に、県外のあらゆる大会に出場して腕を磨いています。その結果、毎年国体やインターハイに出場し、好成績を上げている強豪チームです。
また、強いだけでなくボランティア活動にも参加し、地元の方々からも愛されているチームでもあるのです。
訪問団が、陸上競技場に入ると、長谷川昌弘監督以下、全選手が出迎えてくれました。
「おはようございます」明るく元気のある挨拶は気持ちのいいものです。早速、おいまつ会を代表して生田岩雄副会長が激励の挨拶を行いました。その後、スタンドから練習を見させて頂きました。
「ももの、上がりが普通の人とは違うなあ」。「全身のバネがすごいなあ」。次から次へと、感想が出ます。
こうした中、スタンドの最前列で熱い視線を送るOBがいました。その方は、陸上競技部OB会事務局長の、三好修一さん(43年3月卒)。三好さんは、岡山県大会や中国大会など、欠かさずチームに帯同して声援を送る熱いOBでもあります。「全ての種目で、全員が自己ベストを更新してほしい」と、熱いエール。
また、陸上競技部OB会は、応援用の横断幕を寄贈。力の入れ方が伝わって来ます。
副主将の、日浦幹太君(M3B)は、「チームはいい雰囲気です。目標は、岡山県総合優勝です。
そして、800メートルで優勝をして、表彰台の一番高い所に上がる事です。」と、力強く語ってくれました。
玉野光南時代、全国制覇という実績を持ち、高校陸上界では、第一人者の呼び声が高い長谷川昌弘監督。その長谷川昌弘監督の指導と、熱いOBから応援を受けている選手諸君は幸福者だなあと、感じた次第です。どうか、これからも長谷川昌弘監督の言う事をしっかり聞いてまた、信じて頑張って下さい。おいまつ会も、応援しています。

がんばれ 倉工
走れゴールへ 倉工陸上競技部

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昭和36年のドラマ7

1961年夏、第43回大会、大会3日目第3試合。
倉敷工業 対 報徳学園の試合は、両チームともに壮絶な戦いになって行くのである。
それでも、松本は「森脇を、森脇をおねがいします。」と指揮官小沢に必死に懇願するのであった。
すると、指揮官は「では、打って来い。森脇が投げられる状況を、お前が作って来い。」と。
こうして試合は、0 対 0のまま延長戦に突入。ここで、3塁側倉工アルプス席を見てみよう。

学生服を着て、鉢巻きをして両足を大きく横に開き、膝を90度に曲げて、握りこぶしを作り、左右交互に突き出している男子リーダー。女子生徒は、リズムに合わせて手拍子をして応援をしている。

こうして迎えた延長11回表倉工の攻撃。一死から2番中村が四球で出塁する。3番槌田の当たりは平凡なショートゴロ。当然Wプレーのケースだったが、二塁に投げた球がそれて、ライト方面に転がった。
それを見た中村は、一気に三塁に行き、一死一塁三塁。ここで、3安打をしている鎌田が打席に入る。
報徳学園沢井監督は、敬遠を指示し、一死満塁策を取った。ここで、5番松本が打席に入る。
松本は、第一球をフルスイング。その瞬間甲子園がどっと沸いた。打球は低いライナーでレフトの頭上を越えて、外野フェンス直撃の二塁打となり、中村と槌田が生還。倉工2点の先取点を上げる。ここで小沢にとって、今でも脳裏に焼き付いて離れられないシーンが展開されるのである。「二塁打を打った松本が、なんと二塁ベースの上に正座をして、両手を合わせて (監督さ~ん) と呼びかけた松本の姿に私は、心が震えました。」と。このシーンを、外野手の三宅は、ベンチから見ていて、鮮明に覚えていた。
「松本が、こうやって、こうして座って、(ワシが打ったんだから、文句はなかろうが)と言わんばかりのような感じだった。そして頼むから森脇に代えてくれ。と言うような松本の姿でした。」と言う。
その後、ショートゴロをバックホームした球が高くなり、フィリダースチョイスとなり3点目が入る。ここで左打席の白川が、スクイズを決めて4点目。さらに、永山が三遊間タイムリーで5点目。倉工の勢いはさらに続き、Wスチールまで決めて、6点目が入ったのである。この延長11回表、倉工は一挙に6点。日本中の誰もが「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。森脇は、ベンチの横で岡田とキャッチボールをしている。この試合を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく
随時掲載

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン社「高校野球 不滅の高校野球3」
協 力 岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会