熱闘甲子園 今昔物語 38 栄光の足跡 26

47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975
328日~46日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝 東海大相模(神奈川)

東海大相模1―0倉敷工(2回戦)
倉敷工   000 000 000 0
東海大相模 000 010 00X 1

倉敷工兼光、東海大相模村中。両投手の迫力溢れる投手戦。
九回表、倉工の攻撃。二死ランナーなし。打席には兼光。
『バット一閃』打球は、右中間寄りにセンターの頭上を越える。
大歓声の中、兼光は二塁を回ったところでふら付く。そして三塁へヘッドスライディング。大歓声はさらに大きくなる。
二死ランナー3塁。しかし、後続が倒れ試合終了。
この一戦、高熱でフラフラになりながら、歯を喰いしばり投げ抜いた兼光の姿に小沢監督は感涙。
「男の中の男」と賛辞を贈った。

【おわりに1/2
多くの高校野球ファン、倉敷市民、そして倉敷工大応援団。
倉工エース兼光保明。私たちの胸を熱くする、死力のマウンド。
そして、全力を使い果たした、大三塁打。そのエネルギーとは。
「そのエネルギーと言うのは、やっぱり小沢さんから貰ったエネルギーでしょうね。この信頼というか。これは何としても、守らないといけないと。善戦とかというんじゃなく。
自分の中では、理論でもなく。とにかく勝つと。気迫というんですかね。この一戦だけというか。絶対に負けられないというものが、ありましたね。」
新聞に『倉敷工、1点に泣く』『最終回の反撃実らず』と出た。
試合終了と同時に、最後の打者に歩み寄った兼光は、そっと肩を抱き締め、何かを諭すように、何事かをささやいたのだった。
「最後は、やっぱりこれは、小沢さんが教えてくれた事だと思います。」「小沢さんは、僕ら以上の苦しみだと思うんです。
だから、それを責めると言うのはね。すごい責任感の強い男でしたから。」
新聞に『最終回、あと一打が出ず』『逆転の夢つぶれる』と、出た。そして、『小沢監督、よくやったと涙』と出た。
小沢は、「こらえるものを、こらえきれなかった。」という。
それが、足かけ25年間で、15回も足を運んだという甲子園球場。小沢が、初めて落とす涙だった。その涙の理由とは、いったい何だったのだろうか。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」

()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 37 栄光の足跡 25

第47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975年3月28日~4月6日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝 東海大相模(神奈川)

【はじめに】
2回戦の相手は、強打の東海大相模。事実上の決勝戦とも言われた。東海大相模には、3番原辰徳(現巨人監督)、4番津末英明(日本ハム-巨人現東京国際大コーチ)らがいた。エース左腕村中秀人(東海大―プリンスホテル 東海大相模、甲府監督)は、快速球に縦に鋭く曲がり落ちるカーブが持ち味。人気絶頂の東海大相模。

小沢監督は、大差の敗北を覚悟でエース兼光を先発させる。
「あの程度の投手なら、5,6点は楽に取れる。」相手ベンチからは、余裕の笑みがーー。もはや、自負を失いかける小沢監督。

しかし、目の先に信じられない光景が展開される。兼光の身体から、得体の知れない何かが満ち溢れている。
「いや、それは幻じゃあない。」次の瞬間、剛球投手である証明が。「バシー」捕手大本のミットに剛球が吸い込まれる。
心身共に衰弱しているはずの、兼光がついにその本領を発揮しているのだ。胸を熱くする、兼光の死力のマウンド。

東海大相模1―0倉敷工(2回戦)
倉敷工   000 000 000 0
東海大相模 000 010 00X 1

倉敷工 兼光、東海大相模 村中。両投手の迫力溢れる大投手戦となった。奪った三振は、お互い6。東海大相模五回の攻撃。
ランナー一人を置いて、左打席に村中。村中の一打は、右中間。
あらかじめ、右中間寄りに守っていた、センター大倉。懸命に背走。だが、打球は大倉のグラブをわずかにかすめた。
(球がグラブの先をこすった)倉敷工のわずかな連携のスキをついて、村中は三塁へ。(記録は二塁打)この1点が決勝点となった。倉工打線は、村中の縦のカーブにてこずった。
心身共に衰弱しているはずの兼光の、死力のマウンド。
そのエネルギーはどこから、来ているのだろうか?
そして、小沢監督の目には、光る物がーー。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 36 栄光の足跡 24

第47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975年3月28日~4月6日出場29チーム
入場曲「おかあさん」

優勝 高知(高知)
準優勝 東海大相模(神奈川)

【はじめに】
母校、倉敷工の監督になって、四半世紀が過ぎた春。小沢は今までにない大型チームを作り上げる。そのチームはナインの心が一つになると、恐ろしいほどの強さを発揮する個性派集団。当然、倉敷市民は「今度こそ優勝を。」と沸き立ち、甲子園へ送り出す。

迎えた昭和50年春の選抜。そして、名将小沢監督忘れ得ぬ最後の甲子園。

倉工のエース兼光保明。防御率0点台として驚くべき成績で、甲子園に乗り込む。剛球右腕兼光保明。しかし、兼光は、大会前の発熱とそれを抑えようとした副作用で、意識もままならず、茫然とした状態で中京打線の餌食となる。球史に残る打撃戦。試合は、凄まじい打ち合い。
16対15。ギリギリで踏み止まった勝利だった。
チームは何とか逃げ切ったが、兼光は(11点リードするが)中京打線にノックアウトされ降板。兼光の高熱は下がらず試合の記憶すら定かでないという。

兼光は、次のように話す。
「熱があったのは、あの時だけで。まるで、ドラマを見ているようで。現実にあるのかなあと。それが、甲子園の魔力と言えばそれまでですが。本当に信じられない事が起こりましたね。野球をやってて、あんなに恐ろしい環境におかれたのは初めてでした。」

倉敷工16―15中京(開会式直後の開幕ゲーム)
倉敷工 005 801 011 16
中 京 101 450 310 15
倉敷工投手 兼光―塚岡
本塁打 野田 石原
15対15で迎えた9回表。ナインの中で一人だけノーヒット(3打席)だった3番樋口を小沢監督はベンチに呼んだ。「初めての打席と思って行け。」すると、樋口の打球はライナーでレフトの頭上を越え、16点めが入った。兼光をリリーフした塚岡(新2年生)。
9回裏を0点に抑える。最後の勝負球は、内角高めで空振りを奪って試合終了。終わってみれば倉工15安打、本塁打2、三塁打1、二塁打5。一方、中京は14安打、本塁打1、三塁打2、二塁打1、だった。

次の2回戦は、優勝候補、原、津末がいる強打の東海大相模だった。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 35 栄光の足跡 23

第46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)

【概要】
1974年3月26日~4月6日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優勝報徳学園(兵庫)準優勝池田(徳島)
一回戦倉敷工4-1磐城
二回戦倉敷工3―1滝川
準々決勝池田2―1倉敷工(延長12回)

【おわりに】
第46回選抜で、ベスト8の倉敷工。
「夏は、それ以上を。」と、倉敷市民は期待した。
こうした中、小沢監督、小山投手コーチは、ある決断を行う。
「居郷は、ドラフト指名を受けるかもしれない。投手としては、プロでは無理だろう。打撃を生かすために、内野手で行かせたい。夏、勝つためには、居郷では勝てない。
その代わり、打撃投手をしていた、小林の球威が出て来たので、この夏は、小林と兼光(2年生)で行こう。」と。
一年夏からベンチ入りを果たしていた大倉は「小林さんの球は、球威が増して、誰も打てなくなったんです。」
こうして、新しく倉工エース小林が誕生したのだった。
夏の県予選を前に、エース土屋を擁する銚子商が倉敷にやって来た。三塁に篠塚(巨人)がいた。倉敷市営球場。
結果は、倉工が2対1で勝つ。その2点を叩き出したのが居郷だった。(銚子商は、この年の夏、甲子園優勝する)
小沢監督は、確かな手答えを感じた。
打撃投手だった、小林をエースに夏の県予選を勝ち上がり東中国大会(倉吉市野球場)決勝に進出した倉敷工。
あと、1勝で甲子園。決勝の相手は、玉島商。
ところが、右下手投げの守安投手を打てず、0対1で負け甲子園出場を絶たれてしまう。

【居郷肇その後】
ここで、その後の居郷肇について紹介しておきたい。
法政大に進学。一年先輩に、江川卓(作新学院)佃正樹(広島商)がいた。内野手に転向。4年生の時、主将を務める。
同年春季リーグ、立教大戦で、東京六大学野球史上初のサイクルヒットを達成。リーグ戦42試合に出場。
ベストナイン2回。社会人野球プリンスホテルの1期生として入団。(2000年廃部)2011年プロ野球埼玉西武ライオンズ球団代表取締役社長及び球団オーナー代行に就任する。
2022年1月15日付、球団社長を退任する。

【ちなみに】
倉敷工から、東京六大学に進学し、実際に神宮球場でプレーできたのは、13人である。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語34 栄光の足跡22

46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)

【概要】
1974
326日~46日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優 勝 報徳学園(兵庫)
準優勝 池田(徳島)

【はじめに】
1回戦磐城に41。2回戦滝川に3対1で勝ち、迎えた準々決勝の相手は、あの「さわやかイレブン」と称された、初出場の池田。池田は、蔦監督のもと強打猛打で知られ、「やまびこ打線」といわれた。
一方、倉敷工もエースで4番打者の居郷を中心として、1番土居、2番神崎、以下武井、居郷、大倉、大本、水戸川、香西、清水と並び、歴代の打線では倉敷工史上Aクラスの打線だったと言えよう。

池 田 000 000 100 001 2(準々決勝)
倉敷工 000 000 001 000 1延長12
倉敷工投手 居郷
本塁打

両チーム共に打線に力がある中で、池田山本投手との投げ合いは、圧巻の投手戦を展開した。
1
0とリードされていた倉工だったが、9回の土壇場で追いつく。延長12回、池田に、1点を奪われ、12で惜敗。終わってみれば、池田は、二塁打3を含む10安打。強打だけでなく、犠打は5。一方、倉工は二塁打1を含む7安打。三振は池田1に対し、倉工は8
5
番センターだった大倉一秀は、「池田は強かったです。」

この選抜後、全国の強豪が倉敷にやって来た。準優勝した池田をはじめ、この年の夏の甲子園で優勝する事になる銚子商等。こうした中、倉敷工の中で、もくもくとトレーニングに励み、努力していた背番号のない打撃投手が、居郷に換わり、倉工のエース№1を背負う事になる。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 33 栄光の足跡 21

第46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)

【概要】
1974年3月26日~4月6日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優勝報徳学園(兵庫)準優勝池田(徳島)

【はじめに】
昭和47年4月。超大物が入学してきた。
その超大物は、入学と同時に、野球部入部。校内が騒いだ。
「でえれい奴が、入って来たぞ。」と。その超大物の名前は、「居郷肇。」瀬戸中から、野球をはじめ、2年生で県優勝投手。倉敷工では、入部と同時に、二塁手兼投手として活躍。本大会でも、エースで4番打者。
卒業後は、大学で主将。しかも、初のサイクル安打を達成。
大学卒業後は、名門社会人野球を経て、プロ野球球団社長へと進む。

倉敷工4―1磐城(1回戦)
倉敷工 001 000 012 4
磐 城 000 000 010 1
倉敷工投手 居郷
本塁打

磐城エース山崎投手との投げ合いで、好ゲームとなった。
磐城の安打6に対し、倉工も安打6。三振も、磐城7に対し、倉工も7。勝負を決定づけたのは、倉工の犠打(4)。バントの重要性を見せた倉工だった。

倉敷工3―1滝川(2回戦)
滝 川 001 000 000 1
倉敷工 100 010 10X 3
倉敷工投手 居郷
本塁打

右上手投げから、サイドハンドへと投球フォームを替えた倉工エース居郷は、一段と球威が増した。滝川打線を安打6に押さえ、奪った三振も6。小刻みに得点した倉工だった。この頃からだった。居郷は、全国から注目を浴びるようになる。

準々決勝の相手は、あの「さわやかイレブン」と称され強打猛打は、「山びこ打線」と言われた、初出場の池田だった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 32 栄光の足跡 20

46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)

【概要】
1974
326日~46日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優勝報徳学園(兵庫) 準優勝 池田(徳島)

【はじめに】
中国地区から、倉敷工、岡山東商、境の3校が出場。
倉敷工監督小沢馨と岡山東商監督向井正剛が見つめる中、倉敷工の純白のユニホームと、岡山東商の白桃色のユニホームが、甲子園球場を並んで行進。
まさに壮観。だが、それは岡山県高校球界が、群雄割拠の時代へと突入する「始まり」となるのである。

向井正剛。
監督として、春夏通算甲子園出場八回(部長として二回)優勝一回、ベスト4一回、この他国体優勝一回。

小沢 馨
同十五回、ベスト4三回、ベスト8二回、二人抜きには、戦後の県高校球界を語れない名監督だ。

ある年の、甲子園開会式のリハーサル中に、大会役員が全選手にこう言った。「岡山東商の行進を見習え。」
あくまでも投手を含めた守りの野球を基本とし、マナー、精神面を重視した向井。心憎いばかりの人心掌握術でナインの心を一つにした。
昭和40年選抜、岡山東商優勝。岡山県勢唯一の甲子園優勝。この時の、試合直後の向井の談話が残っている。「この世の中に、人の和の大切さを、改めて知った。」

一方、向井の事を小沢は、次の様に話す。
「本当に、指導者として、教育者として我々にはない、例えば、礼儀作法一つにしても、マナー一つにしても非情に信念をもって、子どもの末端までにも行き届いた指導をしていかれる点に、頭が下がりました。」

厳しさに耐えた選手たちは戦い抜き、向井監督の期待に見事に答えた岡山東商ナイン。そして、今でも語り継がれる岡山東商の伝統。それは『野球もマナーも日本一』
両雄が去って何年になるのだろうか。人々は言う「小沢は勝負師で、向井は教育者」と。
向井はこの年(昭和49)県教委に転勤が決まり(当時の)文部省、JOCW杯招致委員会を経て、仙台大学学長へと進む。
倉敷工は初戦磐城と対戦した。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 31 栄光の足跡 19

44回選抜高校野球大会(昭和47年選抜)

【概要】
1972
327日~47日出場27チーム
入場曲「また逢う日まで」
優勝日大桜丘(東京)準優勝日大三(東京)

【はじめに】
倉敷工は、初戦箕島に21。2回戦今治西に31で勝ち、迎えた準々決勝の相手は、強豪東北。
小沢監督は、この東北をマークしていた。
投打に、まとまった東北だった。

東北51倉敷工(準々決勝)
東 北 010 400 000 5
倉敷工100 000 000 1
倉敷工投手山本
本塁打

「大会出場校を見ると、この東北が強いと、思っていました。」
試合終了直後の、小沢監督の談話である。

一回に先制した倉工だったが、二回にすぐ同点にされる。
東北は、四回に4点、主導権を握る。二塁打1、本塁打1を含む、7安打で快勝。一方、倉工は、東北岡嶋投手の前に、三塁打1を含むが、5安打に抑えられ、三振11を喫した。倉工エース山本は、崩れそうではあったが、最後までの、強気な投球、力投が光った。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 30 栄光の足跡 18

44回選抜高校野球大会(昭和47年選抜)

【概要】
1972
327日~47日出場27チーム
入場曲「また逢う日まで」
優勝日大桜丘(東京)準優勝日大三(東京)

【はじめに】
4
年ぶりに、伝統のユニホームを、聖地甲子園に見せた倉敷工。
前年の秋の中国大会決勝(宇部市野球場)で、鳥取工を65で破り、中国王者(昭和38年以来2回めの優勝)として、甲子園に乗り込んだ倉敷工。その、原動力は身長168cmのエース山本次祥。下半身のバネを生かし「伸び」「切れ」のあるストレートが武器。(当時の)小山稔投手コーチは、「山本は身長が低かったけど、投手としては抜群でした。」
山本は苫田郡加茂町から、親元を離れ、在学中は、小沢監督の自宅に下宿していた。

倉敷工21簑島(1回戦)
簑 島 010 000 000 1
倉敷工 010 000 01X 2
倉敷工投手 山本
本塁打

投手力の差が、勝敗を分けた。倉工は、簑島の奥田、沖村の両投手から四死球10を奪う。倉工、残塁10ではあるが二塁打1を含む4安打で勝利。エース山本、簑島打線を5安打に抑える。

倉敷工31今治西(2回戦)
倉敷工 100 002 000 3
今治西 100 000 000 1
倉紙工投手 山本
本塁打

倉工は、今治西の矢野投手から、三振8を喫するが二塁打4を含む、8安打で快勝。エース山本、今治西打線を2安打に抑える。

倉敷工、準々決勝に進出。準々決勝の相手は、強豪東北。
小沢監督は、この東北をマークしていた。

つづく
随時掲載

お願い

本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)

岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

令和5年度おいまつ会役員総会

5月22日、倉工おいまつ会館において、「令和5年度おいまつ会役員総会」が開催されました。
総会は、藤原洋造企画委員の司会のもと、木村義夫副会長の開会宣言があり、日下誠会長の挨拶、続いて横田寿弘名誉会長(校長)の挨拶。
そして、三好修一副会長が、議長に選出され、議事に入りました。
なお、各議事については、全てが承認されました。
閉会では、生田岩雄副会長の挨拶で、お開きとなりました。

議事内容

  1. 令和4年度 会務報告
  2. 令和4年度 決算報告
  3. 令和4年度 監査報告
  4. 令和5年度 事業計画
  5. 令和5年度 予算案
  6. その他

2名の、企画委員が新しく選出されました。
役員名簿の見直しを、行う事が決定されました。