投稿者「oimatu-kai」のアーカイブ
風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 23
「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨 岡山東商監督 向井 正剛
昭和40年、岡山東商、選抜優勝。県勢唯一の甲子園優勝。
当時は、 倉敷工 が県高校野球の盟主として君臨。
向井は、「 打倒 小沢。打倒 倉工 」を目指し、猛練習でチームを鍛えた。
「 倉工に勝たないと。あの男を倒さないと私の甲子園人生はない。 」と 向井。
向井 正剛。 監督として、春夏通算甲子園出場八回(部長として二回)。
優勝 一回。ベスト4 一回。国体優勝 一回。
小沢 馨。 同十五回。ベスト4 三回。ベスト8 一回。
ある年の 甲子園開会式リハーサル中 に、大会役員が全選手に言った。
「 岡山東商の行進を見習え。 」人々は言った。『 岡山東商 野球もマナーも日本一 』と。
マナーに力を注ぐ一方で 向井 は他校に先がけ合宿所を作り選手を鍛え抜いた。
その姿は 鬼気迫るものがあったという。「 小沢 さんは勝負師で、 向井は 教育者と言われていますが、
小沢さんも教えている時は教育者ですよ。でも勝負と言った時は、私よりも徹底していたかも
知れませんね。 」と 向井。先を越された 小沢。 岡山東商の選抜優勝の直後の春の県大会では
「 ここで岡山東商をたたかんと倉工の存在価値はない。今日が我々の甲子園だ。 」悲壮感にも似た
気持ちで臨み、準々決勝 5-3でライバルを倒す。
全国優勝で自信をつけ、甲子園出場の度にたくましくなる 向井。益々、老練さを加えていく 小沢。
二人の勝負は全国的にも知られ、岡山野球が最も光彩を放った時代を演出した。
岡山東商の甲子園優勝 の最大の功労者は、ライバル倉敷工監督 小沢 馨 と言えるかもしれない。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
風雲の軌跡 よもがえれヒーロー 22
「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工、小沢 馨監督 、岡山東商 向井 正剛監督。
岡山県高校野球黄金時代。 この二人抜きには、戦後の 県高校野球界 を語れない 名監督 である。
二人の監督が重複した 昭和33年から48年までの県勢の 甲子園出場校 を見ると
35年と44年以外は 必ずどちらかが出場を果たしている。それも交互のように。
まさに 竜虎の戦い。 自身でも 現役時代に甲子園ベスト4。プロ野球に身を置いた事もある 小沢。
一方、 向井 の野球経験は、 東京教育大(現、筑波大) の時だけ。 小沢 のキャリアに比べれば、素人同然。
しかし、 小沢 は次の様なコメントを残している。
「 あの人は、野球は素人だと言われているけれど、私は、野球は素人ではできないと思います。 」
30年代、両チームの練度の差は明らか。36年夏、エースを欠く 倉敷工 と 岡山東商 は、甲子園をかけて
東中国大会 決勝で対決。 倉敷工 の勝利を決定付けたのは、七回一死、一、三塁からの 重盗 だった。
勝負のあやを知り抜いた思い切った作戦。「 野球が違っていた。 」と、その時の 岡山東商のエース岡本。
「 おもちゃにされていた。いつかは かたき を取らないと男がすたると思った。 」
向井は、 打倒 小沢 に執念を燃やし、 猛練習に次ぐ猛練習 でチームを鍛えて行く。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 21
「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
大いなる期待を背に 小沢 馨 は、大群衆に約束した通り母校、倉敷工野球部監督に就任する。
20才の時だった。伝統は、ここから始まる。バッテリーを組んでいた捕手、藤沢新六 は次の様に語る。
「 小沢は、野球に対して、すごく、研究熱心なところがありましてね。」
その研究熱心さが早くも結実した。昭和32年、第29回選抜に初出場を果たす。
この時は、左右の両エースを前面に打ち出したチーム。小沢監督、甲子園デビュー。
昭和24年夏、三連覇を狙う 小倉北 を破り、旋風を起こした倉敷工。
甲子園は 小さな大投手の出現に沸いた。あの時の小さな大投手が、今度は母校の監督として
甲子園に凱旋。多くの高校野球ファンは感動した事だろう。
第29回選抜高校野球大会
1回戦 倉敷工 2-1 市沼澤
2回の 2点を守り切る。
2年生、左腕、渡辺が5つの三振を奪う。
2回戦 倉敷工 2-0 育英
5回と8回に1点づつ得点。
3年生 右腕 小野が2安打 完封。
準々決勝 倉敷工 4-0 高松商
4回に1点、7回に3点を上げ、勝負を決める。
倉工14安打。渡辺7安打 完封。
準決勝 倉敷工 1-3 高知商
2回が終わって、3点の失点がひびく。
小野から渡辺へ投手リレー。
小沢監督、甲子園初采配で ベスト4に導く。
小沢監督が賞賛に包まれている頃、東京教育大(現 筑波大) を卒業して
郷里、岡山へ帰る準備に追われていた一人の学生がいた。
名前を 向井 正剛 という。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
部活動激励訪問 バスケットボール部
おいまつ会による、部活動激励訪問を実施しています。
今回は、5月26日バスケットボール部を訪問させて頂きました。部員数は34人。
女子マネージャーが何と6人だそうです。また、女子バスケットボール部もあって
他校との、合同チームで、大会に出場しているとの事です。
早速、生田 岩雄おいまつ会副会長が、「 強い、倉工バスケットボール部
であってほしい。 」と、激励の挨拶を行いました。
横溝未来マネージャー(F3)と長島ひかるマネージャー(F2)は、
「森先生は おもしろい人です。また、部員同士、仲がいいのも特徴。
選手にとって意味のあるマネージャーでありたいです。」と語ってくれました。
主将の三好涼介君(M3B)は、
「最後の大会に向けて チームを盛り上げていって、最後の大会も自分たちらしく
伸び伸びとしたプレーをしたいです。」と、力強く語ってくれました。
ピンと張りつめた緊張感のある練習の中、倉工OB 森 准一監督の指導する
声が体育館にひびいていました。
風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 20
『 倉工野球部 を 作った男 小沢 馨 』
「 ひたすらに フェアープレーで戦いました。 」 これは、昭和24年甲子園ベスト4進出を決めた直後の
倉敷工主将 小沢 馨 の談話である。この精神は 以後、 倉工野球 の礎となった。
母校の監督となり、 名将 知将 あるいは 勝負師 との名を欲しいままにした 小沢 馨。
春夏、甲子園通算出場 十五回。ベスト4 三回。ベスト8 二回。
そんな 小沢 には、雨の日に思い出す事があるという。
準決勝、対 岐阜戦。1-3とリードされた四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。
翌日再試合となった。宿舎に帰った選手らは、風呂の中で 「 これなら勝てる。優勝できるかも 」と はしゃぎたてた。
欲が出た。再試合では 強振を続ける打線は 空回り。頼みの 小沢 は、連投の疲れでひじが上がらない。球は走らず 2-5と敗れた。
敗戦を決めた無情の雨。「 あの雨さえなかったら。今でも雨の日には思い出す。 」と小沢。
昭和24年8月20日、倉敷市民は、倉工ナインの帰りを待っていた。大群衆の倉敷駅前広場。空には打ち上げ花火。
人々は、「 万歳! 万歳! 」の連呼。倉敷に新しい歴史が生まれた日。
小沢は「 今後は 後輩たちを指導して、必ず 全国制覇 を目指して、皆さんのご期待にそいたいと思います 」と、挨拶をした。
小沢は、大群衆に約束した。そして、小沢は、 甲子園から ふるさと倉敷 に野球の素晴らしさを持ち帰った。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく 敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考 瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
岡山放送 「旋風よ ふたたび」
山陽新聞社 「灼熱の記憶」
協力 小山 稔氏
平成30年度 おいまつ会役員総会
会場 倉敷ステーションホテル 4F
司会 野瀬 事務局次長
2 会長挨拶 日下 会長
3 名誉会長挨拶 内田 名誉会長
4 議事 議長(三好 副会長)
1号議案 平成29年度会務報告 高田 校内役員
2号議案 平成29年度決算報告 森 会計主任
3号議案 平成29年度監査報告 三宅 監査
4号議案 役員異動・紹介 日下 会長
5号議案 平成30年度事業計画案 日下 会長
6号議案 平成30年度予算案 森 会計主任
7号議案 その他
5 連絡 高田 校内役員
6 閉会 木村 副会長
風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 19
「 甲子園3本のホームラン男 藤沢新六 倉敷工 」
倉敷工バッテリー。 エース 小沢馨 と 捕手 藤沢新六。
二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロへの道へと歩むことになる。
3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は、早くも4番打者に抜擢された。
背番号は39。
しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。
そうした時 社会人野球の強豪 日鉄二瀬 から声を掛けられたのだった。
「 今の給料の2倍の給料をやるから、うちに来ないか?と言われましてね、それで阪神タイガースを
1年で辞めて 日鉄二瀬 に 小沢 と二人で行ったんです 」と藤沢。
「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」 日鉄二瀬 に移籍してすぐの事。
突然、小沢が藤沢に言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。
それは、倉敷市市長から、倉工の監督を要請されたためだったのである。
倉敷に帰った藤沢は 倉紡倉敷 で野球を続けていたある年 社会人野球の
最高峰の大会 都市対抗 に 岡山鉄道管理局 が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。
「 監督が私を 4番打者として使ってくれたんですよ 」 そして
「 都市対抗は、ベスト4が最高成績でした 」と胸を張る藤沢。
「 後楽園球場で行われる 都市対抗 は、当時においても ものすごい応援合戦でしたよ。 」と、熱く語る 藤沢。
その後、現役を退いても野球道を歩み続けた藤沢。
「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました。 」
野球の発展に尽くした 藤沢。
岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。
甲子園3本のホームラン男 藤沢新六。
木製バット使用の大会では通算ホームラン最高成績を持つ 藤沢新六。
確かに見た。何回も。後輩たちが死力でつかんだ甲子園を。その目は いつも母校愛に満ちあふれ
大きく輝いていた。
忘れまじ。藤沢新六。
つづく 随時掲載。
お願い 本文に迫力を持たせたく 敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考 瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
岡山放送 「旋風よ ふたたび」
山陽新聞社 「灼熱の記憶」
協力 小山 稔氏
風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 18
「 甲子園 3本のホームラン男 藤沢新六 倉敷工 」
昭和24年夏 倉敷工 が、甲子園初出場を果たした時の、正捕手。
この年の、第31回大会は、 倉敷工 高津 等、初出場が7校。
最多出場は、 慶応 が3年連続13回め。また、 平安 が、11回めの出場。
開会式の入場行進で、プラカードを女子生徒が担当する事が、開始された。
1回戦。対 熊谷( 埼玉 )戦、 9-1 と、一蹴り。この試合で、 藤沢 は
大会3号の、ホームラン1本めを記録する。【 1本めは、ランニングホームラン
だったんです。 】と藤沢。2回戦。対 高津( 大阪 )戦 5ー3 で勝利。
8月17日、迎えた準々決勝。相手は 中京商 以来の3連覇を目指す
小倉北。春夏通算16勝を挙げた好投手 福島一雄投手 を擁し、洗練
された野球をするチーム。知名度は、雲泥の差。【 一生懸命やるしかないなあ。
そんな、気持ちが強かったです。 】と、藤沢はいう。この試合で、二回と六回の
藤沢の、大会7、8号ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉敷工 は、
延長10回、一死満塁から、 横山 の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に
終止符を打った。【 2本とも、左中間でした。思い切り振っただけでしたが、
なぜか、よく飛んで行きました。二回のホームランは、審判に言われて気が
ついたんです。 】と、無欲の勝利を強調する。8月18日付、山陽新聞に
「 倉工殊勲の健棒 」「 小倉の三連覇を阻む 」「 藤沢ホーマー三本 」
「 甲子園大会に新記録 」と出た。藤沢の、通算3本塁打。60年の PL
学園清原 に破られるまで、大会記録を保持していた 藤沢。県大会では
さく越え等打った事のない、五番打者。夏の甲子園大会、3本ホームランは
木製バット使用としては、通算最高記録である。準決勝、対 岐阜 戦は
2 - 5で敗れたが、 妹尾求 が大会9号本塁打を記録。 倉敷工 は
甲子園で、4本の本塁打を記録した事になる。こうして、 スラッガー藤沢 は
小沢 と共に、阪神タイガースに入団して、プロの道へと歩む事になる。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏