熱闘甲子園 今昔物語 26 栄光の足跡 14

第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)

【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝興国(大阪)準優勝静岡商(静岡)

決勝は、興国対静岡商。変化球下手投げの丸山(興国)と左腕速球派の新浦(静岡商、後に巨人入り)。
両投手の対決は、五回の1点で勝負が決まり、初出場の興国が深紅の優勝旗を握った。(当HP。栄光の足跡13号に続く)

【はじめに】
昭和42年2月、新しい倉敷市が生まれた。以後、倉敷は工業に観光にと全国にその名を知られる。特に、美観地区や商店街には人が溢れていた。ところが、倉敷工の試合時間になると、商店街から、人影が消えた。倉敷市民は、テレビにクギ付けとなった。

倉敷工8―0千葉商(2回戦)
千葉商 000 000 000 0
倉敷工400 030 10X 8
倉敷工投手 小山(小山5勝目)
本塁打

エース小山が、6安打完封した。打っては、千葉商今井投手から、二塁打1を含む16安打の猛攻。

倉敷工9―2高知(3回戦)
高 知 010 001 000 2
倉敷工 001 800 00X 9
倉敷工投手 小山(小山6勝目)
本塁打 武

倉工の主砲武に、センターバックスクリーンに、特大の本塁打が出た。高知は、二塁打3、三塁打1を含む10安打し小山に襲いかかった。しかし、小山は高知から、三振7を奪う力投を見せ、失点2に押さえる。四回に、集中打で上げた8点が、大きくものを言う。

昨年の春(昭和42年選抜)、津山商の急な出場辞退により倉敷工が、繰り上がり出場。夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、小山の左腕は悲鳴を上げていた。
そんな、小山を支えるものとは、いったい何だったんだろうか。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部0B会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

 熱闘甲子園 今昔物語 25 栄光の足跡 13

第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝 興国(大阪)、準優勝 静岡商(静岡)

球史半世紀を祝う記念大会。開会式に、皇太子ご夫妻(当時)を招いた。
地方大会出場は、2485校。45都府県から各1校。北海道は南北から各1校。それに、沖縄から1校を加え48代表が、甲子園に集った。
折からの沖縄返還問題とからんで、一大人気を呼ぶ。
50回大会記念の記録映画「青春」が、市川崑監督のもとで制作された。この「青春」に、倉敷工から小山稔と岡本良二が出ている。

【はじめに】
昭和42年2月、新しい倉敷市が生まれた。以後、倉敷は工業都市として未曾有の発展を遂げ、また観光都市としても全国にその名を知られる。
昭和43年春の選抜ベスト4。その快進撃は倉敷の街に満ち溢れるエネルギーと歩を合わせるかの様だった。
そして、昭和43年夏。倉敷工は4季連続(42年春夏、43年春夏)甲子園出場を果たす。倉工アルプススタンドには「議会議員団」倉敷の伝統「素隠居」や何本もの「のぼり旗」を持った大応援団が詰めかけた。そして、倉工応援名物「桃太郎」が大甲子園に響き渡る。吹奏楽が「桃太郎さん桃太郎さん」、続いて応援団が【オウ】「お腰に付けたキビ団子」【オウ】「一つ私に」【クラコウ】(3アウトになるまで、繰り返す)。この桃太郎の応援が相手校を圧倒する。

倉敷工5―1享栄(1回戦)
享 栄 000 000 100 1
倉敷工 040 001 00X 5

倉敷工投手小山
本塁打

開会式直後の開幕試合。始球式の時、帽子を取りマウンドの横に立つ倉工エース小山稔。
倉工は二塁打2、三塁打1を含む9安打。さらに盗塁4を決め、機動力も絡ませ快勝。享栄は、小山から9安打したものの残塁が10。要所で締めた小山の投球が光る。
水島コンビナートでは、連日フル操業。白壁の街に満ち溢れるエネルギーと合わせ、大応援団と共に倉工の快進撃が始まった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 24 栄光の足跡 12

【はじめに】
昭和42年選抜、夏。昭和43年選抜と、3季連続甲子園出場を果たした倉敷工。倉工黄金時代を迎える。そして、昭和43年選抜。
しぶとい土倉。バントの名手山口。長打力を誇る武。等々。
さらに、投打の中心小山。小山は、左腕でありながらも、右打席でも、左打席でも打てる五番打者。2年時からの出場メンバーが持ち味に磨きをかけ、チーム力は着実に向上した。

投打に活躍する小山投手(倉工創立50周年記念誌より)

40回選抜高校野球大会(昭和43年選抜)
倉敷工(岡山)30清水商(静岡)2回戦
倉敷工 000 102 000 3
清水商 000 000 000 0
倉敷工投手 小山
本塁打
倉工エース小山が、清水商を完封した。清水商市川投手との投げ合いは、迫力ある投手戦となる。清水商は、残塁7、三塁打1を含む7安打。一方倉工は、残塁5、三塁打2を含む9安打。要所を締め地力に勝る倉工に軍配が上がる。

第40回選抜大会(昭和43年)準決勝へ進む

倉敷工(岡山)40銚子商(千葉)準々決勝
倉敷工 002 020 000 4
銚子商 000 000 000 0
倉敷工投手小山
本塁打
優勝候補筆頭銚子商の前に、倉工エース№1が仁王立ちした。
三振7を奪い4安打完封。エース圧巻の投球。倉工は、銚子商、高野、市原の両投手に対し、二塁打1を含む9安打。
「銚子商戦が、一番のベストピッチです。」とエース。エース小山2試合連続完封勝利。

尾道商(広島)31倉敷工(岡山)準決勝
倉敷工投手小山
本塁打
倉工エース小山が、尾道商から三振7を奪うも、両チーム共に10安打。倉工の残塁は9。チャンスに1本出なかった(打てなかった)のが痛い。

名将小沢監督の采配。昭和43年春夏は準決勝へ進出

【概要】
1968
328日~46日出場30チーム
入場曲「世界は二人のために」
優勝大宮工(埼玉)準優勝尾道商(広島)

【倉工その後】
選抜4強。当然招待試合などに招かれるケースも増える。小山には、これが不運。痛めた左腕を休める間もなく、状態を悪化させて行く。捕手で主将の藤川は「高校生離れした球威を誇った1年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」そして、小山らは最後の夏を迎える。

【お願い】
『当HP。カテゴリーの中「青春ヒーロープレイバック」を参照して下さい。』

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB

岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 23 栄光の足跡 11

第49回全国高校野球選手権大会(昭和42年夏)
倉敷工 4-0 本荘(1回戦)
倉敷工 210 001 000 4
本 荘 000 000 000 0
倉敷工投手 小山
本塁打

中京 3―2 倉敷工(2回戦)
倉敷工 001 001 000 2
中 京 002 000 001 3
倉敷工投手 小山
本塁打

【概要】
1967年8月11日~8月20日出場30チーム
優勝 習志野(南関東千葉)
準優勝広陵(広島)

2460校が甲子園を目指し、勝ち抜いてきた30代表の中、初出場が6校。
習志野は、学校創立10年めにして5年ぶり2回目の出場で初優勝。
強打で、旋風を起こした。

倉敷工(東中国) 4―0 本荘(西奥羽秋田)
倉工エース小山が、本荘打線を2安打完封。倉工打線は、本荘遠藤投手から、9安打し、完勝した。

中京(愛知) 3―2 倉敷工(東中国岡山)
倉工エース小山は、中京打線から9個の三振を奪うも惜しいサヨナラ負け。倉工打線は、三塁打2本を含む6安打。一方、中京打線は二塁打2本を含む8安打。惜しい、小山の力投だった。

『当HP。カテゴリーの中「青春ヒーロープレイバック」を参照して下さい。』

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 22 栄光の足跡 10

39回選抜高校野球大会(昭和42年選抜)
津久見32倉敷工
津久見100 200 000 3
倉敷工000 000 200 2
倉敷工投手 小山
本塁打

【概要】
1967
329日~46日出場24チーム
入場曲「世界の国からこんにちは」

優勝 津久見、準優勝 高知

今大会の選抜出場予定だった津山商が、出場辞退。
補欠校の倉敷工が、繰り上げ出場となった。選抜開幕まで1週間を切っての突然の話。倉敷工は、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいた。

津久見(大分)32倉敷工(岡山)

実戦練習が不足していた倉工ナインが、エース小山の力投に打線もこたえ、この大会で初優勝を飾る津久見に、23と食い下がった。

【倉敷工-津久見】 マウンドの小山のもとから各ポジションへ散るナイン(昭和42年4月1日)

津久見エース吉良投手(のちに阪神タイガース入り)の武器は、大きく曲がるカーブ。このカーブに、倉工打線はてこずり三振12
吉良投手の津久見に対し、倉工打線は、二塁打2を含み盗塁4を絡ませ機動力で対抗した。「吉良のカーブは、背中の方に投げたカーブが(右打者の)外角一杯に決まるんです。」と小山。

4季連続の甲子園で完全燃焼した倉敷工の小山稔投手=42年4月、センバツ大会

津久見は、準々決勝岐阜に20、三振13。準決勝報徳学園に21、三振10。決勝高知に21で優勝し、三振16
吉良投手は、倉工戦を合わせると合計51の三振を奪った事になる。
また、得点は倉工が2点。吉良投手から大会最高得点を上げた。
「倉工は強い。夏が楽しみ。」期待の声が高まって行った。

今大会津久見戦から、倉工名物応援となる桃太郎での応援がスタートする。この桃太郎の曲をアレンジした応援は、倉工スタンドが一体化となって、相手校を圧倒。この桃太郎での応援は、昭和50年代までも続いた。
(
残念ながら、現在では使用されていません。)
『当HPカテゴリーの中、「青春ヒーロープレイバック」を参照
して下さい。』
『名物応援「桃太郎」については、当HP、カテゴリーの中の投稿、「名物応援桃太郎誕生秘話」を参照して下さい。』201699日付

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)

岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 21 栄光の足跡 9

第36回選抜高校野球大会(昭和39年選抜)

金沢3―1倉敷工(2回戦)
金 沢 000 102 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手羽村→戸田
本塁打

【概要】

1964年3月28日~4月5日出場23チーム
入場曲「こんにちは赤ちゃん」

優勝が、徳島海南。準優勝は、尾道商だった。
倉工は、2回戦から登場。初戦の相手は金沢。金沢は、1回戦、開幕試合で強豪市和歌山商を、2対0で完封勝利を飾っての2回戦進出。金沢は、市和歌山商に10安打、二塁打2本を浴びせ、打撃力と投手力の揃ったバランスの良い好チーム。

金沢(石川)3―1倉敷工(岡山)
倉工は、金沢辻投手の前に、一回裏の1点のみに抑えられた。打線も4安打、7三振。残塁は7。チャンスに打てなかったのが残念。なお金沢は続く、準々決勝で優勝した徳島海南に敗れている。

倉敷は、やがて旧倉敷、玉島、児島の3市が合併。
新しい、倉敷市が生まれようとしていた。また、水島コンビナートは、連日フル操業の予感。
そして、倉工名物応援が・・・。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
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熱闘甲子園 今昔物語 20 栄光の足跡 8

第44回全国高校野球選手権大会(昭和37年夏)

倉敷工8-5山形商(1回戦)
倉敷工 004 110 200 8
山形商 020 000 300 5
倉敷工投手 安藤
本塁打

北海3―1倉敷工(2回戦)
倉敷工 100 000 000 1
北 海 000 100 20X 3
倉敷工投手 永山→安藤
本塁打

【概要】
1962年8月10日~8月19日出場30チーム
北関東代表の作新学院が、史上初の春夏の連続優勝を成し遂げる。
春のエース八木沢荘六が、開会式当日に赤痢と診断され大会で登板出来ないというアクシデントを乗り越えての優勝だった。また、沖縄が南九州大会を制し甲子園入りし、自力での代表は、沖縄からは、初めてだった。

倉敷工(東中国岡山)8―5山形商(西奥羽山形)
倉工は、二塁打3本、三塁打3本と打線が爆発した。投げては安藤がヒット11本を許すも、要所を締めて完投勝利を飾る。

北海(南北海道)3―1倉敷工(東中国岡山)
強打の倉工が、北海エース松谷投手の前に、ヒット3本、三振7に抑えられる。

昨年の夏に続き、2年連続甲子園出場。そして、春夏合わせて9回めの甲子園。捕手の槌田(立教大―巨人)は、「中国地区No1の捕手に成長した。」と、小沢監督。
「甲子園常連校」の地位を得る。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 19 栄光の足跡 7

43回全国高校野球選手権大会(昭和36年夏)

報徳学園76倉敷工
倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7(延長12)
倉敷工投手 永山→森脇→永山
本塁打

11回裏。報徳学園は、内藤の内野安打で2者が帰えって1点差になる。 この後、同点に追いつき、12回のサヨナラ劇につなげた。

【概要】

1961811日~820日出場30チーム
地元、大阪の浪商と、準決勝で当たった法政二は、前年の優勝校であり、夏春夏の3連続Vを狙っていた。
しかも、浪商は過去2度とも法政二に屈していた。尾崎投手の浪商か。柴田投手の法政二か。大会屈指の好試合は、延長戦にもつれ込み、浪商が宿願を果たし法政二の野望を砕いた。
(
優勝は、浪商)

―参考―
浪商42法政二(準決勝)
浪 商 000 000 002 02 4
法政二 100 100 000 00 2(延長11)

1回戦の倉敷工―報徳学園。無得点のまま迎えた延長11回表。
倉敷工が、一挙6点。しかし、絶体絶命の報徳が粘り6点を返してしまう。そして、サヨナラ勝ち。奇跡の大逆転劇だった。

倉敷工 左腕エース森脇敏正。
34
年夏の甲子園、国体と大舞台を一年生で経験。全国屈指のエース。
「もしかしたら。」小沢監督の夢も膨らんだ。ところが、県予選の直前、バント練習で一塁手で、主将の松本芳男にタッチされた。
森脇が転倒。右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われた。エースの突然の負傷。「これで、甲子園もおしまいか。」全選手に重苦しい空気が伝わった。しかし、主将の松本は涙して訴えた。
「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦おう。」と。
こうして、炎の闘志と団結力で、ついに甲子園切符をつかむ。
しかし、その裏には大きなドラマがあったのだ。
奇跡的な逆転劇の陰にあった、両チームの温情。「高校野球」というステージだからこそ生まれた、ドラマであったと言える。
『詳しくは、当HP。昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。』

つづく
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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 18 栄光の足跡 6

第41回全国高校野球選手権大会(昭和34年)

倉敷工 10―3 太田(1回戦)
倉敷工 013 110 202 10
太 田 000 010 000 1
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打 中村

東北 2―0 倉敷工
倉敷工 000 000 000 0
東 北 000 002 00X 2
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打

【概要】
1959年8月8日~8月18日出場29チーム
地方大会を編成替えした。北海道を南北に分け、長野、静岡、広島が単独で代表を送る事になった。また、6チーム増えて29代表となる。初出場は9チーム。
開会式に皇太子殿下(当時)を迎えた。大会後の選抜チームは、ハワイでの親善交流試合の後、初めて米本土でも試合をした。

倉敷工(東中国岡山) 10―1 太田(西中国島根)
倉敷工打線は三振10を喫すが、10安打10打点と打線が爆発。
犠打7個を決め、打っては二塁打、三塁打、本塁打の各1本と打線が繋がった。小沢監督の「緻密な小沢野球」が見える。

東北(東北宮城) 2―0 倉敷工(東中国岡山)
倉敷工打線は、東北2投手に対し3安打に抑えられる。
三振の数も11となる。

この対太田戦、東北戦の2試合において一年生左腕森脇敏正が、甲子園のマウンドに上がった。

(当HP.カテゴリーの中昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。)

つづく
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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
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(注)現在、「夢フィールド」の放送はありません。

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中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
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熱闘甲子園 今昔物語17 栄光の足跡5

第31回選抜高校野球大会(昭和34年選抜3年連続出場)

東邦 10―3 倉敷工
倉敷工 020 001 000  3
東 邦 002 000 71X 10
倉敷工投手 中原→杉本
本塁打

【概要】
1959年(昭和34年)4月1日~4月10日
出場23チーム入場曲「皇太子のタンゴ」

倉敷工打線は、東邦山本投手に安打3本に抑えられる。また三振も12個を喫す。
一方、東邦打線は11安打二塁打3本。
七回は、集中打で7点。東邦は、春に強いという印象を植え付けた。
『東邦(愛知)は、選抜5回の優勝を誇る。』

どんな投手でも打ち込める打撃チームを理想とし、社会人やプロでも通用する技術を自ら実践して教え込んでいく小沢監督にとって、屈辱的な敗戦だったであろう。

つづく
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朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会