熱闘甲子園 今昔物語 7 伝説の記憶

春夏合わせて6回の甲子園出場を誇る倉敷工業と、春夏合わせて初出場の報徳学園の試合は、球史に残る壮絶な戦いになった。
倉敷工業の先発は、二年生の永山。報徳学園は、左腕酒井。

5回裏、倉敷工業小沢監督は、内野手控えの岡田を呼んだ。
「森脇とキャッチボールをしてやってくれ。」
森脇と岡田がキャッチボールを開始する。


倉敷工のエースとして、投球練習をする当時の、森脇投手。

9回表二死から、4番鎌田、3安打目となるレフト前ヒットで出塁。「二死一塁」
鎌田盗塁成功。「二死二塁」
5番松本レフト前ヒット。
セカンドランナー鎌田ホームに突入するも、報徳レフト大野の好返球で鎌田タッチアウト。
得点を与えず、初出場ながら報徳落ち着いたプレーを見せる。

9回裏報徳、倉敷工業永山に対し、散発4安打に抑えられる。
10回裏ヒットとフォアボールで、一塁三塁の報徳。
2安打の内藤が永山の前に投手ゴロで報徳サヨナラの好機を逃す。

11回表倉敷工業が襲いかかった。
一死から中村フォアボールで出塁。「一死一塁」
槌田の当たりは、ショートゴロ。
Wプレーを焦った二塁手がキャッチできずボールがライトに抜け「一死一塁三塁」
ここで、報徳沢井監督は3安打の鎌田を歩かせ、敬遠策を指示。「一死満塁」
これが裏目に出た。

ここまで2安打している、5番松本が、打席に立つ。
松本レフトオーバーフェンス直撃の、二塁打で『2対0』「一死二塁三塁」


11回表、倉敷工一死満塁。松本のレフトオーバー二塁打で中村( 右 )槌田( 左 )が生還。2点先制する。

土倉のショートゴロだったが、バックホームするも、高くそれてフィルタースチョイス。三塁走者鎌田ホームイン。『3対0』「一死一塁三塁」


延長11回表、倉敷工一死二三塁。土倉の遊撃ゴロは野選を誘い三塁走者の鎌田が生還。3点目をあげる。

白川のスクイズで、『4対0』続く高橋のサードゴロをファーストへ、高い悪送球で『5対0』堅実な守備を見せていた報徳が、二本目のエラーを喫し守備の綻びが出る。
永山三遊間を抜くヒットで続く。報徳ベンチ、ここで好投してきた酒井から、本来のエース東に投手交代。
倉敷工業得意のWスチールを決め『6対0』となる。

倉工三塁側、応援アルプススタンドをはじめ、甲子園のいや日本中の誰もが倉敷工業の勝利を確信した。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 6 伝説の記憶

(当時)一年生で報徳学園戦を、応援に行っていたという生田岩雄さん(昭39年卒C科現おいまつ会副会長)に、その時の応援について、お話をお伺いする事ができました。お話によると、応援席はもとより、甲子園球場は超満員だったそうです。そして、両校ともに物凄い応援合戦だったとの事。そこで、生田さんに、どのような応援合戦だったのか尋ねてみました。

「歓声一丁」と男子リーダーが大声を上げる。すると、応援席から「おうー」と歓声が上がる。その歓声は「地鳴りの様な歓声が響き渡った様な感じでした。」と生田さん。続いて、太鼓に合わせて一拍子の手拍子が始まり、次に二拍子の手拍子、そして、三拍子の手拍子と進んで行く。次に、男子リーダーが「337拍子」と声を張り上げると、鉢巻きに倉工学生服の男子リーダーが、両足を大きく広げ、その足を90度に曲げ、両手の握り拳を太鼓の「337拍子」に合わせて交互に前に突き出して応援団を鼓舞。すると、三塁側倉工応援アルプススタンドは最高潮に。そして、最高潮のアルプスは、さらにヒートアップして行く。

次に、揃いの帽子に応援ユニホームの男子リーダーが、横一列に並び、両手を上げた。

一瞬の静寂が走った。
「母校の勝利を祈って、校歌斉唱。」
すると、倉工生徒は全員帽子を右手に持って立ち上がった。演奏が始まると、校歌に合わせて右手の帽子を上下に振って行く。
一列目は右に動き、二列目は左に動き、以後各列は交互左右に動き、校歌を熱唱。
揺れる三塁側アルプス。男子リーダーは、校歌に合わせて、両手を上下左右に振り、アルプス席を鼓舞。
【水島灘の沖ゆく白帆も】
「このブラスバンドは、倉敷市内の中学高校からの友情応援だったようです。とにかく、倉工一丸の応援だったですね。」と熱く語ってくれた生田岩雄さんでした。

やがて、この応援スタイルは、昭和42年選抜で初披露となる「桃太郎」の応援へと、受け継がれて行く事になる。「桃太郎」の応援とは、当時、倉工音楽部だった木村義夫(現おいまつ会副会長)と木元太一(トニーエバンス楽団スイス国在中)の両名によって作り上げたもの。
当HPカテゴリーの中(投稿)の中で、『名物応援桃太郎誕生秘話』として紹介していますので、ぜひ、ご覧ください。(2016年9月3日投稿)

試合は、0対0のまま五回に入った。小沢監督は、内野手控えの岡田(現倉工野球部OB会副会長)を呼んだ。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。

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熱闘甲子園 今昔物語  5  伝説の記憶

「やったぞ、甲子園じゃ」
「甲子園に行くぞ」
「森脇甲子園へ行くぞ」
感激にひたる倉工ナイン。
そして、ナインの心は、ひとつ。
『森脇を、甲子園に連れて行き、森脇とともに甲子園で戦う。』
日々の練習に、ますます気合い、闘志が漲る倉工ナイン。
松本は、胸をなでおろすと共に、一段と闘志が沸き起こっていた事だろう。
そんな時、ナイン待望の朗報が舞い込む。
『エース森脇が、投球練習が可能となった。』
役者は、揃いつつある。
ナインは、さらに闘志を燃やす。
こうして、迎えた第43回全国高校野球選手権大会だった。

初戦の相手が決まった。
初出場で、兵庫代表報徳学園。報徳は、創部30年め。
兵庫大会決勝で、県尼崎を2対0で破って念願の甲子園を射止めた。

1961年(昭和36年)8月13日。大会3日め、第3試合。
倉敷工対報徳学園
甲子園は、超満員。
一塁側報徳学園の応援スタンドでは、男子リーダーが両手や両足を上げて気合十分の応援態勢。
一方、倉工三塁側応援スタンドでは、「ファイト倉工」の横断幕が風にたなびく中、倉工学生服に身を包み、鉢巻きした男子リーダーが、両足を大きく広げ、両手の握り拳を、太鼓に合わせ、交互に前に突き出し、相手をねじり伏せるかのよう。
また、揃いのユニホームの男子リーダーが曲に合わせて、両手を広げたり、上げたり下げたりして、大応援団を鼓舞。

その曲とは何か。当時、一年生で応援に行っていたという、生田岩雄(現おいまつ会副会長)は、次のように言う。

「とにかく、校歌校歌の連続でした。今のような曲は、なかったんでね。とにかく

校歌の連続でした。」【水島灘の沖ゆく白帆も】「とにかく、両校すさまじい応援合戦でした。」と生田は当時を懐かしむ。

試合は、嵐の予兆を隠しながら、静かな投手戦で進んだ。
報徳は、左腕酒井葵三夫。
倉敷工、永山勝利の先発。試合は、0対0のまま延長に突入する。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語 4 伝説の記憶

「病院から帰って来て(ユニホームに着替えて)ベンチに入ったんですけどベンチに入るのがイヤだったですね。ベンチに入りたくなかったんです。」
明日に、甲子園出場をかけた東中国大会決勝。対岡山東商。
その前夜だった。全員が寝静まっていたが、誰か一人いない事に気づいた小沢。
「誰かいないぞ。」全員が起きた。騒然となった。誰かが言った。「森脇がいない」
宿舎中を探し回った小沢。「森脇は、宿舎の中庭の石の上に座って泣いていました。」
「こんな、夜中に何をしているんか。」
「監督さん。今日ベンチにいてたまりませんでした。明日、倉敷に帰らして下さい。」
森脇は、涙を流しながら小沢に、訴えた。
「この、バカたれが。お前がいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいなくて、何で勝てるか。」と叱責。小沢は、そう言ってなだめて森脇を寝かせたのだった。
こうして迎えた東中国大会決勝だった。
森脇は、投げられない自分と戦っていたのである。

倉敷から、大応援団が駆けつけた。
エース森脇を欠いての決勝進出。
昭和36年7月31日。
鳥取県公設野球場。この決勝の試合は、3対1で、岡山東商を下し、春夏合わせて6回め。2年ぶり3回めの甲子園出場を果たす。
倉敷工の勝利を決定づけたのは、七回、一死一三塁からの、Wスチールだった。
勝負のあやを知り尽くした、思い切った作戦。
「とにかく、投手の勝(永山勝利)のコントロールが、抜群だったんです。右打者の外角へのストレート。スライダーが、コーナー一杯に決まりましてね。コントロール抜群でした。」と、内野手の岡田。外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだからどうしてもという気持ちが、東商さんより上まっていたのではないか、と思います。」

全国屈指のエースを、練習中の負傷により欠きながらも、炎の闘志と団結力で、予選を勝ち抜いた(昭和36年夏の)倉敷工。こうして、苦しみながら勝ち抜いて、ついに掴んだ
甲子園切符。松本が泣いた。倉工ナイン全員が泣いた。松本と森脇が抱き合った。
そして、森脇が「ありがとう。」監督の小沢は「チームワークの勝利です。」と。
そこにある夢。あこがれの舞台。歓喜の瞬間。そこが甲子園。

つづく
随時掲載

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熱闘甲子園 今昔物語 3 伝説の記憶

急遽、主戦投手に選ばれた2年生の三塁手永山。新田中時代は投手。
強肩制球力の良さを監督の小沢は買った。
永山は、次のように話す。
「投げろ。と言われて県大会までには、何日間かの練習期間があったんですけど、投手としての経験という点では、不足していたと思います。」
一方、小沢は「永山よ。君は森脇の代わりではないんだ。永山一個人として投げろよ。」と指示。
これに対し永山は「小沢監督の指導もユニークで(早い球は、放るな。遅い球で勝負しろ。)とか(スライダーは、この様に握って投げなさい。)と色々と教わりながら、練習をしていきました。」
「スライダーの投げ方を教えたが、器用だったのですぐ覚えた。」と小沢。
永山の急成長に、「もしかしたら。」と監督の期待も膨らんだ。
「こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こう。」とナインも奮起。こうして迎えた県大会予選だった。

初戦は、笠岡商。「もう、一回戦の笠岡商に、負けるんじゃないかと思いましたよ。」と外野手の土倉。
笠岡商エース池田投手は、威力十分のストレートを右打者インコースに投げ込んで来た。打ちあえぐ倉工打線。8回が終わり、1対2で笠岡商リード。
9回倉工最後の攻撃。後がない倉敷工。
「ナインは、負けを覚悟したと思いますよ。」と内野手の岡田。【現倉工野球部OB会副会長】
9回、1対2で笠岡商リード。
しかも、一死ランナーなしの倉工。
ここで、岡田が四球を選び出塁する。
一死一塁。送りバント成功。
二死二塁。ここで、捕手の槌田が、左中間に打ち返す。
岡田が生還して、同点に追いつく。
その後、延長に入りやっとの事で勝利する。

「この試合経過は、かすかな記憶によるものです。」
笠岡商に勝利した倉敷工は、二回戦以後、打線が爆発。
県大会を突破して東中国大会に進出。
当時は、岡山と鳥取の上位2校が対戦し勝ち抜いた1校が甲子園に出場できたのである。
初戦は、鳥取の強豪米子東。
「何としても、森脇を、甲子園に連れて行きたい。」
ケガをさせた負い目を感じていた主将の松本は、そうメンバーに訴えたのだった。『森脇を甲子園へ』『森脇を甲子園に』一丸となった倉工は、9対7で米子東に打ち勝ち決勝に進む。
対米子東戦において松本は、神がかり的な大活躍を見せる。
決勝の相手は、岡山東商。
その決勝前夜だった。その夜、事件が起きる。

つづく
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熱闘甲子園 今昔物語 2 伝説の記憶

1961年昭和36年7月1日。午後3時ごろだった。
この日は、強化合宿最後の日。「全員が、疲れのピークだったと思います。」と外野手の土倉。この時、思いもかけないアクシデントが襲う。
選手一人ひとりが、一球バントをしては一塁へ走る。一球バントをしたら一塁への繰り返しの練習だった。アクシデントは、その時起きたのだ。
エース森脇が、一塁側にバントした。主将で一塁手の松本がバント処理。
一塁へ走って来る森脇の足にタッチ。すると、森脇が転倒し、地面を2回転。うずくまる森脇。全員が駆け寄った。森脇は、右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われたのだ。
34年夏の甲子園、国体の大舞台を1年生で経験。県下屈指、いや全国屈指の好投手といわれたエースの突然の負傷。
「これで甲子園もおしまいか。」
全選手に、重苦しい空気が伝わった。そんなある日の昼休みだった。
監督の小沢は、全選手を倉工グラウンドのバックネット裏に集合させた。
「森脇が投げられなくなった。投げられるのは8月以降とのこと。つまり甲子園に行かなくては、森脇は投げられない。そこで、誰を主戦として投げさせればいいか、みんなの意見を聞かせてほしい。」みんなは、下を向いて黙り込んだ。その時、センターで4番打者の鎌田が言った。
「僕らが守っていて、一番困るのは、フォワボールを出す事です。フォワボールを、出されるとリズムが狂います。その点で言うと、打撃投手をしている、2年生の永山が、コントロールがいいので、永山を立てるべきだと思います。」
すると全員が「そうだ。」とうなずいた。
急遽、主戦投手に選ばれた、2年生の三塁手で、打撃投手でもある永山。
強肩、制球力の良さを小沢も買った。一方で。小沢は次のように話す。「監督の私にも大きな責任があるんだけれど、松本には、その後大きな負担をかけさせてしまいました。」
『森脇に大けがをさせてしまった。』と一人で責任を背負い込んだ主将の松本。「どうか、監督さん。森脇を投げられるようにしてください。
もしも、この夏森脇が投げられなかったら、ワシは、一生涯森脇に頭が上がりません。どうか、監督さん、森脇を投げれるようにしてください。」と涙を流しながら小沢に訴えたのだった。小沢だけではない。
全選手にも泣きながら訴えた。「頼む。森脇を甲子園に連れて行ってほしい。」
その涙の思いがナインの心を動かす。森脇を「大舞台のマウンドへ」という思いが、大きく強くなっていったのだ。「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦うんだ。」ナインは奮起した。
こうして、県大会を迎えたのだが、初戦から延長戦になるなど苦戦の戦いが待っていた。

つづく
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新連載 熱闘甲子園 今昔物語1 伝説の記憶

当、HPでは「熱闘甲子園今昔物語」と題して、春の選抜と夏の大会の隠れたエピソードを含め、もう一度振り返ってみる事にする。その第一回は、あの大逆転劇となった倉敷工対報徳学園からスタートしたい。

甲子園の逆転劇の中でも、最高のミラクルは、1961年(昭和36年)の夏の事だろう。勝敗を超えて、今なお語り継がれる名勝負。奇跡の大逆転劇となった一回戦の倉敷工対報徳学園は、夏が来るたび今でも話題に上がる。
試合は、倉敷工永山、報徳は左の酒井の投げ合いで、0対0の息詰まる投手戦が続いた。先手を取ったのは倉敷工。延長十一回表。一死満塁から主将松本の二塁打で2点を奪うと、一気に打線が爆発。この回一挙6点。
倉工ナインはもとより、アルプス席を埋めた大応援団も、倉敷工勝利を疑う者はいない。勝負あり。甲子園球場のスタンドの多く、いや全員がそう思っていた。
甲子園だけでなく、日本中の誰もが、そう思っていただろう。
延長十一回裏、報徳の攻撃。せめて1点を。報徳ナインはそう思った。その回疲れが見え始めた永山が、2点を許すと、本来のエース森脇に交代。
永山は、三塁手についた。森脇が、四球と安打で1点を許すと小沢監督は、三塁手永山を、マウンドに送った。「自分の役目は終わった。ホットしていた。」と永山。緊張の糸が、すでに切れていた永山は味方守備の乱れも手伝って、一挙3点を失い同点となった。大きくざわめく甲子園球場。そして、延長十二回裏、1点を奪われサヨナラゲーム。
信じられない幕切れとなった。
手中の勝利を逃がした投手交代劇。奇跡的な逆転劇の陰にあった、「友情物語」と、「両チームの温情。」高校野球というステージだからこそ生まれたドラマであったと言えよう。

当、HPでは、この倉敷工対報徳学園戦の中に隠されていたエピソード等を含め、もう一度振り返ってみる事にする。

つづく
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