倉工卒業生の石井さんと杉山さんが那覇市で初開催された国際大会で、ダブルス優勝、シングルスでも杉山さん1位、石井さん2位に輝きました。
2023年5月25日山陽新聞
倉工卒業生の石井さんと杉山さんが那覇市で初開催された国際大会で、ダブルス優勝、シングルスでも杉山さん1位、石井さん2位に輝きました。
2023年5月25日山陽新聞
倉敷が泣いた翌日、地元新聞「山陽新聞」に掲載された評について、その全文を紹介する。
チャンスに打てず
惜しい小山の力投
倉敷工 000 000 000 0
静岡商 011 000 00X 2
【評】
倉敷工は、春に続いてまたしても決勝進出を阻まれた。
静岡商得意のバント戦法に苦杯をなめた。静岡商は、二回一死から、松島が左前打。戸塚も中堅左へ安打。俊足の松島は判断よく三進。寺門は2-1後のウエストボール気味の球を、投前に、スクイズ。松島が楽にホームを踏んだ。さらに、三回は先頭の新浦が四球に出たが、青木の投ゴロで二封された。
青木は、すかさず二盗。ここで、佐藤は1-2から、倉敷工の深い守備の裏をかいてドラックバント。これが、内野安打となって、一三塁。藤波は1-1から外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功させた。倉工バッテリーはスクイズに来ると読んで外したのだが、藤浪の執念にしてやられた。ここらあたりに、高校野球でのバントの重要性をまざまざと見せつかれた。肘が痛いという小山だったが連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れもよかった。
それだけに、わずかなスキを突いた静岡商のソツのない攻めは、光った。その追加点は、連日炎天下で力投を続け気力だけで、投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。新浦は、長身から快速球を投げ込んで当たっている倉工打線と、真向から勝負して完封した。
倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。終盤得点こそ結びつかなかったが、その粘りは、たいしたものだった。惜しまれるのは七回。この回小山の四球、中村の右翼線二塁打で、無死二三塁と詰めよった。ところが、ここで思いもよらぬ不運があった。
富永の打球は、一二塁間を抜いたかかと思われたが、二塁手に、横っ飛びに好捕されて、一塁で刺された。しかも、三塁走者の小山は、いったんホームに、突っ込みかけたがコーチャーの静止にあって三塁に戻った。その間、中村はすでに、三塁へ。小山は、追い出されるような格好で三本間に挟殺された。まずい走塁ではあったが、ここは二塁手の好プレーを讃えるべきだろう。結局、倉敷工は勝機に一発が出ず、惜敗したが速球投手新浦に対してバットを短く持ったミート打法。そして、小柄な小山投手の、力投などが、強く印象に残った。
(昭和43年8月21日付。山陽新聞より)
【おわりに】
3年生の春、強打の銚子商を、完封した試合を自らベストピッチと語る、黄金の左腕小山稔。
しかし、そのベストピッチより、痛みと苦しみの中、歯を喰いしばって投げ続けた、高校最後の夏の姿こそコンビナートよりも、美観地区よりも、全国に誇る(黄金の左腕)の名に、相応しかったのかもしれない。
「岡山県代表、倉敷工業高等学校ピッチャーは小山くん小山くん」
小山と倉敷の熱い夏は終わった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝興国(大阪)準優勝静岡商(静岡)
【はじめに】
準決勝。対静岡商戦の朝だった。顔を洗おうと手に水を汲んだ小山稔。ところが、肩が痛くて手が上がらない。そこで、顔を手に近づけて洗ったのだった。手に持った歯ブラシさえも、口まで上がらない。甲子園球場近くのグランドで練習の時だった。
「とにかく、10メートル先さえボールが投げられなかったんです。肩やひじが痛くて。」と小山。
(母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢)小山は、絶望の中を、球場入りする。グランドに足を踏み入れた小山。倉敷から駆け付けた大応援団に、小山は勇気をもらった事だろう。
しかし、そんな小山を真に支えるものがあった。小山を真に支えるもの。それは、胸にKURASHIKI。背中には倉工のエースナンバー1。このエース№1をつけた小山のユニホームこそが、真に支えるものだったのである。
小山は次のように言う。
「倉工のエースというものは、序盤にどんなに打たれても、最後までマウンドを守り切るのが、エースというもの。また、どんなに肩やひじが痛くても最後まで、投げ切るのが、エースというもの。それが、倉工エースの宿命ですね。それを、途中で止めるようでは、倉工のエースは務まりませんね。」
静岡商2―0倉敷工(準決勝)
倉敷工 000 000 000 0
静岡商 011 000 00X 2
倉敷工投手 小山
本塁打
倉工は、静岡商得意のバント戦法に苦杯をなめた。静岡商は二回、一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。俊足の松島一気に三進した。寺門は2-1からスクイズで1点。
三回は、新浦四球。青木の投ゴロで二封。青木、二盗。
佐藤は1-2から倉工の深い守備の裏をかいてドラックバントの内野安打で一三塁。藤波1-1から外角高めのウエストされた球を飛び上がって、スクイズを成功させる。
(倉工、小山―藤川)
のバッテリーはスクイズに来ると読んで外したのだが、藤浪(後に中日入り)の執念にしてやられた。ここらあたりに高校野球のバントの重要性を見せつけられたといっていいだろう。
倉工は、七回。この回小山四球。中村の、ライト線二塁打で、無死二三塁。ここで、思いもよらぬ不運が生じる。
富永の打球は、一二塁間を抜いたと、思われたが、二塁手青木が、横っ飛びで、ショートバウンドをダイビングキャッチ。
富永一塁でアウト。この時、三塁走者小山は、ホームに突っ込みかけたが、三塁コーチャー角野の指示で、三塁へ戻った。これを見た一塁手小泉は、三塁へ転送。小山は三本間で、挟殺された。まずい走塁ではあったが、ここは二塁手青木の好プレーを讃えるべきであろう。
結局、倉工は好機に一発が出ず惜敗したが、速球左腕の新浦(後に、巨人入り)に対して、バットを短く持ったミート打法。そして、肩やひじが痛い小山の、最後までの、力投が強く印象に残った試合だった。
この日、倉敷が泣いた。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝興国(大阪)準優勝静岡商(静岡)
【はじめに】
「親父を早くに亡くしていましてね。お袋が苦労していましたから。その苦労を見て来ましたもんで。それで、お袋を楽にしてやりたい。喜ばしてやりたいと。そのためには、プロ野球に行って活躍する事だと思っていました。」こう語るのは、倉敷工エース小山稔。
しかし、小山の左腕は悲鳴を上げていた。急な投げ込みがたたって小山の左腕は、肘と肩に後々までいえない故障を抱える事になる。
(母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。)
小山は絶望の中を球場入りする。ところが、ある光景を見た瞬間あれほどまで痛かった肘や肩が、痛みを忘れたという。
小山が見たものとは何だったのか。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。そして、アルプス席から聞こえてくる大声援。
「小山、小山、頑張れよ、小山。」の、大声援だった。
小山を支えるもの。それは、大応援団。しかし、真に支えるものが、もう一つある。小山を、真に支えるもの。それは、何か。
こうして、迎えた準々決勝だった。
倉敷工6―3広陵(準々決勝)
広 陵 000 000 300 3
倉敷工 111 201 00X 6
倉敷工投手 小山(小山7勝め)
本塁打
準々決勝の相手は、昨年の49回大会夏の甲子園準優勝投手、左腕宇根洋介投手のいる広陵。宇根投手は、一回戦北海を1点に抑え、松商学園、東奥義塾を連続完封。準決勝市和歌山商を1点に抑えての決勝進出。決勝では、習志野に、1対9で敗れての準優勝だった。
第4試合だったため、ナイトゲームとなった。両校、共に凄まじい気力と気迫のぶつかりは、高校野球ファンの心を打つ。
先取点、先手を取ったのは倉工。制球力と鋭いカーブが持ち味の宇根投手(後に、近大―社会人野球NTT中国)から、小気味良く点を取って行く。終わってみれば、二塁打1、三塁打1を含む7安打。一方、広陵は8安打、四死球8、残塁10。
チャンスを確実にものにした、倉工の勝利と言えよう。
センターポールに、校旗が上がる。倉工ナインのユニホームは全員(甲子園の)土、ドロだらけだった。
こうして、倉工は春に続いて、準決勝へと進む・
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝興国(大阪)準優勝静岡商(静岡)
決勝は、興国対静岡商。変化球下手投げの丸山(興国)と左腕速球派の新浦(静岡商、後に巨人入り)。
両投手の対決は、五回の1点で勝負が決まり、初出場の興国が深紅の優勝旗を握った。(当HP。栄光の足跡13号に続く)
【はじめに】
昭和42年2月、新しい倉敷市が生まれた。以後、倉敷は工業に観光にと全国にその名を知られる。特に、美観地区や商店街には人が溢れていた。ところが、倉敷工の試合時間になると、商店街から、人影が消えた。倉敷市民は、テレビにクギ付けとなった。
倉敷工8―0千葉商(2回戦)
千葉商 000 000 000 0
倉敷工400 030 10X 8
倉敷工投手 小山(小山5勝目)
本塁打
エース小山が、6安打完封した。打っては、千葉商今井投手から、二塁打1を含む16安打の猛攻。
倉敷工9―2高知(3回戦)
高 知 010 001 000 2
倉敷工 001 800 00X 9
倉敷工投手 小山(小山6勝目)
本塁打 武
倉工の主砲武に、センターバックスクリーンに、特大の本塁打が出た。高知は、二塁打3、三塁打1を含む10安打し小山に襲いかかった。しかし、小山は高知から、三振7を奪う力投を見せ、失点2に押さえる。四回に、集中打で上げた8点が、大きくものを言う。
昨年の春(昭和42年選抜)、津山商の急な出場辞退により倉敷工が、繰り上がり出場。夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、小山の左腕は悲鳴を上げていた。
そんな、小山を支えるものとは、いったい何だったんだろうか。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部0B会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝 興国(大阪)、準優勝 静岡商(静岡)
球史半世紀を祝う記念大会。開会式に、皇太子ご夫妻(当時)を招いた。
地方大会出場は、2485校。45都府県から各1校。北海道は南北から各1校。それに、沖縄から1校を加え48代表が、甲子園に集った。
折からの沖縄返還問題とからんで、一大人気を呼ぶ。
50回大会記念の記録映画「青春」が、市川崑監督のもとで制作された。この「青春」に、倉敷工から小山稔と岡本良二が出ている。
【はじめに】
昭和42年2月、新しい倉敷市が生まれた。以後、倉敷は工業都市として未曾有の発展を遂げ、また観光都市としても全国にその名を知られる。
昭和43年春の選抜ベスト4。その快進撃は倉敷の街に満ち溢れるエネルギーと歩を合わせるかの様だった。
そして、昭和43年夏。倉敷工は4季連続(42年春夏、43年春夏)甲子園出場を果たす。倉工アルプススタンドには「議会議員団」倉敷の伝統「素隠居」や何本もの「のぼり旗」を持った大応援団が詰めかけた。そして、倉工応援名物「桃太郎」が大甲子園に響き渡る。吹奏楽が「桃太郎さん桃太郎さん」、続いて応援団が【オウ】「お腰に付けたキビ団子」【オウ】「一つ私に」【クラコウ】(3アウトになるまで、繰り返す)。この桃太郎の応援が相手校を圧倒する。
倉敷工5―1享栄(1回戦)
享 栄 000 000 100 1
倉敷工 040 001 00X 5
倉敷工投手小山
本塁打
開会式直後の開幕試合。始球式の時、帽子を取りマウンドの横に立つ倉工エース小山稔。
倉工は二塁打2、三塁打1を含む9安打。さらに盗塁4を決め、機動力も絡ませ快勝。享栄は、小山から9安打したものの残塁が10。要所で締めた小山の投球が光る。
水島コンビナートでは、連日フル操業。白壁の街に満ち溢れるエネルギーと合わせ、大応援団と共に倉工の快進撃が始まった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
【はじめに】
昭和42年選抜、夏。昭和43年選抜と、3季連続甲子園出場を果たした倉敷工。倉工黄金時代を迎える。そして、昭和43年選抜。
しぶとい土倉。バントの名手山口。長打力を誇る武。等々。
さらに、投打の中心小山。小山は、左腕でありながらも、右打席でも、左打席でも打てる五番打者。2年時からの出場メンバーが持ち味に磨きをかけ、チーム力は着実に向上した。
第40回選抜高校野球大会(昭和43年選抜)
倉敷工(岡山)3―0清水商(静岡)2回戦
倉敷工 000 102 000 3
清水商 000 000 000 0
倉敷工投手 小山
本塁打
倉工エース小山が、清水商を完封した。清水商市川投手との投げ合いは、迫力ある投手戦となる。清水商は、残塁7、三塁打1を含む7安打。一方倉工は、残塁5、三塁打2を含む9安打。要所を締め地力に勝る倉工に軍配が上がる。
倉敷工(岡山)4―0銚子商(千葉)準々決勝
倉敷工 002 020 000 4
銚子商 000 000 000 0
倉敷工投手小山
本塁打
優勝候補筆頭銚子商の前に、倉工エース№1が仁王立ちした。
三振7を奪い4安打完封。エース圧巻の投球。倉工は、銚子商、高野、市原の両投手に対し、二塁打1を含む9安打。
「銚子商戦が、一番のベストピッチです。」とエース。エース小山2試合連続完封勝利。
尾道商(広島)3―1倉敷工(岡山)準決勝
倉敷工投手小山
本塁打
倉工エース小山が、尾道商から三振7を奪うも、両チーム共に10安打。倉工の残塁は9。チャンスに1本出なかった(打てなかった)のが痛い。
【概要】
1968年3月28日~4月6日出場30チーム
入場曲「世界は二人のために」
優勝大宮工(埼玉)準優勝尾道商(広島)
【倉工その後】
選抜4強。当然招待試合などに招かれるケースも増える。小山には、これが不運。痛めた左腕を休める間もなく、状態を悪化させて行く。捕手で主将の藤川は「高校生離れした球威を誇った1年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」そして、小山らは最後の夏を迎える。
【お願い】
『当HP。カテゴリーの中「青春ヒーロープレイバック」を参照して下さい。』
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第49回全国高校野球選手権大会(昭和42年夏)
倉敷工 4-0 本荘(1回戦)
倉敷工 210 001 000 4
本 荘 000 000 000 0
倉敷工投手 小山
本塁打
中京 3―2 倉敷工(2回戦)
倉敷工 001 001 000 2
中 京 002 000 001 3
倉敷工投手 小山
本塁打
【概要】
1967年8月11日~8月20日出場30チーム
優勝 習志野(南関東千葉)
準優勝広陵(広島)
2460校が甲子園を目指し、勝ち抜いてきた30代表の中、初出場が6校。
習志野は、学校創立10年めにして5年ぶり2回目の出場で初優勝。
強打で、旋風を起こした。
倉敷工(東中国) 4―0 本荘(西奥羽秋田)
倉工エース小山が、本荘打線を2安打完封。倉工打線は、本荘遠藤投手から、9安打し、完勝した。
中京(愛知) 3―2 倉敷工(東中国岡山)
倉工エース小山は、中京打線から9個の三振を奪うも惜しいサヨナラ負け。倉工打線は、三塁打2本を含む6安打。一方、中京打線は二塁打2本を含む8安打。惜しい、小山の力投だった。
『当HP。カテゴリーの中「青春ヒーロープレイバック」を参照して下さい。』
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第39回選抜高校野球大会(昭和42年選抜)
津久見3―2倉敷工
津久見100 200 000 3
倉敷工000 000 200 2
倉敷工投手 小山
本塁打
【概要】
1967年3月29日~4月6日出場24チーム
入場曲「世界の国からこんにちは」
優勝 津久見、準優勝 高知
今大会の選抜出場予定だった津山商が、出場辞退。
補欠校の倉敷工が、繰り上げ出場となった。選抜開幕まで1週間を切っての突然の話。倉敷工は、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいた。
津久見(大分)3―2倉敷工(岡山)
実戦練習が不足していた倉工ナインが、エース小山の力投に打線もこたえ、この大会で初優勝を飾る津久見に、2対3と食い下がった。
津久見エース吉良投手(のちに阪神タイガース入り)の武器は、大きく曲がるカーブ。このカーブに、倉工打線はてこずり三振12。
吉良投手の津久見に対し、倉工打線は、二塁打2を含み盗塁4を絡ませ機動力で対抗した。「吉良のカーブは、背中の方に投げたカーブが(右打者の)外角一杯に決まるんです。」と小山。
津久見は、準々決勝岐阜に2対0、三振13。準決勝報徳学園に2対1、三振10。決勝高知に2対1で優勝し、三振16。
吉良投手は、倉工戦を合わせると合計51の三振を奪った事になる。
また、得点は倉工が2点。吉良投手から大会最高得点を上げた。
「倉工は強い。夏が楽しみ。」期待の声が高まって行った。
今大会津久見戦から、倉工名物応援となる桃太郎での応援がスタートする。この桃太郎の曲をアレンジした応援は、倉工スタンドが一体化となって、相手校を圧倒。この桃太郎での応援は、昭和50年代までも続いた。
(残念ながら、現在では使用されていません。)
『当HPカテゴリーの中、「青春ヒーロープレイバック」を参照して下さい。』
『名物応援「桃太郎」については、当HP、カテゴリーの中の投稿、「名物応援桃太郎誕生秘話」を参照して下さい。』2016年9月9日付
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第36回選抜高校野球大会(昭和39年選抜)
金沢3―1倉敷工(2回戦)
金 沢 000 102 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手羽村→戸田
本塁打
【概要】
1964年3月28日~4月5日出場23チーム
入場曲「こんにちは赤ちゃん」
優勝が、徳島海南。準優勝は、尾道商だった。
倉工は、2回戦から登場。初戦の相手は金沢。金沢は、1回戦、開幕試合で強豪市和歌山商を、2対0で完封勝利を飾っての2回戦進出。金沢は、市和歌山商に10安打、二塁打2本を浴びせ、打撃力と投手力の揃ったバランスの良い好チーム。
金沢(石川)3―1倉敷工(岡山)
倉工は、金沢辻投手の前に、一回裏の1点のみに抑えられた。打線も4安打、7三振。残塁は7。チャンスに打てなかったのが残念。なお金沢は続く、準々決勝で優勝した徳島海南に敗れている。
倉敷は、やがて旧倉敷、玉島、児島の3市が合併。
新しい、倉敷市が生まれようとしていた。また、水島コンビナートは、連日フル操業の予感。
そして、倉工名物応援が・・・。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会