捲土重来 平成8年の夏 11

第78回全国高校野球選手権大会 岡山大会準々決勝
倉敷工 VS 玉島商夏に強い 玉島商。打倒倉工を目指して金星を上げたい 玉島商。
しかし、 倉敷工 の勝利を決定付けたのは、超ファインプレーと自慢の倉工打線の中、下位打線の打棒だった。
   玉島商 010 020 000  3
   倉敷工 000 100 201  4
5回、玉島商 の攻撃。2本のヒットと四球で満塁とする。ここで、左中間にヒットを打ち、2点を取り 3対1 と 玉島商 リード。一方、 倉敷工 は7回タイムリー3ベースの 7番白神 を3塁に置いて 8番渡辺 が、1,2塁間を破り、 白神 がホームへ帰る。
8回を終わって 3対3 の同点。
そして9回。ここで、大きなドラマが待っていた。 
玉島商 この回の先頭打者が、低いライナーで左中間を破り、3塁打を打つ。 倉敷工 無死3塁 のピンチを迎える。
しかし、 エース中原 捕手福原 のバッテリーは、冷静だった。次の打者を、ショートゴロに打ち取る。
ショート渡辺 がっちり捕球して、3塁ランナーを牽制して、1塁へ。
これで、一死3塁。ここで、スクイズが大きく考えられる場面。
倉工応援スタンドは、3塁ランナーの動きに注目している。
ボールカウント、2ボール1ストライク。冷静なバッテリー。
エース中原 は、右打者の外角やや高めに投げた。
3塁ランナーがホームに走った。打者がバントの構えをした。
【 スクイズだ 】しかし、スクイズバントは、セカンド方面への小フライとなった。
セカンド西川 猛ダッシュして、小フライをすくい上げた。と、同時に3塁に転送。
サード坪井 足を伸ばし手を伸ばしキャッチ。
審判が、横に動き右手を握り、90度に曲げ2度3度腕を振った。
【 アウト 】
このプレーが、 倉敷工 の窮地を救う。
右打者の外角やや高めに投じたエース中原。
バントをしてもフライを誘った 中原 の投球術。
そして、セカンド西川 の超ファインプレー。
ベンチで両手を叩き、大きな笑顔でナインを迎える 和泉監督。
大盛り上がりの 倉工応援スタンド。この大盛り上がりが、倉工ナインの背中を押す。
奇跡の様なプレーが起こるのは、それを呼び込めるだけの、努力をした選手だからである。
ピンチを乗り越えた 倉敷工。9回最終回を迎える。

   つづく  随時掲載
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
     中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
     西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 10

 平成8年。この年、県高野連発足50周年を記念して、朝日新聞社にお願いして、新しく 優勝旗 を新調した。この新しい 優勝旗 を、そして 甲子園を目指した戦いが始まる。この年、春の選抜甲子園で、4強入りした 岡山城東は、春夏の連続出場を目指す。また、夏の甲子園3年連続出場を狙う 関西。倉敷工 は春の県大会決勝で、 岡山城東 に敗れ 準優勝。続く、八校選抜( 現在は廃止 )も、決勝で、同じく 岡山城東 に敗れ準優勝。 倉敷工 3度目の正直となるか。もう、準優勝はいらない。県大会を前にして、ミーティングが開かれた。ナインは一人一人に思いを語った。その思いの中、【 監督さんは、試合中は 笑顔 でいて下さい 】と。ここで、当HPが見た、チームの横顔を紹介したい。一番センター 北條二番セカンド 西川 は、出塁率が高く走ってかき回す。そして、クリーンアップで返すのが、パターン。 エース中原 は、コントロールが良く、ストレートに威力がある。捕手の 福原 は、強肩で長打力はチーム一。サードの 坪井 はパワーヒッターで足も速い。ショートの 渡辺 は、チーム一の努力家であり守備力は、抜群。レフト 藤原 は、パワーヒッターで、守備もいい。ライト白神 はリストが柔らかく 強肩巧打。個性揃いの 倉工ナイン。やはり一番北條、二番西川の、1番2番コンビが相手チームに 脅威を与えるのは間違いない。こうして、第78回全国高校野球選手権大会 岡山大会が開幕する。 倉敷工 は、第2シード。初戦は、一回戦延長で勝利した笠岡工。一回表、 笠岡工 の攻撃。 倉敷工 は、いきなり満塁のピンチに立つ。その満塁から、ヒットを打たれ1点を献上。だが、二回に1点、三回に2点を上げ逆転に成功。終わって見れば 5対1 の勝利。投げては、エース中原が、10個の奪三振。特に九回の、3者連続奪三振は圧巻。3回戦は打倒倉工を目指し、金星を挙げたい 玉島商 だった。

つづく   随時掲載お願い  
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考  山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
     中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
     西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 9

平成8年。 和泉 と 中山 のコンビは、他校に先駆けて画期的な事を次から次へと起こしていく。メンタルトレーニングの導入、ナイター戦の実現に引き続き、教育リーグを実施する。この、教育リーグとは、ベンチに入れない三年生と、一年生の中から 有望選手 を選抜しチームを作り、他校と交流試合を行うもの。一年生にとっては、いい経験になるであろう。ナイター戦 と 教育リーグ について、 和泉 と 中山 は「 生徒の想い出作りのために始めました。 」と、口を揃えて言う。だが本当に想い出作りだけなのであろうか。他にも 狙い 意図 があったのではなかろうか。真の 狙い 意図 とは何か。それは、次の事の様に考えられる。
【 野球の楽しさ 野球の面白さ を実感してほしい 】そして【 卒業しても決して 野球 を嫌いにならないように。どんな形でもよいから、 野球 を続けていってほしい。 野球 を愛し続けてほしい。 】との、狙いがあったのではなかろうか。交流試合会場に、運び込まれた一個の白いボールが選手たちの 夢 を育む。
さらに、画期的な事は続く。工業交流大会を始めたのも、この年からだった。県立工業高校にとって、国家試験において資格取得というのがある。その資格取得のために、補習授業があり、時には休日でも、登校して、補習授業を受ける事さえある。そのために、思うような練習時間が確保できないという、ハンディーがある。そのハンディーを、お互い克服して行く事を、目的として、 水島工 津山工 東岡山工 等といった県立工業高校同志で、交流試合を始めたのだった。こうして、平成8年夏の、県予選が間近に迫って来た。平成6年県一年生大会で優秀校に輝いたメンバーにとって、 甲子園 に向けて、一球一打にかける最後の勝負の戦いが始まろうとしていた。県予選を前にして、ミーティングが開かれた。ナインは、 監督 和泉利典 にあるお願いを、したのだった。 つづく

参 考  山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

      中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

      西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 8

平成7年夏。県大会ベスト4。準決勝で、春の選抜甲子園に出場した 関西 と対戦。

全国的にも知られ、高校生離れした球威を誇る 左腕エース吉年投手 に対し

6点を叩き出した 倉工打線。 しかし、最後まで粘りきれず 6 対 7 の逆転負けを

喫す。この負けを、明日に繋げたい 倉敷工。運動能力抜群の 北條 西川。 特に

西川 のシャープなバットスイングは、光るものがある。打撃が良く、バントもうまい 坪井。

強肩で、捕手 内野手 もできる 福原。これら、2年生からの出場メンバーが、持ち味

に磨きをかけ、チーム力は着々と向上した。迎えた平成8年。平成6年県一年生大会

で、優秀校に輝いたメンバーにとって、勝負の年となる。この平成8年 和泉 と 中山

のコンビは、他校に先駆けて、画期的な事を起こす。まずは、メンタルトレーニングの導入。

あらゆる事を想像しての、トレーニング。このメンタルトレーニングが、後で大きく役立つ事

になる。次は ナイター戦。夏の県予選において、ベンチに入れない 3年生 の選手同士

が、ナイターで試合を行うもの。スコアーボードをフル活用し、場内アナウンスをつけ

ベンチ入り予定選手は、チームメイトへの応援に熱が入る。さらに、応援団 ブラスバンド部

も登場し、白熱した 応援合戦 が繰り広がれる。この映えある、第一戦は、倉敷市営

球場で、 倉敷商 と実現し、 1 対 0 で 倉敷工 が勝利を飾った。このナイター戦

が、チームの 団結力 を生む。ナイター戦は、現在でも、 倉敷マスカット球場 で

行われている。 和泉 と 中山 のコンビの画期的な事は、さらに続く。

つづく  随時掲載

 

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

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捲土重来 平成8年の夏 7

平成7年夏。 和泉 と 中山 のコンビは、OBコーチ 藤原 と 永山 の

助言を得て、近年にない大型チームを作りあげる。県春季ベスト4、8校選抜優勝。

「 8校選抜は、現在は廃止 」 甲子園が見える。 倉敷工 は、エース辻村

に加え、球速140を超え、社会人野球注目の 平 がリリーフし、勝利の方程式

が、完成。打線も 4番平 を中心に、上位下位何処からでも、得点が取れる。

快進撃を続ける 倉敷工。

倉敷工 6 - 2 津山

倉敷工 6 - 4 和気閑谷

倉敷工 9 - 8 倉敷商

準決勝は、この年選抜甲子園に出場し、エース吉年投手を擁する、最大の難敵

関西。吉年投手は、全国的にも知られ、高校生離れした球威を誇る。 倉敷工

としては、何としても打ち崩したいところ。試合が始まった。いきなり倉工打線が、

吉年投手に襲いかかった。 4番平 の左中間への豪快なホームランかと思える、

フェンス直撃弾をはじめ、前半を終えて、6点のリード。吉年投手を攻略し勝負

ありかと思われたが、さすがに 関西 も意地がある。 倉工エース辻村 に疲れが

見え始めた後半、関西打線が爆発。試合が終わって見れば、 6 対 7 の

逆転負けを喫したのだった。

準決勝   倉敷工 6 - 7 関西

『 関西の方が、より多くの経験を積んでいたと、思います。 』と、和泉。

『 準々決勝、倉商戦と、準決勝、関西戦は、天国と地獄を味わったようで。

記憶に残る試合となりました。 』と、中山。

敗戦は、時として、チームを強くする。 負け から、学ぶ事さえある。

倉工野球の 意気 と 誇り と 苦闘 の日々はつづく。

つづく   随時掲載

 

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協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

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捲土重来 平成8年の夏 6

倉敷工野球部 部長中山 隆幸  監督和泉 利典。

この若い二人を、補佐し支えて行く、二人のOBコーチ。藤原 勝利( 昭36年卒 )

と、永山 勝利( 昭38年卒 )。二人とも、甲子園 と 国体 に出場経験を持つ。

遊撃手だった 藤原 は、主に 守備コーチ を担当。【 私らの現役時代は、たとえば

打撃練習では、一本めをバントして、二本めから打撃なんですが、そのバントを失敗

したら、もう打たしてくれないんですからね。一つも気がぬけませんでした。それから

ランナーを二人出したとします。例えば一三塁とします。それで、どちらかのランナーを

牽制で挟んだとします。すると、二人のランナーを、アウトにする練習をしていました。

二人のランナーをアウトにするには、9人全員がわかっていないと、無理ですからね。 】

と、語る 藤原。卒業後、石油関係の会社の 軟式野球部 の主力として活躍。

50歳以上のシニアの部で、岡山県代表選手として、長崎国体で準優勝の実績を持つ。

一方、 永山 は、全国屈指の好投手、エースを欠きながらも 炎の闘志と団結力で

甲子園出場を勝ち取った昭和36年夏。そのエースの 代役 として活躍。

あの、高校野球不滅の名勝負 対報徳学園 戦の時の投手。二年連続で甲子園

出場を果たしている。卒業後は、社会人野球 東洋紡岩国 で野球を続け

社会人野球最高峰の大会 都市対抗 にも出場。倉敷に帰ってからは、自動車

関係の会社に勤務し、自社野球部の監督として、 秩父宮杯全国準硬式野球大会

において、 全国準優勝 にまで導いている。投手コーチを担当。選手との年齢差が

親子ほどに大きいものの、コミュニケーションを大事に進めて行く、 藤原 と 永山 の

両コーチ。内野手の 西川 剛正 は、「 藤原さんと永山さんは、よく僕らの話を

聞いて下さいました。そして、理解してくれましたね。 」 また、倉敷工は全国屈指の

名門校。甲子園に出場する度に、何か話題を ふるさと倉敷 に持って帰る。

それだけに、熱烈なファンも多い。時には、外部やOBからの圧力もある。そうした

圧力を、両コーチは一切遮断。 和泉 中山 の指導がしやすくサポート。

『 とにかく指導に集中できる様になりました。選手から信頼を得られました。』と、和泉。

また、両コーチは 父母会 の意識改革にも乗り出す。その結果、野球部 スタッフ一同

そして 父母会 一同が、一体感が生まれたのだった。体制は、できた。

こうして、平成7年夏。暗く長かったトンネルに、光がさしてきた。遠かった 甲子園 へ

の道。甲子園の、あの大歓声が聞こえて来るところまで来ていた。

つづく   随時掲載

 

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

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捲土重来 平成8年の夏 5

「 一年生大会の時は、中山先生が良くノックをしてくれましてね。大会試合の時は
和泉先生が監督として、采配でした。とにかく無我夢中で必死で頑張りました。

大会に入ると、試合ができるという喜びがありましたね。もう、怖い物知らずでした。」

こう語るのは、内野手 西川 剛正。現在は、倉敷工野球部コーチ。

この一年生大会は、一年生で退部するのを防ぐと共に、一年生全員が、どこかで

出場する事を趣旨としている。また A、B の2ブロックに別れていて、各ブロックの

優勝チームが、 優秀校 として表彰されるものである。決勝戦は、行わない。

平成6年県一年生大会で、 倉敷工 は その優秀校 となる。

倉敷工  8 -1 作陽

倉敷工 12 - 1 東岡山工

倉敷工 14 - 1 玉野

決勝 倉敷工 13 - 3 玉島商

暗く長いトンネルが続いていた 倉敷工。ここに来て、やっと出口が見つかりかけた

平成6年。この大会の主戦投手は、 中原 俊博。右打者に対し、インコースに

ナチュラルシュートがあり、インコースに投げ切れる投手。そして、アウトコース低めに

決まる、 伸び 切れ があるストレートが持ち味。和泉監督は 『 そこそこは

できるチームだなと感じました。手応えを感じましたね。 』

こうした中、 部長、監督 を補佐し支えて行く 二人のOBコーチがいた。

つづく  随時掲載

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捲土重来 平成8年の夏 4

監督がいない 倉敷工野球部。その期間は約5か月にも及んだのだった。

そうした中、和泉らが最終学年に差し掛かろうとした、3月末やっと新監督が誕生した。

名前は、OB吉田 豊。昭和47年選抜甲子園ベスト8の時の内野手。吉田は卒業後、大学に進学( 大東文化大 )。卒業と同時に倉敷工監督となった。

主将和泉は、ナインに訴えた。「今日は、新監督が来る日。ちゃんと大きな声で挨拶をしよう。練習も気合いを入れて、監督に気にいってもらえるようにしよう。」と。そして和泉は、退部していた、本来のエースを呼び戻したのだった。こうして、若き青年指揮官と、共に夏の甲子園を目指す事になった。結局、夏の予選は、準々決勝で岡山南に敗れ、甲子園への道は絶たれた。この年、水島工が甲子園初出場した。和泉は卒業後、法政大に進学。走力と打力には、自信があったが、全国から集まった精鋭たちの前に、あまくはなかった。 法政大を卒業した和泉は、理大附の教壇に立ったが、すぐに倉敷工校長から「和泉よ、倉工に帰って来い」と言われ、その後長いこと 倉敷工野球部監督をする事になる。しかし、思うようにはいかず、マスコミから厳しい言葉を受ける事もあったという。こうして、時は過ぎ平成6年を迎えた。監督経験もある、頼もしきOB中山隆幸を野球部部長として迎え、和泉と中山のコンビが誕生。あくまでも、野球を通じて人としての心、人間性を重んじる中山の野球道。一方、どんな投手でも、打ち崩せる打撃チームを理想とし、戦術面で時には、緻密な作戦を用いた、小沢野球を追求して行く監督和泉利典。平成6年の一年生を見た和泉は、『面白い奴が多いなあ』と感じたという。「特に、北條なんか、中学のスポーツバッチテストが、100点満点でしたからね。いいのが、来たなと思いましたよ。」こうして県一年生大会を前にして、中山の猛ノックが始まった。

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捲土重来 平成8年の夏 3

【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に 甲子園 に行くんだ 】

小沢監督に憧れ、倉工の 門 を叩いた 和泉。 倉工 に行けば 甲子園 に行ける。

夢 を追いかけた。「 倉工 の迫力ある 打力 打撃 に憧れましてね。 」と、和泉。

しかし、 小沢監督 の背中を、追いかける時間は、長くはなかった。いや、短かすぎた。

和泉 が、一年生の時 ( 10月 ) 小沢監督 が、引退してしまったのだ。選手たちは

『 小沢監督 の指導を受けたい 』『 そんな、はずじゃあないなのに 』と。

「 次は、誰が監督になるのか、心配でした。 」と、 和泉。 小沢監督 の後任に

当時、コーチだった、 脇田監督 が誕生した。しかし、 脇田監督 も、 和泉 が二年生

の、11月で、退任してしまった。主将だった 和泉。 和泉 の苦労は、ここから始まる。

在学中、二人の 指揮官 を失った 倉敷工野球部。 主将の和泉 は、 小沢 の

所へ行っては、 「 どんな、練習をしたらいいですか。」と、何回も何回も 足 を運んだ

という。冬場の 鶴形山の階段 は、きつい。部員の中には、「 監督もいないし、もう

帰ろう。 」と、言い出す者もいた。また、手を抜く者もいた。 和泉 は、訴えた。

「 俺たちが、 甲子園 に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。

しっかり、走って足腰を鍛えよう。 」『 当時は、倉工のグランドで練習していまして。

サッカー部やラグビー部もいましてね。それで、打撃練習は、一人づつしかできなかったんです。』

と、和泉。その、打撃練習の時だった。同じ学年の 部員 に「 悪いが、打撃練習から

外れてくれんか。 」 和泉 の胸中は、いかなるものだったのか。こうして、指揮官の

いない月日は、流れた。

つづく   随時掲載

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捲土重来 平成8年の夏 2

平成6年4月、頼もしきOBが母校に凱旋する。そのOBは 倉敷工在学中 から大いなる

夢を抱いていた。その夢とは、「 教師になる事。野球の指導者になる事。 」 卒業時には

約10社からなる 社会人野球 からの勧誘を断り、大学へ進学( 足利工大 )。野球部には

入らず、ひたすら学業に専念。そして、 野球の勉強 と 指導学 を独学で学んだ。

その努力が実り、 教員採用試験 に一発で合格。 東岡山工 笠岡工 を経て 母校 に

帰って来たのだった。その OB の名前は、 中山 隆幸。 倉敷工 に転勤命令を受けた

中山 は、すぐに 和泉 に電話した。 中山 から報告を受けた 和泉 の第一声は

「 ほんま か 」だった。【 コーチはいたんですが、外部コーチだったんですね。ですから学校

行事や授業と、練習の時間が合わなくて。コーチがいない時は、私一人で指導してたんです。

それで、監督経験がある 中山 が来てくれる事を聞いて、これで時間が合う 仲間 が

できたと、すっごく喜びましたよ。 】苦労に苦労を重ねていた 和泉 にとって何よりの 吉報

だったに違いない。一方、 中山 は、【 倉敷工で、指導する事になり、プレッシャーが

ありました。 】と言う。それは何故なのか。普通なら、母校で指導できる 喜び というのが

あるはず。なのに 【 プレッシャーがあった 】とは、どういう事なのだろうか。それは、次の事の様

に、思われる。まず1点めは、 笠岡工監督 の時の事。 倉敷工 に完封勝利。

また、甲子園初出場を果たす 岡山城東 に打ち勝って、県大会堂々の ベスト8 入りを

果たした 実績。2点めは、以前より周囲から常に 注目 されていた事。そして、3点めは

【 中山 が、うちに来たから 倉敷工 は必ず3年以内に 甲子園 に行きますよ 】と

倉敷工校長 が、周囲に語っていた事。それらの要因が重なり、プレッシャーを感じていた

のかもしれない。こうして、 倉敷工野球部部長 中山 隆幸。 倉敷工野球部監督

和泉 利典 のコンビ ( 和泉が一学年先輩 )が誕生したのである。そして、この二人のコンビ

で、 甲子園 で 倉敷工旋風 を巻き起こす事になる。しかし、 和泉 と 中山 らの

在学中の 倉敷工野球部 は、 順風満帆 ではなかった。これも、名門校ゆえの事で

あろうか。

つづく  随時掲載

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参 考  山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力  和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」

中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」

西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」