大願成就 己に勝つ野球 12

準決勝 倉敷工VS関西

関西は、チーム打率4割を超え、一試合平均9点を奪う強打のチーム。この関西打線の前に倉敷工エース陶山大介が仁王立ちした。完全に関西打線を抑え込んだ。
腰に不安のある陶山は、試合開始30分前に腰痛を和らげる飲み薬2錠を飲み、患部に高価な湿布薬を貼り、さらに、座薬を入れてマウンドに上がった。
和泉利典監督は、「物事に動じず、淡々と自分のペースを守る。イメージトレーニングは、必要ないぐらいプラス思考。」と抜群のマウンド度胸を褒めた。

85回全国高校野球選手権岡山大会
準決勝
倉敷工 100 010 100 3
関 西 000 000 000 0

倉敷工エース陶山が、関西の強力打線を完封した。
制球がさえ、球速140を超えるストレートと、右打者の外角へのスライダーを生かして、9三振を奪い、被安打2に押さえた。
一回、西野の中前打のあと、牽制悪送球や3四死球を得て
押し出しで先制。
五回は、3安打で1点。
七回は、先頭打者の
陶山が、右翼線2塁打。
一番打者、当たっている西野に
倉工ベンチは、送りバントを命じる。
一死3塁。二番大森へ出したサインは、セーフティースクイズ。大森が、一塁線に見事なスクイズを決め、追加点を奪った。試合巧者らしさを見せる倉敷工。

陶山は、「何も考えてなくて、思いっきり投げたのが良かった。外のスライダーが良かったです。」と話した。
この試合を審判長がバックネット裏で見ていた。試合終了後、中山隆幸部長は、本部室に挨拶と明日の決勝の確認に行った。
そこへ、審判長が本部室に戻って来た。
開口一番。「わしは、びっくりした。こんな圧巻なピッチングは初めてじゃ。」
こうして倉敷工は、決勝戦に進出したのだった。
狙うは、7年ぶり9度目の甲子園。二人のコンビは、ぐっと握り拳に力を入れた

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参考
山陽新聞

毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 11

倉工のエースと言うものは、常に宿命というものを背負っている。
倉工エースの宿命。エースの宿命。それは、何か。
どんなに、肩や肘が痛くても、最後まで投げ切る事。また、序盤にどんなに打ち込まれても、最後までマウンドを守り切る事。
これが、倉工エースの宿命なのである。

昭和42、43年と春夏4季連続甲子園の時のエースで、黄金の左腕と謳われた小山稔投手。最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける小山の力投で倉敷工は春と同じく4強まで勝ち進む。準決勝の相手は、静岡商。
「歯ブラシを口まで持ち上げれなかった。」と。
県下で、ただ一人春夏4回甲子園のマウンドを踏み97イニングを投げ抜いた小山。倉敷工小沢監督に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた小山。小山の、明日なきマウンド。今でも、球場アナウンスが聞こえてくる。
「岡山県代表倉敷工業高等高校。ピッチャーは、小山君。」
(当HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)

昭和49、50年と選抜甲子園に出場した倉敷工。
50年のエースは、剛腕と歌われた兼光保明投手。優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で原辰徳選手を中心とする強打の東海大相模に、0対1で惜敗。この一戦。高熱で、フラフラになりながら、歯を喰いしばり投げ抜いた兼光の姿に小沢監督は感涙。「男の中の男」と賛辞を贈った。
名監督が、甲子園で初めて見せた涙だった。
(当HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)

エースを支えるもの。それは倉工大応援団。しかし、真に支えるものは、別にある。それは、胸にKURASHIKI。背中には倉工のエースナンバー1を付けたユニホームが真に支えるものと思われる。

第85回全国高校野球選手権岡山大会準決勝。
対関西戦。倉工ベンチは、腰に不安が残るエースナンバー1の陶山大介を起用したのだった。陶山の力投に賭ける倉工ベンチ。
時を超えた倉工伝統のエースの継投がそこにある。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 10

腰に不安を抱えている倉工エース陶山大介。
今夏の岡山大会の初戦。ウォーミングアップで遠投している時、突然のぎっくり腰になった。「もう、目の前が真っ黒になりましたよ。それで、病院や整体に何度も連れて行きました。」と中山隆幸部長。また、和泉利典監督は、「備前市の方にいい医者がいると聞いたんで、備前にまで行って電気治療もしまして。もう、こちらも必死でした。」
倉工球史に輝く久々の本格右腕。しかし、故障に泣かされる日々。こうして迎えた対岡山南戦の準々決勝だった。

第85回全国高校野球選手権岡山大会
準々決勝
倉敷工 030 002 101 7
岡山南 004 000 101 6

西野、田中が活躍。
「最大の、ヤマ場だった。」と、和泉監督。
西野の3ランで先制しながら、エース陶山が打ち込まれて逆転される苦しい展開。しかし、終盤の勝負どころできっちりと送りバントを決めて得点を重ね、1点差で逃げ切った。
リードされても動じない精神的な強さを見せる。
6回に逆転。陶山は、12安打を浴びながらも完投。
7番田中が5安打。8番萩原が2安打するなど、打順に関係なく攻撃できる力を見せつけた。
次の準決勝の相手は、昨春の選抜甲子園でベスト4の関西。
チーム打率4割3分5厘。1試合平均9点を叩き出す強打の関西。当然ながら、本格右腕対関西打線となる。倉工エース陶山が、どこまで抑えられるかであろう。
腰に不安を抱える、陶山のデキが倉工の浮沈を握る。

つづく
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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
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大願成就 己に勝つ野球 9

第85回全国高校野球選手権岡山大会
倉敷工の初戦、対古城池戦を前にしてウオーミングアップをしていた倉工ナイン。エース陶山大介は、遠投で準備をしていた。
その時陶山は、突然のギックリ腰になってしまったのだった。
入学時から脚光を浴びた陶山。倉工球史に輝く久々の本格右腕。
夏の甲子園までは茨の道が続く。故障に泣かされ続ける日々。
しかし、倉工ナインは一層の団結力を示した。
「陶山が、帰って来るまでは、絶対に負けられんぞ。頑張るしかないぞ。」主将須田洋光が呼びかけた。

二回戦
倉敷工 521 031 1
古城池 000 000
5回コールド

集中打と小技。12安打11得点で圧勝。
一回、5本の安打に四死球。犠打を絡ませて、一挙5点を先制。
3投手で、無安打に抑える。

三回戦
倉敷工 000 001 010 2
大安寺 000 000 000 0

エース陶山を温存。清水、赤木の両投手の好投と安定した守備力が光る。
これで、ベスト8進出が決定。ここで、倉工野球部は試合に集中するため、選手全員を市内のホテルに宿泊させたのだった。
これは、外部からの連絡や激励、あるいは声などを一切遮断するため。過去、家庭内の問題が気になり一睡もできずに試合に臨んだ選手さえもいた。こうした事を防ぐため、全員をホテルに宿泊させて隔離し、集中して試合に臨んだのである。
準々決勝の相手は、難敵岡山南。
「最大の、ヤマ場です。」と和泉監督。エース陶山の復調が熱望されていた。

つづく
随時掲載

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山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
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大願成就 己に勝つ野球 8

(平成15年)春の県大会ベスト4に入り、甲子園に行ける位置にある倉敷工。エース陶山大介は、誰が見ても県下ナンバー1の投手。
倉工久々の、本格右腕。キレのあるストレートは、球速140を超え右打者の外角低めに決まるスライダーは高速、いや光速スライダー。
そして、勝負どころでは、フォークもある。
「相手に向かって行きます。打てるものなら、打ってみろと。とにかく、自分に勝つ投球をします。」と陶山。一方、主将の須田洋光は、「心の強さは、誰にも負けません。」チームは、監督和泉利典の厳しい指導で、特に内野陣はかたく仕上がった。役者は、揃った。狙うは、7年ぶりの甲子園。
しかし、倉工野球部OB会の支援を受ける一方で、OB会の派閥争いもあったのも事実。実は、部長中山隆幸、監督和泉利典の二人のコンビは、窮地に立たされていたのである。
和泉は、次のように話す。「このチームで、甲子園に行くんだ。絶対に行かなくてはならないと。もし、行けなかったら、監督を辞めさされると思いました。ですから、背水の陣だったんです。そして甲子園で、勝てるチーム作りをしました。」と、和泉。
こうして、迎えた(平成15年)夏の県大会予選だった。
開会式の前、倉敷マスカット球場の周辺は、各チームがそれぞれに選手同士が、談笑していた。そこに、昨年優勝の関西高校が優勝旗を持って来た。すると、選手全員は談笑を止めて、その優勝旗を見つめた。全選手が、優勝旗を狙っている。
こうして、熱戦の火蓋が、切られたのである。
倉敷工の初戦の相手は、古城池。会場は、倉敷マスカット補助球場。
ウオーミングアップをしている時だった。エース陶山は、遠投をして肩を作っていた。ここで、思いもよらぬ事態が発生した。陶山がギックリ腰になってしまったのだ。「もう、目の前が真っ黒になってしまいました。」と中山。エース陶山抜きで戦う事になった倉敷工。甲子園は、絶望となってしまったかに見えた。
しかし、倉工ナインは精神的な弱さを克服していた。ナインは勝利に対する強い心で、古豪復活を狙って行ったのだった。

つづく
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山陽新聞
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(当時の、新聞記事を参考にして一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
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大願成就 己に勝つ野球 7

平成15年5月の事だった。チームに突然のアクシデントが襲った。
正捕手 萩原龍一。走塁練習中に、右手の甲を骨折してしまった。
高校最後の夏をフイにしかけないアクシデントに目の前が真っ黒になった。だが、そこから必死の努力が続く。
朝、晩は煮干しを欠かさず食べ、牛乳も飲めるだけ飲むなど「骨にいいと聞くと、何でもしました。」と萩原。ギブスも早めに外し、ゴムボール握ってリハビリに励んだ。その効果があって一ヶ月で練習に復帰。
「ケガをした事で前向きな姿勢、積極性が養われぐっと成長しました。」と監督和泉利典。
(その萩原は、一番大事な場面で大活躍を見せる事になる。)
ところが、さらなるとんでもないアクシデントがチームを襲った。
しかも、夏の予選の初戦の直前で。それもウオーミングアップの時だった。チームに激震が走った。
「目の前が真っ黒になりました。」と部長中山隆幸。
一体、何が起こったのだろうか。

つづく
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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 6

元倉敷工投手コーチOB永山勝利は、次のように言う。
「試合を見に行って3回で帰ったんです。とにかく、点を取られても悔しさがなく、ヒットを打たれても悔しさがないし集中力もないし。あるのは試合の喜びだけで。」
永山は、球史に残る名勝負に散った負傷のエースの代役投手。
(当HP。カテゴリーの中、昭和36年のドラマを参照して下さい。)
永山は、何年経っても野球に熱いOBである。

【1点の持つ怖さを知れ当HPより】
平成15年3月。日本高校野球連盟は、対外試合を解禁。
倉敷工の練習試合の相手は全く事を欠かない。夏の予選まで予定がびっしりである。いや、チームによっては2年先まで予定が決まっているという。この練習試合において部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、今までなかった事をチームそして選手に要求した。
まず、無死1、2塁のケースを無理やり作ってそこから真剣勝負をすること。
投手は、四球を出してランナー二人を背負うのである。
打者は、2ストライクまで待って「2ストライクから打て」と。
苦しい場面から力を発揮させること。また、苦しい場面からいかに力を発揮できるかということ。そして、メンタル面の強化も図ったのだった。
打者は、「2ストライクまで待て」とは、どういうことか。私が考えるのは、それは、ファーストストライクは、センターに打ち返すためのタイミングを取る練習をする。セカンドストライクは、右打者ならセンターから右方向に打ち返すためのタイミングを取る練習をする。そして、「サードストライクを打て」と。一球一打に賭ける倉工打線。
こういうことではなかろうか。
二人のコンビは、練習試合でこうした苦しい場面を作って強化していったのだった。「甲子園で、勝てるチーム作りをしました。強いチームと練習試合をする事が大事ですが、少し弱いチームとすることも大事なんです。」と監督和泉利典。和泉にとって、「このチームで絶対に甲子園に行くんだ。行かなくてはならない。」と。まさに、背水の陣で望んだ
平成15年の夏だった。

つづく
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山陽新聞
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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 5

平成14年3月。倉敷工は、四国遠征に出た。相手は甲子園常連の高知商業高校。会場は、高知商野球部専用球場。この練習試合で倉工一年生投手が力投を見せる。その一年生投手の名前は陶山大介。「制球と強気」この二つを心に刻み、高知商球場のマウンドに上がった。ストライクを先行させ、どんどん追い込んでボール球を振らせる。跳ねる様なフォームから内外角に伸びのあるストレート。低めを突くスライダー。勝負どころでは、フォークを交える。「あの時、球速が135出ていました。とにかく陶山がいる時に、絶対に甲子園に行くんだ。行かなくてはならないと思いました。」と監督和泉利典。
入学時から、脚光を浴びていた陶山大介。倉工久々の本格右腕。
しかし、夢の甲子園までは、茨の道の厳しい道のりが続く。
故障に泣かされ続けた日々。
平成14年夏。二年生エース陶山の倉敷工。準々決勝岡山東商戦ド迫力の投手戦だったが、延長十回、四球で出たランナーがサヨナラのホームを踏み散る。再起をかけた秋。平成14年秋。岡山南に敗れ選抜出場の道を絶たれる。早々と、甲子園への道を絶たれる倉敷工。
昭和42,43年4季連続甲子園の黄金の左腕小山稔。
(当HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)
昭和50年選抜。防御率0点台で、甲子園に乗り込んだ兼光保明。
(当HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)
この小山、兼光の二人に匹敵するであろう陶山大介。
倉工球史に残る様な、本格右腕を持つ倉敷工。優勝候補と呼ばれながら、なぜ勝ち進めないのか。なぜ勝てないのか。
苦悩の色が隠せない二人のコンビ。
そうした試合を、一人のOBが、バックネット裏から見ていた。しかしそのOBは、3回が終了した時点で、何を思ったのか球場から姿を消してしまった。

つづく
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大願成就 己に勝つ野球 4

 

「山を駆け抜けろ」
倉工野球部に、伝統のトレーニングがある。そのトレーニングとは「山」。山とは、倉敷市街地の美観地区にそびえる鶴形山の事。
そこに、倉敷の総鎮守阿智神社が、鎮座している。鶴形山と阿智神社を合わせて「山」と呼び、倉工野球部が誕生した昭和20年代から続いている地獄のトレーニングである。いや野球部だけでなく、時にはソフトテニス部、サッカー部、ラグビー部等山に行く事があり、みんな一口に山と呼んでいるのである。
阿智神社の石段や坂道を、走りぬく。OBコーチ神土秀樹は次の様に話す。
「山は、特に一年生にとっては地獄ですね。あの山が、いやで野球部を退部して行く者が多くいたんですから。」
私、当HPが、その山を見に行った時の事。部長中山隆幸が全選手を集めて、「しんどいのは、全員なんだ。自分だけではない。(中略)とことん自分を追い込め。自分を追い詰めろ。」と訓示をしていた。中山は、石段を駆け上がるところから始めるよう指示した。「おりゃ」と声を出しながら、石段を駆け上がる選手もいる。駆け上がっては、石段を下り、また駆け上がる。これが何往復も続く。さらに、中山の指導は、これだけではなかった。
次は、石段に坂道を付け加えてのコースを設定。しかも時間を決めて「時間内に、帰って来い。」と。必死に喰らいつく倉工選手。
山は、単に足腰の鍛錬だけでなく、精神面も鍛えるところなのだ。
部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、二人三脚でチームを鍛えて行く。そうした中、一人の一年生投手が浮上して来た。
「山は、楽しいです。と、言うんですから、恐ろしい奴です。」と中山が言えば、和泉は「あいつは、何ごともプラス思考ですから。」
山で培った足腰と強靭な精神力を持って平成14年3月倉敷工は、四国遠征に出た。そこで、その一年生投手は、大器の片鱗を見せることになる。

つづく
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大願成就 己に勝つ野球 3

 「相手よりも、まず、自分の弱さに勝つ事が全て。」
 「自分に勝つ」と言うのは、倉工の選手が揃って口にする言葉である。倉工野球部が、取り組む「心作り」と呼ばれるメンタルトレーニングがある。
 監督和泉利典は、2度目の監督就任の89年以後、強豪として注目される中、甲子園への切符をあと一歩のところで手にできずにいた。
 「どうしたら勝てるか」当時同じ教員住宅に住み、不登校の生徒のカウンセリングを実践していた教員に相談したところ、『メンタルトレーニング』を紹介された。理想のプレーやうまく行っている時の様子などを想像する事で、良いイメージを持って本番に臨めるようになるという。
 深呼吸で、呼吸に集中して、雑念を払った状態で「打てる」「勝てる」といった言葉をつぶやき、自己暗示をかける。また、「誰でもできる事を、誰でもできないくらいにやれ。」と言うのが、和泉の口癖でもある。
 「技術を動かすのは心。いくら素晴らしい能力があっても心が強くなくては、勝てない。」と和泉。
 さらに、和泉は「以前は、選手たちに『できないからやれ』とゲキを飛ばしていたのが、今では『できるからやれ』と言う様になったと話す。選手たち倉工ナインは、勝利に対する強い心で、古豪復活を目指す。

つづく
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