熱闘甲子園 今昔物語 46 栄光の足跡 34

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996
8月8日~821日 出場49チーム
倉敷工90中越(1回戦88)
倉敷工53東筑(2回戦814)
鹿児島実92倉敷工(3回戦818)

【おわりに2最終】
平成8年夏。10年ぶり8回目の甲子園出場。
この年の倉敷工は、どの様な戦力だったのか。その戦力を振り返ってみた。
『戦力分析』
選手層の厚さを誇る倉敷工。県内一、102人の部員のし烈な、レギュラー争い。
倉敷市中心部にある鶴形山でのトレーニング。頂上にある阿智神社の182段を駆け上がり約45時間のランニングが延々と続く。今年の冬はこのトレーニングを週3回こなした。

切れ目のない打線は、評価が高かった。藤原守二の526厘を最高に、県大会のチーム打率343厘を誇った。一試合平均得点は、6.4点と、高い高打率をマークした。

主将の、北条剛が県大会の時、大きなヤマ場だったと話す対玉島商戦。1点差の接戦をものにし、自信をつけた。
玉島商竹内監督は「北条、西川のシャープな打撃。福原の勝負強さにやられた。下位打線も息が抜けなかった。九回裏二死無塁から、決勝点を入れられた時には、精神的強さも感じた。」と話した。

勝敗のカギは、投手陣の活躍にかかっていた。
エース中原俊博の、決め球は直球。約130キロと飛び抜けた速球ではないが、防御率は、1.62。やすやすとは打たれない。中原と実力互角の、笹田和之、高本秀樹。
また、対興譲館戦で1安打に抑えた、諏訪正樹(2)
控え投手は充実していた。
『勉強になりました』
倉敷工野球部部長、中山隆幸のコメント。
「今回の、甲子園出場は、色々な事が勉強になりました。
特に、選抜優勝の鹿実戦ですね。あのスライディングは、厳しかったです。勝つ執念を感じました。この経験は、今後に役立ちます。」

『視線の先』
監督和泉利典、部長中山隆幸の視線の先は、早くも次の甲子園出場を見ていた。

 

 

つづく
随時掲載

 お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 45 栄光の足跡 33

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996
8月8日~821日出場49チーム
倉敷工90中越(1回戦)
倉敷工53東筑(2回戦)
鹿児島実92倉敷工(3回戦ベスト16)

【おわりに1
10
年ぶり8回めの、「夏」。春夏合わせて16回めの甲子園出場を誇り、全国に、その名を轟かせた名門が、久々に檜舞台に、伝統のユニホームが、登場した。
10
年間の、無念さを晴らすかの様に、力を蓄え、岡山大会を勝ち上がった今年のチーム。その復活までの足取りをたどりたい。

『低迷』
ベンチの隅で、大きな背中が震えていた。729日、倉敷マスカット球場。延長12回の死闘の末、岡山城東を下し優勝を決めた、倉敷工監督和泉利典は、OB、コーチらに抱きかかえられ、人目もはばからず泣いた。
もがき、苦しみ抜いて、つかんだ「喜び」。
その姿は、県内屈指の、いや、全国屈指の名門が、復活までに、たどって来た、苦難の道程を表しているように見えた。
昭和50年代に入ると、普通科志向が多くなり、選手が集まりにくくなった。「勝てない」「選手が集まらない」という悪循環。選手気質も変わり、厳しさ一辺倒の指導では、勝てなくなって行った。OB、ファンの期待は、高まるばかりだった。準々決勝あたりまでは、勝ち進むが「あと一歩」で足踏みが続いた。「何が足りないのか。」悩む、和泉に転機が訪れる。
『新体制』
甲子園は、近いようで遠かった。
「華々しい時代を知っているだけに、イライラし通しだった。」
OBで、甲子園出場経験のある、永山勝利は、ファンの声を代弁する。その、永山と同じく、甲子園出場経験のある藤原勝利が、コーチに就いた。さらに、倉敷工時代に、和泉と共に、白球を追った、中山隆幸が部長に。
和泉をサポートする体制が出来上がった。大きな、転機だった。「力のある選手を集め、技術指導で強くする事ばかり考えていた。」と言う和泉に対し、実績のない学校で、監督を務め、「力のない選手を、いかに伸ばすか。」に腐心していた中山の指導は、大いなる刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、OBコーチ。
コンディショニング、メンタル面、さらに、スポーツ栄養学等の指導は、中山。こうして、新体制の「歯車」がガッチリと嚙み始めたのだった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)

岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 44 栄光の足跡 32

第78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996年8月8日~8月21日出場49チーム
優勝 松山商(愛媛) 準優勝 熊本工(熊本)

「よくやった倉敷工」
大会11日め。倉敷工は、今春の選抜の覇者鹿児島実と対戦。鹿児島実の強力打線の勢いを、止めることができず敗退。ベスト8進出はならなかった。しかし、最後まであきらめずに、白球を追い続けた倉敷工ナインに対し、約4万5千人の大観衆から、大きな拍手と大声援が送られた。

【はじめに4最終】
倉工一塁側アルプススタンドは、優勝候補との対戦を見届けようと、最上段までギッシリと埋まった。球場全体を揺らすほどの、大声援でナインを盛り上げた。
「倉敷工敗れてもさわやか」
最後まで白球を追うナインに「大観衆から拍手と大声援」

鹿児島実 011 340 000 9(3回戦)
倉敷工  000 100 001 2
倉敷工投手 諏訪―中原―笹田
本塁打

鹿児島実が、投打の力を、十分に見せつけた。
二回二死で、宮田が左中間に先制二塁打。
三回には、先頭の川田が、左超え三塁打と、田上の左犠飛で加点。
四、五回には、倉敷工の相次ぐミスに乗じて大量点を奪い試合を決めた。
先発の、下窪は打たせて取る投球で、5回を3安打1失点。
継投した鍛冶屋が、九回二死後の3連打による1失点で逃げ切った。
倉敷工は、四回死球の西川が、盗塁とけん制悪送球で三進。
福原が、中前打で返したが、五回以後は、高めのつり球に手を出す場面が多かった。
五回、鹿実の攻撃。無死一三塁の場面で、先発の諏訪に代わり中原が、マウンドに立った。直球が切れ、四回三分の二を投げて、自責点0。エースの意地を見せた。倉敷工、最後の攻撃。
二死から、代打の稲岡、白神、渡辺の3連打で1点を返すが反撃もここまで。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 43 栄光の足跡 31

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996
8月8日~821日出場49チーム
優勝 松山商(愛媛) 準優勝 熊本工(熊本)

大会七日め。2回戦4試合を行い、高松商、横浜、福井商、倉敷工が勝ち、それぞれ3回戦に進んだ。
1試合では、高松商が93で浦和学院に快勝。
2試合の横浜対北嵯峨は、横浜が八回に逆転し、31で接戦を制す。
3試合は、福井商が八頭の3投手に18安打を浴びせ、圧勝した。

【はじめに3

「倉敷工『浜風』の中輝く笑顔」
「風が倉敷工に味方した」
「好機ガッチリ倉敷工」

倉敷工は中盤以後、東筑の石田投手の丁重に低めに突く投球にてこずっていた。スコアーボードに「0」が並ぶ。
五回には、33の同点に追いつかれる。倉敷工ナインは、粘り強く守って、耐えていくしかなかった。
八回に試合が動いた。一死から坪井が摘出で出塁。
四番福原が、右打席に立つ。5球めの直球をとらえた。
風は、バックスクリーンから本塁へ向かう『浜風』。
打球は風に流されて、突っ込んで来た右翼手内田のグラブの下をくぐった。坪井が、一塁から本塁に駆け込み勝ち超した。

倉敷工 111 000 020 5(2回戦)
東 筑 000 210 000 3
倉敷工投手 中原
本塁打

倉敷工は八回、適失で出塁した坪井を福原が右三塁打で返して勝ち越した。福原も藤原二の犠打で帰り、この回2点を加える。エース中原は、中盤から球の球威が失われていた。東筑打線は、中原のカーブを狙い打ちして、内田の二塁打を含む4連打で2点。五回にも1点を取って同点とする。中原―福原のバッテリーは、六回から配球を替えた。
東筑打線は六回以後、中原のコーナーに決まる直球を打ちあぐねた。
両チームとも、ヒットエンドランを多用するなど機動力を生かし、守備でも動きがいいプレーが目立った好試合。ただ、東筑は失策が3つあり、2つを得点に結びつけられたのが、悔やまれる。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 42 栄光の足跡 30

78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏) 

【概要】
1996
8月8日~821日出場49チーム
優勝 松山商(愛媛) 準優勝 熊本工(熊本)
大会の、参加校数が4089校で、前年から9校少なかった。
戦後初めての減少で、少子化やスポーツの多様化などの影響が出て来た。

【はじめに2
「燃え立つスタンド」
「帰って来た夏舞台」
「倉敷工28年ぶり校歌」

純白地に、エンジ色ラインの、伝統のユニホームが、ダイヤモンドを、駆けまわった。好投あり、連打あり、持ち味を存分に見せつけた古豪が、28年ぶりに夏校歌を銀さんに響かせた。投打が、これ以上ないほどがっちりと噛み合った完勝に、監督和泉利典は、「選手が、私の指示以上にやってくれた。」と表情をほころばせた。

倉敷工 010 014 030 9(1回戦)
中 越 000 000 000 0
倉敷工 投手 中原
本塁打

倉敷工が、投打とも安定した力を見せ、中越に付け入るスキを与えなかった。二回、白神の適時二塁打で、1点を先制し、五回にも福原の適時二塁打で加点。六回には中原のスクイズ、西川の2点三塁打。福原の中前適時打で、4点を加えた。さらに八回、中越の三番手投手から3点を奪い試合を一方的にした。
エース中原は、コーナーを突く変化球を武器に、12奪三振、4安打で、中越打線を完封した。
中越は、四投手の継投で目先を変えようとしたが、倉敷工打線に掴まった。
2
回戦の相手は、エースで3番打者、石田を中心とし、基本に忠実な野球をする東筑(福岡)だった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」

()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 41 栄光の足跡 29

第78回全国高校野球選手権大会(平成8年夏)

【概要】
1996年8月8日~8月21日出場49チーム
優勝 松山商(愛媛) 準優勝 熊本工(熊本)

松山商が、熊本工を決勝で破り、27年ぶり5度めの優勝を果たした。
決勝を印象深くしたのは、10回表、松山商の右翼手矢野の好返球だった。
9回に同点にされた松山商は、10回も、一死満塁の大ピンチ。熊本工本多の打球は守備固めで入ったばかりの、矢野への大飛球。
タッチアップで、サヨナラと思いきや、矢野が80mをノーバウンドで返球。本塁で、タッチアウトにする。
11回、松山商は、矢野の二塁打の足掛りから、星加のスクイズで、勝ち超した。

【はじめに】
岡山県大会決勝は、第1(城東)、第2(倉敷工)シードが激突する。
春の県大会決勝で、7対5。8校選抜で、9対8と、いずれも岡山城東が制している。岡山城東は、4試合で45点。1番山上からの打線には、切れ目がない。大会のチーム打率は4割2分4厘。一方、倉敷工は、エース中原が、3試合を完投し、防御率1.00。1番北条、2番西川が、出塁し、足を絡め福原、藤原らの長打で、一気に畳み掛ける。

【あの感動ふたたび】
倉敷工10年ぶり夏つかむ延長12回熱闘打ち勝つセンバツ4強の城東下す。(山陽新聞H8、7,30)

倉敷工 100 030 200 002 8
城 東 011 103 000 000 6(延長12回)

4番福原の執念の決勝打が、右翼線を抜けた。6対6で迎えた延長12回表、一死二塁。生還した西川は本塁で、力強くガッツポーズ。投打に集中力を発揮した倉敷工が、10年ぶり8度めの、夏の甲子園切符を、手中にした。

試合終了後、ベンチから出て来た、監督の和泉利典は、3塁側倉工大応援団スタンドに歩み寄って、帽子を取り深々と頭を下げた。スタンドからは、「和泉」「イズミ」の大コール。
ベンチに戻った和泉は、OBコーチらに抱きかかえられ大号泣で泣き崩れたのだった。
多くの、関係者から、「倉工が、甲子園に出場する事より以上に」
『和泉のために、良かった。』『和泉にとって良かった。』
『和泉、おめでとう。』の、声が、多く寄せられたのだった。
炎の闘志で、一丸の勝利を飾った、平成8年県大会。球史に残る激闘の、岡山城東との決勝。序盤の失点にも倉工ベンチは、エースを完投させた。ナインは、エースを励まし続け、エースは終盤から、本領を発揮し、10年ぶりの甲子園を勝ち取る。
倉工野球の意気と誇りと苦闘の日々の団結は、しっかりと息づいていた。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 40 栄光の足跡 28

68回全国高校野球選手権大会(昭和61年夏)

【概要】
1986
8月8日~821日出場49チーム
優勝 天理(奈良)、準優勝 松山商(愛媛)

深紅の優勝旗は、生駒山を超えて、初めて大和路に翻った。
混戦から勝ち上がった、天理と松山商が、決勝で対決。
松山商が一回に1点を先行したが、天理は、四回に逆転。
六回にも1点を加え、松山商の反撃を1点に抑えて優勝を遂げた。

【はじめに】
小沢監督が勇退した後、倉敷工監督に、当時コーチだった脇田監督が就任。その後、大学を卒業したての、若き指揮官吉田監督。そして、沢原監督、和泉監督と変わっていきOBの塩田富士夫を監督に、コーチには同じくOBの金田文秀を迎えた倉敷工。短期間で、監督が代わった倉敷工。

これも、名門校ゆえの監督交代劇なのであろう。
迎えた、昭和61年。春の地区予選を勝ち、県大会を前にこの時の監督だった和泉から塩田へ、バトンタッチした。

塩田監督は、早速、春の県大会を制し、中国大会に出場。
その中国地区大会でも優勝を飾る。「短期間で塩田監督、金田コーチが、よくチームをまとめた。」と、小沢元監督が絶賛。その原動力は、身長168cmのエース左腕石井厚志と捕手で、4番打者の水本勝巳(後に、広島カープ入り)
エース左腕は、抜群のコントロールと、切れのあるカーブが武器。2年生の時、47イニング無失点記録を樹立。
石井は、元々外野手だった。当時、これという投手がいなく、たまたま、監督の和泉が、打撃投手に指名した。すると鋭いカーブに注目。右打者の膝下へのカーブ。「これは
いける。」と読んだ和泉がエースに育て上げたのだった。

昭和61年夏の県予選決勝。岡山県営球場。相手は、岡山南。
岡山南のエース加百投手を、打ち込んで、実に18年ぶり7回めの甲子園出場を、勝ち取る。

秋田工 201 003 131 11(1回戦)
倉敷工 000 010 000 1
倉敷工 投手 石井→宮田
倉敷工 本塁打

倉工の完敗。塩田監督は、投手の替え時を見失った。
エース石井は、球が走らず、身上のコントロールが乱れ、与えた四死球は8。秋田工に、本塁打1、二塁打3を含む14安打を許す。一方、倉工は三塁打1、二塁打1を含む5安打。秋田工、長身の川辺投手に、押さえ込まれた。
こうした中、倉工の三塁手小田が、三塁打を放つ。
小田は、甲子園から帰ってから、ラグビー部に転向。
倉工ラグビー部は、この年花園に出場。小田は甲子園と花園の2つの土を踏んだのだった。

硬式野球部 ~卒業アルバムより~

この写真撮影後、花園出場を決めることになったラグビー部 ~卒業アルバムより~

18年ぶり甲子園出場を報じる新聞各社

壮行式 生徒を代表し激励する小室生徒会長

壮行式 応援団

壮行式 全校生徒の激励を受け甲子園へ

硬式野球部 甲子園へ向けて出発

つづく
随時掲載 

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 39 栄光の足跡 27

47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975
328日~46日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝東海大相模(神奈川)

倉敷工 1615 中京(開幕試合)
東海大相模 10 倉敷工(2回戦)

【おわりに2/2
母校の監督になり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨。
最後の甲子園は、この昭和50年の選抜。剛腕、兼光を擁し優勝候補の呼び声が、高かったが、2回戦で東海大相模に、0対1で、惜敗。この一戦、高熱でフラフラになりながら、歯を喰いしばり、投げ抜いた兼光の姿に小沢は、感涙。
「男の中の男」と、賛辞を贈った。
希代の名監督が、甲子園で見せた涙。号泣する、福島の姿に戸惑った無欲の、昭和24年初出場から、四半世紀が過ぎていた。

「兼光が、高熱を出して倒れた彼が、強打の東海大の打線を、あれだけ押さえて、10という好ゲームになった、彼の頑張り、彼の精神的な強さ。私は、監督をしていて、本当に良かったなと。兼光がベストのコンディションでやったんならともかく。この様な悪条件の中でこういうピッチングができるという、こういう野球人、そういう高校野球だったと。私は、称えたかったんです。」

『名将小沢馨、最後の甲子園。主将大倉、捕手大本らの選手たちは最高のゲームを師に、捧げた。』

倉敷が生んだ、希代の野球人小沢馨。
小倉北、福島投手の涙に戸惑った、昭和24年最初の甲子園。
名将と言われた小沢も、福島投手が2度まで手にした優勝旗には、ついに届かず。そういう意味では、福島以上に悲運の人だった。しかし、最後の甲子園で、兼光らが小沢に見せた姿は、野球をこよなく愛する少年たちの、あこがれの、的にもなった事だろう。

「このボールで遊ぶというか。戯れるというか。これしかなかったんです。ですから、何としてもボール遊びがしたいと。それがチームに入り、ボール拾いから始まって一ランク一ランク上がって、野球のお陰で健康にもなれたし。
野球によって、一段一段自分を高めて行けたと思います。」

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 38 栄光の足跡 26

47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975
328日~46日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝 東海大相模(神奈川)

東海大相模1―0倉敷工(2回戦)
倉敷工   000 000 000 0
東海大相模 000 010 00X 1

倉敷工兼光、東海大相模村中。両投手の迫力溢れる投手戦。
九回表、倉工の攻撃。二死ランナーなし。打席には兼光。
『バット一閃』打球は、右中間寄りにセンターの頭上を越える。
大歓声の中、兼光は二塁を回ったところでふら付く。そして三塁へヘッドスライディング。大歓声はさらに大きくなる。
二死ランナー3塁。しかし、後続が倒れ試合終了。
この一戦、高熱でフラフラになりながら、歯を喰いしばり投げ抜いた兼光の姿に小沢監督は感涙。
「男の中の男」と賛辞を贈った。

【おわりに1/2
多くの高校野球ファン、倉敷市民、そして倉敷工大応援団。
倉工エース兼光保明。私たちの胸を熱くする、死力のマウンド。
そして、全力を使い果たした、大三塁打。そのエネルギーとは。
「そのエネルギーと言うのは、やっぱり小沢さんから貰ったエネルギーでしょうね。この信頼というか。これは何としても、守らないといけないと。善戦とかというんじゃなく。
自分の中では、理論でもなく。とにかく勝つと。気迫というんですかね。この一戦だけというか。絶対に負けられないというものが、ありましたね。」
新聞に『倉敷工、1点に泣く』『最終回の反撃実らず』と出た。
試合終了と同時に、最後の打者に歩み寄った兼光は、そっと肩を抱き締め、何かを諭すように、何事かをささやいたのだった。
「最後は、やっぱりこれは、小沢さんが教えてくれた事だと思います。」「小沢さんは、僕ら以上の苦しみだと思うんです。
だから、それを責めると言うのはね。すごい責任感の強い男でしたから。」
新聞に『最終回、あと一打が出ず』『逆転の夢つぶれる』と、出た。そして、『小沢監督、よくやったと涙』と出た。
小沢は、「こらえるものを、こらえきれなかった。」という。
それが、足かけ25年間で、15回も足を運んだという甲子園球場。小沢が、初めて落とす涙だった。その涙の理由とは、いったい何だったのだろうか。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」

()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 37 栄光の足跡 25

第47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975年3月28日~4月6日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝 東海大相模(神奈川)

【はじめに】
2回戦の相手は、強打の東海大相模。事実上の決勝戦とも言われた。東海大相模には、3番原辰徳(現巨人監督)、4番津末英明(日本ハム-巨人現東京国際大コーチ)らがいた。エース左腕村中秀人(東海大―プリンスホテル 東海大相模、甲府監督)は、快速球に縦に鋭く曲がり落ちるカーブが持ち味。人気絶頂の東海大相模。

小沢監督は、大差の敗北を覚悟でエース兼光を先発させる。
「あの程度の投手なら、5,6点は楽に取れる。」相手ベンチからは、余裕の笑みがーー。もはや、自負を失いかける小沢監督。

しかし、目の先に信じられない光景が展開される。兼光の身体から、得体の知れない何かが満ち溢れている。
「いや、それは幻じゃあない。」次の瞬間、剛球投手である証明が。「バシー」捕手大本のミットに剛球が吸い込まれる。
心身共に衰弱しているはずの、兼光がついにその本領を発揮しているのだ。胸を熱くする、兼光の死力のマウンド。

東海大相模1―0倉敷工(2回戦)
倉敷工   000 000 000 0
東海大相模 000 010 00X 1

倉敷工 兼光、東海大相模 村中。両投手の迫力溢れる大投手戦となった。奪った三振は、お互い6。東海大相模五回の攻撃。
ランナー一人を置いて、左打席に村中。村中の一打は、右中間。
あらかじめ、右中間寄りに守っていた、センター大倉。懸命に背走。だが、打球は大倉のグラブをわずかにかすめた。
(球がグラブの先をこすった)倉敷工のわずかな連携のスキをついて、村中は三塁へ。(記録は二塁打)この1点が決勝点となった。倉工打線は、村中の縦のカーブにてこずった。
心身共に衰弱しているはずの兼光の、死力のマウンド。
そのエネルギーはどこから、来ているのだろうか?
そして、小沢監督の目には、光る物がーー。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会