大願成就 己に勝つ野球 8

(平成15年)春の県大会ベスト4に入り、甲子園に行ける位置にある倉敷工。エース陶山大介は、誰が見ても県下ナンバー1の投手。
倉工久々の、本格右腕。キレのあるストレートは、球速140を超え右打者の外角低めに決まるスライダーは高速、いや光速スライダー。
そして、勝負どころでは、フォークもある。
「相手に向かって行きます。打てるものなら、打ってみろと。とにかく、自分に勝つ投球をします。」と陶山。一方、主将の須田洋光は、「心の強さは、誰にも負けません。」チームは、監督和泉利典の厳しい指導で、特に内野陣はかたく仕上がった。役者は、揃った。狙うは、7年ぶりの甲子園。
しかし、倉工野球部OB会の支援を受ける一方で、OB会の派閥争いもあったのも事実。実は、部長中山隆幸、監督和泉利典の二人のコンビは、窮地に立たされていたのである。
和泉は、次のように話す。「このチームで、甲子園に行くんだ。絶対に行かなくてはならないと。もし、行けなかったら、監督を辞めさされると思いました。ですから、背水の陣だったんです。そして甲子園で、勝てるチーム作りをしました。」と、和泉。
こうして、迎えた(平成15年)夏の県大会予選だった。
開会式の前、倉敷マスカット球場の周辺は、各チームがそれぞれに選手同士が、談笑していた。そこに、昨年優勝の関西高校が優勝旗を持って来た。すると、選手全員は談笑を止めて、その優勝旗を見つめた。全選手が、優勝旗を狙っている。
こうして、熱戦の火蓋が、切られたのである。
倉敷工の初戦の相手は、古城池。会場は、倉敷マスカット補助球場。
ウオーミングアップをしている時だった。エース陶山は、遠投をして肩を作っていた。ここで、思いもよらぬ事態が発生した。陶山がギックリ腰になってしまったのだ。「もう、目の前が真っ黒になってしまいました。」と中山。エース陶山抜きで戦う事になった倉敷工。甲子園は、絶望となってしまったかに見えた。
しかし、倉工ナインは精神的な弱さを克服していた。ナインは勝利に対する強い心で、古豪復活を狙って行ったのだった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

祝 オリンピック競泳リレー代表決定 増田葵選手

母校倉工出身の増田葵選手(菅公学生服)が、東京オリンピックの競泳女子800メートルリレーのメンバーに決定しました。
増田選手は、倉工ファッション技術科を平成27年3月に卒業後、近畿大学に進学、現在は菅公学生服に所属し活躍しています。
山陽新聞の報道では、競泳のオリンピック代表入りは、岡山勢女子では1964年東京オリンピックに出場した木原光知子さん以来57年ぶりの快挙です。
東京オリンピックでの増田選手の活躍を同窓生一同お祈りします。

増田葵選手の代表決定を報じる山陽新聞digital

増田葵選手が3位入賞した日本選手権女子200m自由形決勝

公益財団法人日本水泳連盟ホームページ

大願成就 己に勝つ野球 7

平成15年5月の事だった。チームに突然のアクシデントが襲った。
正捕手 萩原龍一。走塁練習中に、右手の甲を骨折してしまった。
高校最後の夏をフイにしかけないアクシデントに目の前が真っ黒になった。だが、そこから必死の努力が続く。
朝、晩は煮干しを欠かさず食べ、牛乳も飲めるだけ飲むなど「骨にいいと聞くと、何でもしました。」と萩原。ギブスも早めに外し、ゴムボール握ってリハビリに励んだ。その効果があって一ヶ月で練習に復帰。
「ケガをした事で前向きな姿勢、積極性が養われぐっと成長しました。」と監督和泉利典。
(その萩原は、一番大事な場面で大活躍を見せる事になる。)
ところが、さらなるとんでもないアクシデントがチームを襲った。
しかも、夏の予選の初戦の直前で。それもウオーミングアップの時だった。チームに激震が走った。
「目の前が真っ黒になりました。」と部長中山隆幸。
一体、何が起こったのだろうか。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 6

元倉敷工投手コーチOB永山勝利は、次のように言う。
「試合を見に行って3回で帰ったんです。とにかく、点を取られても悔しさがなく、ヒットを打たれても悔しさがないし集中力もないし。あるのは試合の喜びだけで。」
永山は、球史に残る名勝負に散った負傷のエースの代役投手。
(当HP。カテゴリーの中、昭和36年のドラマを参照して下さい。)
永山は、何年経っても野球に熱いOBである。

【1点の持つ怖さを知れ当HPより】
平成15年3月。日本高校野球連盟は、対外試合を解禁。
倉敷工の練習試合の相手は全く事を欠かない。夏の予選まで予定がびっしりである。いや、チームによっては2年先まで予定が決まっているという。この練習試合において部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、今までなかった事をチームそして選手に要求した。
まず、無死1、2塁のケースを無理やり作ってそこから真剣勝負をすること。
投手は、四球を出してランナー二人を背負うのである。
打者は、2ストライクまで待って「2ストライクから打て」と。
苦しい場面から力を発揮させること。また、苦しい場面からいかに力を発揮できるかということ。そして、メンタル面の強化も図ったのだった。
打者は、「2ストライクまで待て」とは、どういうことか。私が考えるのは、それは、ファーストストライクは、センターに打ち返すためのタイミングを取る練習をする。セカンドストライクは、右打者ならセンターから右方向に打ち返すためのタイミングを取る練習をする。そして、「サードストライクを打て」と。一球一打に賭ける倉工打線。
こういうことではなかろうか。
二人のコンビは、練習試合でこうした苦しい場面を作って強化していったのだった。「甲子園で、勝てるチーム作りをしました。強いチームと練習試合をする事が大事ですが、少し弱いチームとすることも大事なんです。」と監督和泉利典。和泉にとって、「このチームで絶対に甲子園に行くんだ。行かなくてはならない。」と。まさに、背水の陣で望んだ
平成15年の夏だった。

つづく
随時掲載

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山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 5

平成14年3月。倉敷工は、四国遠征に出た。相手は甲子園常連の高知商業高校。会場は、高知商野球部専用球場。この練習試合で倉工一年生投手が力投を見せる。その一年生投手の名前は陶山大介。「制球と強気」この二つを心に刻み、高知商球場のマウンドに上がった。ストライクを先行させ、どんどん追い込んでボール球を振らせる。跳ねる様なフォームから内外角に伸びのあるストレート。低めを突くスライダー。勝負どころでは、フォークを交える。「あの時、球速が135出ていました。とにかく陶山がいる時に、絶対に甲子園に行くんだ。行かなくてはならないと思いました。」と監督和泉利典。
入学時から、脚光を浴びていた陶山大介。倉工久々の本格右腕。
しかし、夢の甲子園までは、茨の道の厳しい道のりが続く。
故障に泣かされ続けた日々。
平成14年夏。二年生エース陶山の倉敷工。準々決勝岡山東商戦ド迫力の投手戦だったが、延長十回、四球で出たランナーがサヨナラのホームを踏み散る。再起をかけた秋。平成14年秋。岡山南に敗れ選抜出場の道を絶たれる。早々と、甲子園への道を絶たれる倉敷工。
昭和42,43年4季連続甲子園の黄金の左腕小山稔。
(当HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)
昭和50年選抜。防御率0点台で、甲子園に乗り込んだ兼光保明。
(当HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)
この小山、兼光の二人に匹敵するであろう陶山大介。
倉工球史に残る様な、本格右腕を持つ倉敷工。優勝候補と呼ばれながら、なぜ勝ち進めないのか。なぜ勝てないのか。
苦悩の色が隠せない二人のコンビ。
そうした試合を、一人のOBが、バックネット裏から見ていた。しかしそのOBは、3回が終了した時点で、何を思ったのか球場から姿を消してしまった。

つづく
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山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 4

 

「山を駆け抜けろ」
倉工野球部に、伝統のトレーニングがある。そのトレーニングとは「山」。山とは、倉敷市街地の美観地区にそびえる鶴形山の事。
そこに、倉敷の総鎮守阿智神社が、鎮座している。鶴形山と阿智神社を合わせて「山」と呼び、倉工野球部が誕生した昭和20年代から続いている地獄のトレーニングである。いや野球部だけでなく、時にはソフトテニス部、サッカー部、ラグビー部等山に行く事があり、みんな一口に山と呼んでいるのである。
阿智神社の石段や坂道を、走りぬく。OBコーチ神土秀樹は次の様に話す。
「山は、特に一年生にとっては地獄ですね。あの山が、いやで野球部を退部して行く者が多くいたんですから。」
私、当HPが、その山を見に行った時の事。部長中山隆幸が全選手を集めて、「しんどいのは、全員なんだ。自分だけではない。(中略)とことん自分を追い込め。自分を追い詰めろ。」と訓示をしていた。中山は、石段を駆け上がるところから始めるよう指示した。「おりゃ」と声を出しながら、石段を駆け上がる選手もいる。駆け上がっては、石段を下り、また駆け上がる。これが何往復も続く。さらに、中山の指導は、これだけではなかった。
次は、石段に坂道を付け加えてのコースを設定。しかも時間を決めて「時間内に、帰って来い。」と。必死に喰らいつく倉工選手。
山は、単に足腰の鍛錬だけでなく、精神面も鍛えるところなのだ。
部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、二人三脚でチームを鍛えて行く。そうした中、一人の一年生投手が浮上して来た。
「山は、楽しいです。と、言うんですから、恐ろしい奴です。」と中山が言えば、和泉は「あいつは、何ごともプラス思考ですから。」
山で培った足腰と強靭な精神力を持って平成14年3月倉敷工は、四国遠征に出た。そこで、その一年生投手は、大器の片鱗を見せることになる。

つづく
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大願成就 己に勝つ野球 3

 「相手よりも、まず、自分の弱さに勝つ事が全て。」
 「自分に勝つ」と言うのは、倉工の選手が揃って口にする言葉である。倉工野球部が、取り組む「心作り」と呼ばれるメンタルトレーニングがある。
 監督和泉利典は、2度目の監督就任の89年以後、強豪として注目される中、甲子園への切符をあと一歩のところで手にできずにいた。
 「どうしたら勝てるか」当時同じ教員住宅に住み、不登校の生徒のカウンセリングを実践していた教員に相談したところ、『メンタルトレーニング』を紹介された。理想のプレーやうまく行っている時の様子などを想像する事で、良いイメージを持って本番に臨めるようになるという。
 深呼吸で、呼吸に集中して、雑念を払った状態で「打てる」「勝てる」といった言葉をつぶやき、自己暗示をかける。また、「誰でもできる事を、誰でもできないくらいにやれ。」と言うのが、和泉の口癖でもある。
 「技術を動かすのは心。いくら素晴らしい能力があっても心が強くなくては、勝てない。」と和泉。
 さらに、和泉は「以前は、選手たちに『できないからやれ』とゲキを飛ばしていたのが、今では『できるからやれ』と言う様になったと話す。選手たち倉工ナインは、勝利に対する強い心で、古豪復活を目指す。

つづく
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大願成就 己に勝つ野球 2

平成13年4月。倉工野球部に、将来性豊かな有望選手が多数入部して来た。
その一年生たちの、意識は高く全員が、「倉工で、甲子園に行くんだ。」という目標を持っての入学だったという。そうした中に、一年生渡部和博がいた。渡部は、不治の病に苦しむ親友の元を訪れた。白血病だった。
そして親友に誓った。「絶対に甲子園に行くから。そして、お前を必ず甲子園に連れて行ってやるから、早く良くなってくれよ。」
それ以後渡部は、ことある事に『オレたちは、絶対に甲子園に行くんじゃ。』とチームメイトに訴え続けたのだった。
さらに、渡部は授業が終わって、自転車で練習グランドに向かう時、顔の表情が一変。非常に厳しい顔つきになったという。
(渡部は、倉工卒業後、明治大を経て社会人野球住友金属鹿島で長く野球を続けた。)
倉敷工監督和泉利典は、「選手の動きを見ていると、手応えを感じましたね。このチームで、絶対に甲子園に行くんだ。行かなければならないと。いうならば、背水の陣だったでしょうか。」
しかし、倉工は、順風満帆には程遠く、夢の甲子園までは茨の厳しい道が待っていた。

つづく
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神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
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大願成就 己に勝つ野球 1

夏の全国高校野球選手権大会は、幾多のドラマを生んで来た。
そして、人々の記憶に深く刻まれる熱闘は、時代ごとに生まれた。
こうした中、第85回大会に出場した倉敷工。対駒大苫小牧との熱戦は、深く人々の記憶に残っている事だろう。
この試合は、「倉工のベストゲーム」と言われ、強烈な印象を残し、高校野球ファンの心に刻まれている。
2003年第85回大会一回戦

倉敷工   0000
駒大苫小牧 0710
ノーゲーム

倉敷工   012 101 000 5
駒大苫小牧 002 000 000 2

四回途中で、0対8。大差を付けられていた倉敷工に天が味方した。台風接近に伴う激しい雨で、10年ぶりのノーゲーム。
翌日の、仕切り直しは、二回の先制後、小刻みに加点し、5対2で初戦突破した。卒業後、社会人野球JFE西日本で活躍したエース陶山大介が、鋭い高速スライダーで強力打線に立ち向かい、被安打6 奪三振9の好投。前日とは別人のようなできに「立ち直りが凄い」と多くの高校野球ファンは言う。
2回戦も突破し、35年ぶりの8強まであと1勝に迫る躍進だった。
一方、全盛期を築いた駒大苫小牧にとっても語り草となるゲームだったといえよう。この時の野球部長は、後の倉工監督中山隆幸。監督は、ベテランの域にかかった和泉利典。
当、HPは、第85回大会に甲子園出場した倉工チームを振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 29 最終回

第81回選抜高校野球大会 大会初日第一試合

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11
平成21年(2009)3月21日
第81回選抜に出場した倉敷工。
試合は、リニューアルされた甲子園の開会式直後で、異様な興奮が、生き物の様に球場全体を覆う中で始まった。
両チームは、お互いに、1回から激しく点を取り合うサバイバルな試合を展開。
積極果敢な攻めと粘り強い守りで、先行する金光大阪に、倉工が、喰らいつく。
「諦めるな。どんな事があっても、諦めるな。」ベンチの倉敷工中山隆幸監督のゲキが、聞こえて来るような熱戦。結局、延長12回劇的なサヨナラ勝ちを、決めたのだった。その、試合直後の事。


倉敷工業高校の事務室に、1本の電話が入った。電話の主は卒業生でもなく、倉工関係者でもなく、全く面識のない人からだった。
その人は、ガン患者だった。
選抜での倉工の決して諦めない逆転劇を見て感動。
「病気と戦う勇気を、貰った。」という。
「どうか、中山監督をはじめ、選手の皆さんや、関係者の皆様に、どうぞよろしくお伝え下さい。」と、ていねいな、言葉を残して、電話を切ったという。
一方、中山監督にも、別のガン患者から、同様な、お礼の言葉が寄せられたのだった。
「思い切り振り切れ。」春の選抜で、鮮やかなサヨナラを生んだ「あの一球」には、中山監督と、球児たちの熱い信頼の物語が、秘められていたのだ。
オフの長く、地味な打撃練習が、春の光の中で鮮やかに、花を咲かせたといえよう。
にわか仕込みの、甲子園戦法より、平素から培った、自己能力の、認識が重要なのだ。
倉工は、晴れの舞台センバツでその事を、鮮明に見せた。
新化を続けた倉工が、ドキドキする感動ドラマを、また伝えてくれた。

おわり

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神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
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