風雲の軌跡 初陣倉敷工 7
小沢 馨物語
三連覇の夢破れて、うなだれる小倉北ナイン。ナインは、その日のうちに夜汽車で
郷里、福岡へと帰って行った。どのぐらい走ったことだろう。泣き疲れて寝込んで
いた、 福島 は、電車の揺れで目をさましたのだった。ここは何処だろうと、外を
見た。見覚えのない町明灯かり。ところが、ホームの看板を目にした時、また悔し
涙が、出てきたのだった。そこは、イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる町、倉敷
だったのである。自宅に戻った 福島 に、翌日速達が届いた。大会副審判長
長浜 俊三 からだった。【 この甲子園で学んだものは、学校教育では学べ
ないものだ。君のポケットに入った、その土には、それが全てが詰まっている。
それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい、 】と、書かれてあった。
ポケットの 土 の事などいっさい覚えていない 福島 は、慌ててバックの中に
入れたままにしている、汗まみれのユニホームを取り出し、新聞紙を広げ、ズボン
の後のポケットをひっくり返すと、ほんの一さじほどの土が出てきた。 福島 は、母
と相談して、玄関に置いてある ゴムの木の植木鉢 に入れた。この甲子園の
土は、その後の 福島 の心の糧となり 福島 の心を支えたのだった。
甲子園の土を持ち帰った球児は、実は過去にも存在していたのだが、この
エピソードが有名になり、 福島 は、「 甲子園の土を最初に持ち帰った球児 」
と、言われるようになっている。しかし、 福島 は、敗れた球児が甲子園の土
を、持ち帰るという行為を、次のように考えている。『 土産品ではないのだから、
それより、甲子園を目指した努力を、大切にしてほしい。 』と、語っている。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
風雲の軌跡 初陣倉敷工 6
監督 小沢 馨物語
第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝 第4試合
小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7 ( 延長10回 )
「 何が何だかわからない内に、試合が終わったんです。終わってみたら、勝って
いたんです。 」と、小沢。そして、小沢は次の様に語る。
「 悪い事をした。と思いました。あの時ほど、悪い事をしたと思った事はないです。
小倉に、申し訳ない。 」 試合終了後、ホームプレートを挟んで、お互いが
挨拶をする時、「 ありがとうございました 」が、「 どうもすみませんでした。 」の
心境だったという。夢 破れてうなだれる、小倉北ナイン。試合後の挨拶を交わした
後、小倉北 福島 一雄 投手は、マウンドに戻って、センタースコアーボードを
仰ぎ見て、無意識のうちに、一握りの土をつかみ、尻ポケットに入れたのだった。
小沢は、「 何をやってるんだろう。 」と思ったという。また、その光景を、ある
大会役員が見ていた。その後、福島は、狭い通路で人目を気にせず、肩を
震わせ、泣きじゃくるのだった。小沢は、この時福島に帽子を取り、「 すまなかった 」
と一言言って、その場を立ち去ったのだった。勝った小沢の心を占めたのは、
勝利の余韻でなく、相手福島の姿だった。小沢はこの時初めて、【 常勝チーム
のエースとして、マウンドを守り続けた福島の、プライドと、甲子園に掛ける夢の
大きさを、知ったのである。 】 無欲であるがゆえ、小沢は詫び、無欲であるが
ゆえ、小沢は勝った。昭和24年8月18日、山陽新聞に、『 倉工殊勲の健棒
小倉の三連覇を阻む 』と出た。小倉北ナインは、この日のうちに、夜汽車で
郷里、福岡へと帰って行った。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
風雲の軌跡 初陣倉敷工 5
監督 小沢 馨物語
実力以上の力を引き出す無欲。先を見て足元をすくわれる欲。
昭和24年夏、甲子園初出場を果たした倉工ほど、微妙な勝負のあやを体験
したチームはない。
第31回全国高校野球選手権大会。8月17日 準々決勝。夕暮れの迫る
第4試合。相手は、中京商 以来の3連覇を目指す 小倉北。春夏通算16勝
を挙げた好投手 福島 一雄 を擁し、洗練された野球をするチーム。知名度
は、雲泥の差。高く分厚い壁。 小倉北 4年連続5回めの出場。
小倉北 ( 福岡 ) 対 倉敷工 ( 東中国 )
「 私どもは、勝とうなんて全く思った事はなく、9分9厘とか一厘の望みだとか
世の中には、あるかも知れませんが、その一厘でさえ認められない、10が10
小倉の勝ち。と言う戦前の予想だったんです。 」と、小沢。捕手の
藤沢 新六 は 「 勝てる。と言うのは全くなくて、一生懸命やるだけだなあ。
と、私は思っていました。 」と。スタンドを埋めたファンも、倉工の勝利より
善戦を期待していた。倉工ナインも 「 勝てるわけない 」と荷物をまとめて
宿舎を出発。負けたら、道頓堀川あたりを観光して、帰るつもりだった。
だが、この開き直りが幸運を呼び込む。 「 キープ マイ ペース 」それだけを
唱え続けた、エース小沢の過酷なマウンド。そして、倉敷の少年たちが奇跡
を、起こす。
小倉北 020 102 001 0
倉敷工 010 102 110 1 ( 延長10回 )
息詰まるシーソーゲーム。倉工の守備の乱れに乗じて、ダブルスチール、スクイズ
と、多彩な攻めで、先手先手と責める 小倉北 に対して、二回と六回に
藤沢の、2ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉工 は、九回ついに
福島投手を、マウンドから引きずり下ろした。延長10回、一死満塁から
横山 のショートゴロの間に、決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。
つづく 随時掲載
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参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
風雲の軌跡 初陣倉敷工 4
第31回全国高等学校野球選手権大会。
1949年8月13日から、8月20日まで甲子園で開催された。
開会式での、入場行進における出場校選手の先導、女子生徒がこの大会から
開始された。主将で、エースの小沢は、次の様に語る。
「 甲子園は、最初から意識をしていたわけではなく、運良く行けたんです。
また、テレビはなく、絵もないし。ただあるのは、ラジオから聞こえて来る歓声だけで。
甲子園は、あの前に立っただけで、【 こんなに大きな建物かと 】びっくりして。
また、球場の中に入って練習の時に
【 こんなに、大きなグランドかと 】また、びっくりして。そして、開会式の時、
【 こんなに、大勢の人かと 】また、びっくりして。それで、試合になった時、
大歓声で第一球はどこに投げたかわからない状況でした。」
その開会式で、他県の選手は、「 倉敷ってどこ? 九州? 東北?」
また、戦前の活躍予想は、出場23校中22位というありさま。
それでも、好投手 小沢 馨 の得意球ドロップ ( 縦のカーブ )は、小気味
良く、捕手 藤沢 新六 のミットに吸い込まれた。打線も、尻上がりに調子を
上げ、 熊谷 ( 埼玉 ) 高津 ( 大阪 )と連破。準々決勝まで進んだ。
倉敷工 9 - 1 熊谷
倉敷工 5 - 3 高津
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参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶」
協 力 小山 稔氏
部活動訪問 軟式野球部
31人の視線の先は、【 全国制覇 】
おいまつ会による、部活動激励訪問を実施しています。
今回は、7月2日軟式野球部を訪問させて頂きました。軟式野球部は過去8回
全国大会に出場を誇り、全国ベスト4の実績がある名門チームであります。
今年の軟式野球部は、春の県大会 春の中国大会 県総体、3大会連続で
準優勝。第62回全国高校軟式野球大会に、9回めの出場の期待が大きい
軟式野球部でもあります。訪問団が、倉工グランドに行きますと、練習試合を
終えて、グランド整備をしていました。その時、顧問の 河原 紫穂 先生
鳥越 喜代志 監督ら、全選手が集まってくれました。早速、おいまつ会を代表
して、 日下 誠 会長が 「 必ず全国大会出場を果たし、卒業生を喜ばして
下さい。」と、激励。続いて本HP「 青春ヒーロー 」でお馴染みの、小山 稔
委員が、激励の挨拶を行いました。主将で、エース左腕の 熊澤 君( D3A)
は、【 目標は、全国制覇です。 】と、キッパリ。日焼けした顔に、白い歯。そして
透き通る瞳は、しっかりと全国制覇に向いているかのようでした。鳥越監督は
「 井原高校に雪辱したいですね。今年のチームは、全国の強豪と練習試合
を何試合もやりましたが、ほとんど負けていないので、全国制覇も夢ではないです。」
と。鳥越監督の視線も、全国制覇に向いているかのようでした。
なお、岡山県大会は、7月15日から、やまびこ球場、勝山球場で開催されます。
がんばれ 倉工 駆け抜けろ ダイヤモンドを 倉工軟式野球部
おいまつ会:日下会長が「全国大会に出場して、卒業生を喜ばしてほしい」と激励しました。
風雲の軌跡 初陣倉敷工 3
監督 小沢 馨物語
新興、倉工は 三宅 宅三 監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。
倉工は、甲子園への第2関門となる東中国大会に進出。この東中国大会
とは、第30回大会から、第39回大会までは、島根 鳥取 岡山 の3県を
対象としていたが、第41回大会からは 島根 が西中国大会に編成された
ため、 鳥取 と 岡山 の2県で甲子園を争っていた。また、記念大会を
除いて23回行われたが、岡山県勢が14回、鳥取県勢が8回、島根県勢が
1回、甲子園に出場した。
昭和23年、倉工はこの東中国大会決勝に進出。原動力は、制球力が
抜群で、縦へのカーブ ドロップ が持ち味の エース小沢。 横山 妹尾
藤沢 らの中軸打線は、長打が狙える大型打線。しかし、決勝戦で 関西
に敗れて涙を飲む。
1948年 ( 第30回大会 ) 東中国大会決勝
倉敷工 3 - 6 関西
昭和24年、倉工に運命の時がやって来る。昭和24年の決勝は、オープン
間もない 倉敷市営球場 において 倉敷工 と 倉敷商 と言う地元チーム
同士で争われた。 倉敷工 小沢 倉敷商 鳥越 両エースの投げ合いと
なった決勝。まさに、市を二分しての決勝は、空前の人気を呼び、観衆は
スタンドの外まで溢れ、地鳴りのような歓声が響き渡ったという。
そして、倉工は2年連続で、東中国大会に進出。東中国大会初優勝を
飾り、夢の甲子園初出場を勝ち取る。
1949年 ( 第31回大会 ) 東中国大会決勝
倉敷工 2 - 1 境
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参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よふたたび 」
山陽新聞 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
平成29年度役員総会
風雲の軌跡 初陣倉敷工 2
監督 小沢 馨物語
港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエ倶楽部。
港町玉島の、剛腕 左腕エース 大野 仁之助 と 盟友である、六尺越え
の豪傑 三宅 宅三。大野は、激戦地で散った亡き友の、思いを胸に投げ抜き
、三宅は、五輪中止の無念を、国体にぶつけた。倉敷から越境入学して、
玉島商 で、青春を過ごした三宅は、砲丸投げで全国優勝。明治大学を経て
倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。一方、大野は指導者として
後輩たちと、甲子園を目指した。そんな時だった。倉工が新しく野球部を作る事
になったのである。そして、三宅に運命の時が来た。野球部部長が、三宅の家を
訪問。「 三宅君、倉工が新しく野球部を作る事になったんで、時間と暇がある
んだったら、監督を引き受けてくれないか?。 」と、監督をお願いした。
すると、 玉島商OBたちは、「 倉工の監督をするのだったら、 玉島商 の
監督をやれい 。」と、猛反発したという。当時、玉島は玉島市であり、倉敷への
対抗意識が、根強いものがあったようである。その後、 玉島商OBたちは、
三宅 宅三 倉工監督を容認。三宅の監督就任で、正式に 部 に昇格。
小沢ら、野球の申し子たちは、躍り上がって大歓喜。新興、倉工は三宅監督
就任で、またたく間に岡山県無敵となる。その、源流に戦前、最強の 玉島商
野球が存在していた。三宅監督の就任で、 玉島商 仕込みの猛練習だった。
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参 考 OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
ニュートンのリンゴの木
母校の校舎と校舎との間に、中庭があります。
今、新緑がとても深く、目にしみ、快い初夏の風が、ほほをなぶる様です。
そんな、中庭を見ていましたら、一枚の看板を見つけました。
何を書いてあるのかと、近づいて行くと、「 ニュートンのリンゴの木 」と
ありました。えっ? ニュートン? リンゴの木? ニュートンは、リンゴが
落ちるのを見て、万有引力を発見したと、聞いていますが?。その看板
には、次のように書いてありました。
ニュートンのリンゴの木
この木は、アイザック ニュートン ( 1643 ~ 1727 )が、万有引力の法則
を、発見するきっかけとなった、リンゴの木 ( 品種名 ケントの花 )の
5代めあたります。親木は、イギリスの国立物理学研究所より、東京大学
付属食物園を経て、大町エネルギー博物館に植えられました。
その接ぎ木苗を、科学の学徒のシンボルとして、同館理事、仁科 昌之氏
【 S28年E科卒 】の、ご紹介で本校に贈られたものです。
寄 贈 平成6年4月16日
おいまつ会
偉大なる大先輩が、寄贈してくれた 「 ニュートンのリンゴの木 」。
大事に大事に、育てて行ってほしいものです。
がんばれ 倉工 輝け! 美しい文化の倉敷工業