部活動激励訪問 吹奏楽部

吹奏楽部は、世界的な有名の、 木元 大一氏 を輩出しています。

また、甲子園でもお馴染みの、「 倉工応援名物 桃太郎 」を作ったのも

木元 大一氏。そして大親友の 木村 義夫氏 ( 現 おいまつ会副会長 )

の両名でした。【 本HP、名物応援 桃太郎誕生秘話 を参照して下さい 】

倉工吹奏楽部は、歴史と伝統のある部でもあります。

おいまつ会による、部活動激励訪問。今回は、その吹奏楽部を訪問させて

頂きました。訪問日は、第69回倉工祭の時でした。多くの観衆が見守る前で

ユーロビート ディズニーメドレー や ルパン三世 など5曲を披露。

部長の、片山 誠君「 D3A 」は、『 先輩後輩の上下関係はなくて

縛られる様な感じもなくて、部員同志が打ち解けあえる様な雰囲気です。 』

と、語ってくれました。今後の目標を尋ねると 『 新入生を、10人以上を

入部させたいです。 』との事でした。吹奏楽部は、日曜以外毎日練習。

演奏会に出ても、演奏するだけでなく、会場の準備や後かたずけ等も

手伝って帰るという吹奏楽部。今後も地域貢献に頑張って下さい。

おいまつ会も、その活躍ぶりを応援して行きます。

 

がんばれ 倉工!   魅惑させろ観衆を 倉工吹奏楽部!

 

 

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第69回倉工祭で演奏する吹奏楽部

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よろしくお願いします

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激励の挨拶

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吹奏楽部と訪問団

 

2017 倉工祭 おいまつ会作品展

11月17、18日、第69回倉工祭が盛大に開催されました。

今回から、文化祭から倉工祭に、改称しての開催でした。今年のテーマは

「 記憶に残るような創造性あるものを 」。一般公開となった、18日は

朝早くから、他校の生徒さんら多くの方々が来校。体育館では、ダンスや

コーラス等。中庭では、書道部による、書道パフォーマンスや、吹奏楽部の

演奏など。さらには、各教室、各部によるパフォーマンスなど、盛りだくさんの

内容でした。おいまつ会館では、今年も OB 教職員 による写真や

作品の展示がありました。こうした中で、最も注目されたのは、倉工が開校

された、昭和14年の写真パネルや、戦時下の倉工生。また、甲子園初出場

した時の写真パネルなど、多くの人が見入っていました。そして、倉敷ケーブル

テレビの取材もありました。今後の課題として、展示される数が少なくなって

いるので、もっと多くの方の協力を、頂きたいものです。

 

がんばれ 倉工!   技術 スポーツ 美しい文化の倉工へ!

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倉工回顧展

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おいまつ会館、作品展

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昭和14年開校式

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昭和14年入学式

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倉工祭の様子です

 

風雲の軌跡 涙の甲子園 11

監督 小沢 馨物語

昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で 中京、杉浦監督 とバッタリ。二人は談笑しながらも

お互いの健闘を誓いあった。そして、いよいよ抽選会が始まった。主将 大倉 が

引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。しかも、相手は健闘を誓いあった

名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。そして、二回戦では 原 辰徳 のいる

東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。一回戦から好カードだったから

であろう。剛腕エース 兼光 の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

「 東の寒川 ( 岡山東商 ) 西の兼光 」と。こうして、開会式が始まろうとして

いた。入場行進が始まろうとしていた時だった。「 とにかく緊張しました。 」と、

守備の名手 神土 が苦笑いしながら、語ってくれた。開会式が終了して

一塁側 倉敷工 三塁側 中京 がベンチに入った。外野のノックは、小山コーチ

【 本HP青春ヒーローを参照して下さい 】内野は、 小沢監督 が行った。

ノックを終えた 小山コーチ は、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」 その人物こそ、 豊見城 沖縄水産 を合計17回も

甲子園に導いた 裁 弘義監督 だった。この時、甲子園初出場。どんな名監督

でも、最初から名監督ではない。最初は、誰でも 「 学ぶ 」 事から始めるもの

である。恐らく 裁監督は 小沢監督 から、 小山コーチ を通じて何かを

「 学び 」に来たのであろう。そして、プレーボールのサイレンが、大甲子園に鳴り

響いた。ところが、エースに異変が生じていた。 剛腕エース兼光 の異変。

「 甲子園入りする前から、 兼光 は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

大倉 一秀氏

神土 秀樹氏

 

風雲の軌跡 涙の甲子園 10

監督 小沢 馨物語

昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回めの出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。このチームは

個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労

しました。 」こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将

だった、 大倉一秀 。この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに

出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。 「 今回のチームは、いつもと

違う点は、どこですか? 」すると、小沢監督は、「 今年は、センターライン

が、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」

センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。『 一度でいいから、優勝旗に

手をかけてみたいですね。 』この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督

が 【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。 【 優勝 】と言う言葉を

使ったのは、何年ぶりであろうか。昭和43年夏、大エース 小山投手 を

擁した時、以来でなかったか。倉工久しぶりの、大型チーム。エースは

剛腕 兼光保明 。防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って

甲子園に、乗り込む 倉工ナイン。

つづく  随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   大倉一秀氏

神土秀樹氏

風雲の軌跡 初陣倉敷工 9

小沢 馨物語

昭和24年8月20日。倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテル

ぐらいまでの沿道を埋め尽くした。人々は、「 万歳! ばんざい! 」を連呼。

空には、打ち上げ花火。さらに、ブラスバンドの演奏までが加わった。まさしく倉敷の

夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。

そして、主将の 小沢 が、挨拶をする事になった。 「 主将の、私に挨拶をしろ

と言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。それで

【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を

目指して、皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんです。言った

らしんですよ。 」主将、 小沢 は、大群衆に、いや 倉敷市民に約束した。

のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。倉敷の名を全国に

伝えたのは、倉工エースで主将の 小沢。倉敷市民から、大いなる期待が寄せられた

のである。 倉工卒業後  小沢 と 藤沢 は、プロ野球阪神タイガースの

入団テストに合格。プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出し

は、来なかった。一年が経過した頃、 社会人野球、日鉄二瀬 から、誘いを

受け、阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って 日鉄二瀬 に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」

と、藤沢。移籍した直後の事。倉敷から、使者が 小沢 のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやって

くれないか。倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしい

んだ。就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業

高校の、事務員。仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長

が言ってるから。 」倉敷市長から、直々に監督を要請された 小沢。

こうして、 倉工小沢監督 が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

 

つづく  随時掲載   『 ただし、初陣倉敷工は、最終回 』

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

OHK     「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社  「灼熱の記憶」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 8

監督 小沢 馨物語
第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝
三年連続優勝を目指した 小倉北。「 キープ マイ ペース 」を唱えながら
終始冷静な、投球を続けた エース小沢 の過酷なマウンド。その小沢を援護
した、 捕手藤沢 新六 の2本の左中間への、大ホームラン。無欲であるが
ゆえ、 小沢 は詫びた。無欲であったがゆえ、倉工は勝ったのである。
迎えた準決勝。相手は、2年連続2回め出場の 岐阜。1対3とリードされた
四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。翌日再試合となった。
宿舎に帰った倉工ナインは、風呂の中で『 これなら勝てる。優勝できるかも 』
と、はしゃぎ立てた。欲が出た。無欲から 欲 にかわった。再試合では、強振
を続ける打線は空回り。頼みの エース小沢 は、連投の疲れで、ひじが
上がらない。球は走らず、 2 対 5 で敗れた。敗戦を決めた無情の雨。
【 あの時さえなかったら。今でも、雨の日には想い出す。 】と、小沢は言う。
    準決勝  岐阜 3 - 2 倉敷工  ( 四回降雨ノーゲーム )
           岐阜 5 - 2 倉敷工
昭和24年8月20日。倉敷駅前広場。
初出場で、ベスト4。感激を味わったのは、倉工ナインよりも、倉敷市民だった。
倉敷駅前広場に、集まった大群衆は、駅前だけでなく、沿道にも人があふれ
人々は、「 万歳! ばんざい! 」の連呼。空には、打ち上げ花火が上がり
ブラスバンドの演奏までが、加わった。急こしらえのステージに、立った倉工ナイン。
そして、主将の 小沢 が、挨拶をする事になった。
    つづく   随時掲載
お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
       OHK     「 旋風よ ふたたび 」
       山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 7

小沢 馨物語

 

三連覇の夢破れて、うなだれる小倉北ナイン。ナインは、その日のうちに夜汽車で

郷里、福岡へと帰って行った。どのぐらい走ったことだろう。泣き疲れて寝込んで

いた、 福島 は、電車の揺れで目をさましたのだった。ここは何処だろうと、外を

見た。見覚えのない町明灯かり。ところが、ホームの看板を目にした時、また悔し

涙が、出てきたのだった。そこは、イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる町、倉敷

だったのである。自宅に戻った 福島 に、翌日速達が届いた。大会副審判長

長浜 俊三 からだった。【 この甲子園で学んだものは、学校教育では学べ

ないものだ。君のポケットに入った、その土には、それが全てが詰まっている。

それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい、 】と、書かれてあった。

ポケットの 土 の事などいっさい覚えていない 福島 は、慌ててバックの中に

入れたままにしている、汗まみれのユニホームを取り出し、新聞紙を広げ、ズボン

の後のポケットをひっくり返すと、ほんの一さじほどの土が出てきた。 福島 は、母

と相談して、玄関に置いてある ゴムの木の植木鉢 に入れた。この甲子園の

土は、その後の 福島 の心の糧となり 福島 の心を支えたのだった。

甲子園の土を持ち帰った球児は、実は過去にも存在していたのだが、この

エピソードが有名になり、 福島 は、「 甲子園の土を最初に持ち帰った球児 」

と、言われるようになっている。しかし、 福島 は、敗れた球児が甲子園の土

を、持ち帰るという行為を、次のように考えている。『 土産品ではないのだから、

それより、甲子園を目指した努力を、大切にしてほしい。 』と、語っている。

 

つづく  随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 6

監督 小沢 馨物語

第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝 第4試合

小倉北  020 102 001 0 6

倉敷工  010 102 110 1 7 ( 延長10回 )

「 何が何だかわからない内に、試合が終わったんです。終わってみたら、勝って

いたんです。 」と、小沢。そして、小沢は次の様に語る。

「 悪い事をした。と思いました。あの時ほど、悪い事をしたと思った事はないです。

小倉に、申し訳ない。 」 試合終了後、ホームプレートを挟んで、お互いが

挨拶をする時、「 ありがとうございました 」が、「 どうもすみませんでした。 」の

心境だったという。夢 破れてうなだれる、小倉北ナイン。試合後の挨拶を交わした

後、小倉北 福島 一雄 投手は、マウンドに戻って、センタースコアーボードを

仰ぎ見て、無意識のうちに、一握りの土をつかみ、尻ポケットに入れたのだった。

小沢は、「 何をやってるんだろう。 」と思ったという。また、その光景を、ある

大会役員が見ていた。その後、福島は、狭い通路で人目を気にせず、肩を

震わせ、泣きじゃくるのだった。小沢は、この時福島に帽子を取り、「 すまなかった 」

と一言言って、その場を立ち去ったのだった。勝った小沢の心を占めたのは、

勝利の余韻でなく、相手福島の姿だった。小沢はこの時初めて、【 常勝チーム

のエースとして、マウンドを守り続けた福島の、プライドと、甲子園に掛ける夢の

大きさを、知ったのである。 】 無欲であるがゆえ、小沢は詫び、無欲であるが

ゆえ、小沢は勝った。昭和24年8月18日、山陽新聞に、『 倉工殊勲の健棒

小倉の三連覇を阻む 』と出た。小倉北ナインは、この日のうちに、夜汽車で

郷里、福岡へと帰って行った。

 

つづく   随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 5

監督 小沢 馨物語

 

実力以上の力を引き出す無欲。先を見て足元をすくわれる欲。

昭和24年夏、甲子園初出場を果たした倉工ほど、微妙な勝負のあやを体験

したチームはない。

第31回全国高校野球選手権大会。8月17日 準々決勝。夕暮れの迫る

第4試合。相手は、中京商 以来の3連覇を目指す 小倉北。春夏通算16勝

を挙げた好投手 福島 一雄 を擁し、洗練された野球をするチーム。知名度

は、雲泥の差。高く分厚い壁。 小倉北 4年連続5回めの出場。

 

小倉北 ( 福岡 )   対   倉敷工 ( 東中国 )

 

「 私どもは、勝とうなんて全く思った事はなく、9分9厘とか一厘の望みだとか

世の中には、あるかも知れませんが、その一厘でさえ認められない、10が10

小倉の勝ち。と言う戦前の予想だったんです。 」と、小沢。捕手の

藤沢 新六 は 「 勝てる。と言うのは全くなくて、一生懸命やるだけだなあ。

と、私は思っていました。 」と。スタンドを埋めたファンも、倉工の勝利より

善戦を期待していた。倉工ナインも 「 勝てるわけない 」と荷物をまとめて

宿舎を出発。負けたら、道頓堀川あたりを観光して、帰るつもりだった。

だが、この開き直りが幸運を呼び込む。 「 キープ マイ ペース 」それだけを

唱え続けた、エース小沢の過酷なマウンド。そして、倉敷の少年たちが奇跡

を、起こす。

 

小倉北  020 102 001 0

倉敷工  010 102 110 1  ( 延長10回 )

 

息詰まるシーソーゲーム。倉工の守備の乱れに乗じて、ダブルスチール、スクイズ

と、多彩な攻めで、先手先手と責める 小倉北 に対して、二回と六回に

藤沢の、2ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉工 は、九回ついに

福島投手を、マウンドから引きずり下ろした。延長10回、一死満塁から

横山 のショートゴロの間に、決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

 

つづく   随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 4

第31回全国高等学校野球選手権大会。

1949年8月13日から、8月20日まで甲子園で開催された。

開会式での、入場行進における出場校選手の先導、女子生徒がこの大会から

開始された。主将で、エースの小沢は、次の様に語る。

「 甲子園は、最初から意識をしていたわけではなく、運良く行けたんです。

また、テレビはなく、絵もないし。ただあるのは、ラジオから聞こえて来る歓声だけで。

甲子園は、あの前に立っただけで、【 こんなに大きな建物かと 】びっくりして。

また、球場の中に入って練習の時に

【 こんなに、大きなグランドかと 】また、びっくりして。そして、開会式の時、

【 こんなに、大勢の人かと 】また、びっくりして。それで、試合になった時、

大歓声で第一球はどこに投げたかわからない状況でした。」

その開会式で、他県の選手は、「 倉敷ってどこ? 九州? 東北?」

また、戦前の活躍予想は、出場23校中22位というありさま。

それでも、好投手 小沢 馨 の得意球ドロップ ( 縦のカーブ )は、小気味

良く、捕手 藤沢 新六 のミットに吸い込まれた。打線も、尻上がりに調子を

上げ、 熊谷 ( 埼玉 ) 高津 ( 大阪 )と連破。準々決勝まで進んだ。

 

倉敷工 9 - 1 熊谷

倉敷工 5 - 3 高津

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送  「 夢 フィールド 」

OHK      「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社   「 灼熱の記憶」

協 力  小山 稔氏