令和4年11月13日(日)、雨の中、美作ラグビーサッカー場で花園出場を目指し、「第102回全国高等学校ラグビーフットボール大会岡山県予選会」の準決勝が行われました。
倉敷工 対 倉敷。12時キックオフ。
なかなか得点に結びつかず76対3で敗れましたが、果敢に攻め、倉工応援席から大きな歓声が沸く場面も多く、高校生らしいとても良い試合でした。
選手の皆さんお疲れさまでした。
「今年は春の選抜甲子園に行き、夏は軟式野球部が全国大会でベスト4と大活躍でとてもうれしい1年でした。特に、軟式野球部は絶対決勝に行くと信じて、決勝までの切符を買っていたんです。」
この様に語るのは、おいまつ会企画委員の守屋文明さん(昭和46年3月卒、E科)。
守屋さんは、自宅で採れた新米60キロを、11月9日軟式野球部と硬式野球部にそれぞれ30キロを寄贈されました。寄贈にあたり、おいまつ会日下誠会長、生田岩雄副会長、三宅香副会長も同伴しました。
両チームから、とても喜んでいただき感激した次第です。
日下会長、守屋委員は、「この新米を食べて、来年も是非、全国大会に出場してください。」と両チームを激励しました。松岡監督、高田監督からは「頑張ります。」とのお言葉をいただきました。
がんばれ倉工 目指せ 全国のてっぺんを
軟式野球部・硬式野球部
第30回選抜高校野球大会(昭和33年選抜2年連続出場)
立命館3―2倉敷工(2回戦)
立命館 100 000 200 3
倉敷工 100 100 000 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打
【概要】
出場23チーム入場曲「クワイ河マーチ」
昭和33年。ここから、岡山県高校野球黄金時代が幕を開ける。
白壁の街に、白球に夢を追い求める男。倉敷工業監督小沢馨。
漆黒の岡山城が見下ろす街に、この男を倒すために、一途な情熱を燃やす男。
岡山東商業監督向井正剛。
岡山県高校球界を語る上で、この二人を抜きには語れない。
二人の監督が、重複した昭和33年から48年までの県勢の甲子園出場校を見ると35年と44年以外は、必ずどちらかが出場を果たしている。それも交互のように。まさに、竜虎の戦い。また小沢と向井の二人の好勝負は、全国的にも知られるようになる。そして岡山高校野球が、最も光彩を放つ時代を演出して行くことにもなっていく。
倉敷工は、2回戦から登場。
倉敷工エース渡辺は、立命館打線から9個の三振を奪う好投。
また、倉敷工打線は5個の犠打を決め、ランナーを前に進める。
しかし、チャンスに打てず残塁9。惜しい渡辺の力投となった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
現在、夢フィールドは放送ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第29回選抜高校野球大会(昭和32年選抜初出場)
倉敷工 2―1 市立沼津(1回戦)
市立沼津000 000 001 1
倉敷工 020 000 00X 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打
倉敷工 2―0 育英(2回戦)
倉敷工 000 010 010 2
育 英 000 000 000 0
倉敷工投手 小野
本塁打
倉敷工 4―0 高松商(準々決勝)
倉敷工 000 100 300 4
高松商 000 000 000 0
倉敷工投手 渡辺
本塁打
高知商 3―1 倉敷工(準決勝)
高知商 210 000 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手 小野-渡辺
本塁打
【概要】
出場20チーム。入場曲は「緑のこだま」
「ひたすらに、フェアプレーで戦った。」昭和24年、甲子園ベスト4進出を決めた直後の倉敷工主将で、エース小沢馨の談話である。
この精神は、以後倉工野球の礎となった。小沢の選手時代の監督は三宅宅三(玉島商―明治大)。その三宅から倉工監督に就任した小沢は20歳だった。それから、監督6年めで、甲子園初出場を成し遂げる。小沢が賞賛に包まれている時、一人の大学生が卒業を控え、郷里の岡山へ帰る準備に追われている大物がいた。その大物の名は、『向井正剛』という。
この年の、主力選手は「室山」。
法政大に進学。東京六大学4度の優勝に貢献。首位打者も獲得した。
阪神タイガースに入団、七番打者として活躍。アキレス腱を切断し引退。フロント入りした。
つづく
随時掲載
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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
第31回全国高校野球選手権大会(昭和24年初出場)
倉敷工7―6小倉北(準々決勝)
小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7(延長10回)
倉敷工投手小沢
本塁打藤沢2
倉敷工2―5岐阜(準決勝再試合)
岐 阜 130 100 000 5
倉敷工 002 000 000 2
倉敷工投手小沢
本塁打
【概要】
今大会からボールの改良やラッキーゾーンの新設などによって、活発な打撃戦が繰り広げられた。優勝は、大方の予想を覆し、創部4年めで、初出場の湘南。大優勝旗が21年ぶりに東日本のチームに渡った。
三連覇を目指す小倉北。洗練された野球をするチーム。
知名度は、雲泥の差。スタンドを埋めたファンも倉敷工の勝利よりも善戦を期待していた。息詰まるシーソーゲーム。倉敷工の守備の乱れに乗じて、重盗、スクイズと多彩な攻めで先手先手と攻める小倉北に対して、二回と六回の藤沢の2本塁打をはじめ、長打で追いすがる倉敷工。延長十回一死満塁から横山の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。「終わってみたら勝っていた。相手に悪い事をしたと思った。」と小沢。
薄暗い通路で、肩を震わせ泣きじゃくる小倉北の福島投手に帽子を脱いで「すまなかった。」と頭を下げたという。
準決勝対岐阜戦
1対3とリードされた四回。1点を返し、さらに無死満塁のところで突然の雨。翌日、再試合となった。
再試合では、強振を続ける打線は空回りし、頼みのエース小沢は、連投の疲れで肘が上がらない。2対5で敗れた。
敗戦を決めた無情の雨。「あの雨さえ無かったら。」
「今でも、雨の日には思い出す。」と小沢は言う。
なお、小沢は4試合で、ドロップを武器に27個の三振を奪っている。
つづく
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当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
協力
和泉利典(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
【はじめに】
倉敷工業高校の、甲子園での全成績は、通算25勝20敗。
そこで、当HPは、「熱闘甲子園 今昔物語 栄光の足跡」として、その全試合について紹介していくことにする。
第31回全国高校野球選手権大会(昭和24年初出場)
(1回戦)倉敷工9―1熊谷
熊 谷 010 000 000 1
倉敷工 102 001 50X 9
倉敷工 投手 小沢、本塁打 藤沢
(2回戦)倉敷工5―3高津
高 津 110 010 000 3
倉敷工 300 002 00X 5
倉敷工 投手 小沢、本塁打
【概要】
今大会から開会式の入場行進で、女子高校生がプラカードを掲げ入場し各校を先導するようになった。西宮市立建石高(のちの市西宮)の女子が、制服の胸に赤とピンクのバラの花をつけて、次々に登場。するとスタンドからは、拍手の嵐。新制高校時代にふさわしい、明るい飾りを添えた。
(当HP、カテゴリーの中、風雲の軌跡の三部作を参照して下さい。)
開会式で他県の選手は、「倉敷ってどこ?。東北?。九州?。」
戦前の活躍予想も、出場23校中22番目というありさま。
それでも、好投手小沢馨の得意球ドロップ(縦のカーブ)は小気味良く、捕手藤沢新六のミットに、吸い込まれた。
打線も、しり上がりに調子を上げ、熊谷(埼玉)、高津(大阪)と連破。
8強まで進んだ。
つづく
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朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会
「私は、報徳との試合については、10年間誰にも言わずにいたんです。それで、10年経ってから話すことになったんです。」
「えつ。そうなんですか。」
「そうです。10年してから、実はこういう事だったんですと。」
「そうだったんですね。でも、いい話ですね。」
「松本は、森脇に怪我をさせてしまったと思い。その松本には、本当に大きな負担を掛けさせてしまいました。」
この話のやり取りは、小沢氏と私(筆者)との二人だけの対談の一部である。
小沢氏は、倉工監督を勇退してからは、公演会に呼ばれる事が多かった。
その公演会の中で、最後の方に報徳との試合について話を持ち出す事にしていた。報徳との試合について話を切り出すと、いつも場内は「シーン」と静まり返ったという。
ある日の、公演会の事。
いつものように、公演を終えて、小沢氏は車に乗りかけ帰ろうとしていた。
その時、一人の老人が追いかけて来た。「小沢さん、小沢さん。ちょっと待って下さい。」その老人は、小沢氏に、語り掛けた。
「ワシは、今まで小沢さんをボロくそに言ってました。あそこで、森脇に替えるから、倉工が負けたんじゃと。今日の、小沢さんの公演を聞いて、初めてわかりました。そうだったんですね。いい話をありがとうございました。」
そう言うと、その老人は、深々と頭を下げたという。その老人とは誰か。
東中国大会決勝で戦った岡山東商岡本成機投手の実父だったのである。
小沢氏は、公演会の最後にいつも次の様な言葉を残して会場を後にしていた。
『鎌田の思いも。松本の思いも。槌田の思いも。結果の全ては、監督だった全て私の責任であって、彼らは、野球人として高校野球の選手として、最高の野球を見せてくれたと今でも信じています。』
自分の、采配ミスを謝る小沢に選手たちは、「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したという。名勝負を飾るにふさわしい、友情ドラマ。
しかし、それ以上に、勝負の世界は非情だった。
倉敷工業 対 報徳学園。
この【試合】【物語】は、永遠に、語り継がれて行く事だろう。
終わり
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本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会
軟式野球部の全国大会での活躍の様子が、youtubeで公開されていましたのでご紹介します。
岡山・倉敷工業 7年ぶりに高校軟式野球の全国大会へ! 主将「出るからには全国1位を目指して頑張りたい」(KSB瀬戸内海放送)
【高校野球】倉敷工vsあべの翔学【第67回全国高校軟式野球選手権大会・準決勝】
QF 倉敷工VS津久見InPlay全収録①1IN-3IN【第67回全国高等学校軟式野球選手権大会3日目】
QF 倉敷工VS津久見InPlay全収録②4IN-7IN【第67回全国高等学校軟式野球選手権大会3日目】
QF 倉敷工VS津久見InPlay全収録③8IN-9IN【第67回全国高等学校軟式野球選手権大会】
【観戦記】
「朝6時30分に、倉工を出発して、バス3台でやって来ました。」と安藤正道校長。
明石トーカロ球場には、バス以外に在来線や新幹線を乗り継ぎ、倉工一塁側スタンドは、ほぼ一杯。その応援団が倉工ナインの背中を押した。高校野球で、おなじみの「サウスポー」「ルパン三世」「アフリカンシンフォニー」等、迫力ある演奏に合わせ、息の合った動きと緑色のメガホンを打ち鳴らしながらの大応援。曲に合わせ、足やメガホンを上げての動きの中に、保護者も加わっての応援が目を引いた。
試合終了後、倉工ナインがスタンドに向かって深々と頭を下げるとスタンドは大きな拍手で健闘を讃えた。
また、両校のスタンドへの挨拶の後、あべの翔学ナインは、倉工一塁側スタンドに向き深々と頭を下げた。これに対し倉工応援団一同から大きな拍手を贈ったのだった。
あべの翔学は、強いだけでなくマナーも良いチームだった。
三番手投手として、マウンドに上がった小鷹(2年生)。
小鷹秀樹保護者会副会長は、「応援ありがとうございました。この経験を糧に来年もここに帰って来ます。」
球場の外では、保護者会が応援に来た人たち一人一人にお礼を言っていたのも好印象で心に残った第67回全国高校軟式野球大会だった。
【評】
倉敷工初の決勝届かず。
大応援でナインの背中を後押し。
倉紙工 130 200 000 6
あべの翔学 330 004 21x 13
倉敷工は打ち負けた。1対3の二回2死一三塁から、前田、半田の連続長短打で3点を挙げ逆転に成功。
2点を追う四回は、敵失で追いつき食い下がった。
しかし、五回以後は、2安打に抑えられた。エース中野は、二回途中5失点で降板。
二番手右腕黒明は、粘投で踏ん張ったが、甘いコースを狙い打ちされ、相手打線の勢いを止められず、6対6の六回に、右中間適時二塁打など4点を勝ち越された。
ここは、あべの翔学打線が、甘い球を見逃さなかった打力に軍配を上げたい。
それでも、6安打で6点。鍛え上げた攻撃力は、前半は互角の戦いを見せた。この1年、勝てない苦悩の日々を乗り越え、たどり着いた全国ベスト4。4強の中で県立は倉敷工のみ。
チームにとっては、2000年第45回大会に並ぶ過去最高成績。7年ぶりに出場した全国大会の経験は、後輩たちに受け継がれていくことだろう。
球場から出て来た、倉工ナインに盛んな拍手が贈られた。
(山陽新聞および毎日新聞を参考にしました。)