熱闘甲子園 今昔物語 22 栄光の足跡 10

39回選抜高校野球大会(昭和42年選抜)
津久見32倉敷工
津久見100 200 000 3
倉敷工000 000 200 2
倉敷工投手 小山
本塁打

【概要】
1967
329日~46日出場24チーム
入場曲「世界の国からこんにちは」

優勝 津久見、準優勝 高知

今大会の選抜出場予定だった津山商が、出場辞退。
補欠校の倉敷工が、繰り上げ出場となった。選抜開幕まで1週間を切っての突然の話。倉敷工は、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいた。

津久見(大分)32倉敷工(岡山)

実戦練習が不足していた倉工ナインが、エース小山の力投に打線もこたえ、この大会で初優勝を飾る津久見に、23と食い下がった。

【倉敷工-津久見】 マウンドの小山のもとから各ポジションへ散るナイン(昭和42年4月1日)

津久見エース吉良投手(のちに阪神タイガース入り)の武器は、大きく曲がるカーブ。このカーブに、倉工打線はてこずり三振12
吉良投手の津久見に対し、倉工打線は、二塁打2を含み盗塁4を絡ませ機動力で対抗した。「吉良のカーブは、背中の方に投げたカーブが(右打者の)外角一杯に決まるんです。」と小山。

4季連続の甲子園で完全燃焼した倉敷工の小山稔投手=42年4月、センバツ大会

津久見は、準々決勝岐阜に20、三振13。準決勝報徳学園に21、三振10。決勝高知に21で優勝し、三振16
吉良投手は、倉工戦を合わせると合計51の三振を奪った事になる。
また、得点は倉工が2点。吉良投手から大会最高得点を上げた。
「倉工は強い。夏が楽しみ。」期待の声が高まって行った。

今大会津久見戦から、倉工名物応援となる桃太郎での応援がスタートする。この桃太郎の曲をアレンジした応援は、倉工スタンドが一体化となって、相手校を圧倒。この桃太郎での応援は、昭和50年代までも続いた。
(
残念ながら、現在では使用されていません。)
『当HPカテゴリーの中、「青春ヒーロープレイバック」を参照
して下さい。』
『名物応援「桃太郎」については、当HP、カテゴリーの中の投稿、「名物応援桃太郎誕生秘話」を参照して下さい。』201699日付

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)

岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 21 栄光の足跡 9

第36回選抜高校野球大会(昭和39年選抜)

金沢3―1倉敷工(2回戦)
金 沢 000 102 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手羽村→戸田
本塁打

【概要】

1964年3月28日~4月5日出場23チーム
入場曲「こんにちは赤ちゃん」

優勝が、徳島海南。準優勝は、尾道商だった。
倉工は、2回戦から登場。初戦の相手は金沢。金沢は、1回戦、開幕試合で強豪市和歌山商を、2対0で完封勝利を飾っての2回戦進出。金沢は、市和歌山商に10安打、二塁打2本を浴びせ、打撃力と投手力の揃ったバランスの良い好チーム。

金沢(石川)3―1倉敷工(岡山)
倉工は、金沢辻投手の前に、一回裏の1点のみに抑えられた。打線も4安打、7三振。残塁は7。チャンスに打てなかったのが残念。なお金沢は続く、準々決勝で優勝した徳島海南に敗れている。

倉敷は、やがて旧倉敷、玉島、児島の3市が合併。
新しい、倉敷市が生まれようとしていた。また、水島コンビナートは、連日フル操業の予感。
そして、倉工名物応援が・・・。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 20 栄光の足跡 8

第44回全国高校野球選手権大会(昭和37年夏)

倉敷工8-5山形商(1回戦)
倉敷工 004 110 200 8
山形商 020 000 300 5
倉敷工投手 安藤
本塁打

北海3―1倉敷工(2回戦)
倉敷工 100 000 000 1
北 海 000 100 20X 3
倉敷工投手 永山→安藤
本塁打

【概要】
1962年8月10日~8月19日出場30チーム
北関東代表の作新学院が、史上初の春夏の連続優勝を成し遂げる。
春のエース八木沢荘六が、開会式当日に赤痢と診断され大会で登板出来ないというアクシデントを乗り越えての優勝だった。また、沖縄が南九州大会を制し甲子園入りし、自力での代表は、沖縄からは、初めてだった。

倉敷工(東中国岡山)8―5山形商(西奥羽山形)
倉工は、二塁打3本、三塁打3本と打線が爆発した。投げては安藤がヒット11本を許すも、要所を締めて完投勝利を飾る。

北海(南北海道)3―1倉敷工(東中国岡山)
強打の倉工が、北海エース松谷投手の前に、ヒット3本、三振7に抑えられる。

昨年の夏に続き、2年連続甲子園出場。そして、春夏合わせて9回めの甲子園。捕手の槌田(立教大―巨人)は、「中国地区No1の捕手に成長した。」と、小沢監督。
「甲子園常連校」の地位を得る。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 19 栄光の足跡 7

43回全国高校野球選手権大会(昭和36年夏)

報徳学園76倉敷工
倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7(延長12)
倉敷工投手 永山→森脇→永山
本塁打

11回裏。報徳学園は、内藤の内野安打で2者が帰えって1点差になる。 この後、同点に追いつき、12回のサヨナラ劇につなげた。

【概要】

1961811日~820日出場30チーム
地元、大阪の浪商と、準決勝で当たった法政二は、前年の優勝校であり、夏春夏の3連続Vを狙っていた。
しかも、浪商は過去2度とも法政二に屈していた。尾崎投手の浪商か。柴田投手の法政二か。大会屈指の好試合は、延長戦にもつれ込み、浪商が宿願を果たし法政二の野望を砕いた。
(
優勝は、浪商)

―参考―
浪商42法政二(準決勝)
浪 商 000 000 002 02 4
法政二 100 100 000 00 2(延長11)

1回戦の倉敷工―報徳学園。無得点のまま迎えた延長11回表。
倉敷工が、一挙6点。しかし、絶体絶命の報徳が粘り6点を返してしまう。そして、サヨナラ勝ち。奇跡の大逆転劇だった。

倉敷工 左腕エース森脇敏正。
34
年夏の甲子園、国体と大舞台を一年生で経験。全国屈指のエース。
「もしかしたら。」小沢監督の夢も膨らんだ。ところが、県予選の直前、バント練習で一塁手で、主将の松本芳男にタッチされた。
森脇が転倒。右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われた。エースの突然の負傷。「これで、甲子園もおしまいか。」全選手に重苦しい空気が伝わった。しかし、主将の松本は涙して訴えた。
「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦おう。」と。
こうして、炎の闘志と団結力で、ついに甲子園切符をつかむ。
しかし、その裏には大きなドラマがあったのだ。
奇跡的な逆転劇の陰にあった、両チームの温情。「高校野球」というステージだからこそ生まれた、ドラマであったと言える。
『詳しくは、当HP。昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。』

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 18 栄光の足跡 6

第41回全国高校野球選手権大会(昭和34年)

倉敷工 10―3 太田(1回戦)
倉敷工 013 110 202 10
太 田 000 010 000 1
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打 中村

東北 2―0 倉敷工
倉敷工 000 000 000 0
東 北 000 002 00X 2
倉敷工投手 杉本→森脇
本塁打

【概要】
1959年8月8日~8月18日出場29チーム
地方大会を編成替えした。北海道を南北に分け、長野、静岡、広島が単独で代表を送る事になった。また、6チーム増えて29代表となる。初出場は9チーム。
開会式に皇太子殿下(当時)を迎えた。大会後の選抜チームは、ハワイでの親善交流試合の後、初めて米本土でも試合をした。

倉敷工(東中国岡山) 10―1 太田(西中国島根)
倉敷工打線は三振10を喫すが、10安打10打点と打線が爆発。
犠打7個を決め、打っては二塁打、三塁打、本塁打の各1本と打線が繋がった。小沢監督の「緻密な小沢野球」が見える。

東北(東北宮城) 2―0 倉敷工(東中国岡山)
倉敷工打線は、東北2投手に対し3安打に抑えられる。
三振の数も11となる。

この対太田戦、東北戦の2試合において一年生左腕森脇敏正が、甲子園のマウンドに上がった。

(当HP.カテゴリーの中昭和36年のドラマ及び熱闘甲子園今昔物語を参照して下さい。)

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」はありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送はありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語17 栄光の足跡5

第31回選抜高校野球大会(昭和34年選抜3年連続出場)

東邦 10―3 倉敷工
倉敷工 020 001 000  3
東 邦 002 000 71X 10
倉敷工投手 中原→杉本
本塁打

【概要】
1959年(昭和34年)4月1日~4月10日
出場23チーム入場曲「皇太子のタンゴ」

倉敷工打線は、東邦山本投手に安打3本に抑えられる。また三振も12個を喫す。
一方、東邦打線は11安打二塁打3本。
七回は、集中打で7点。東邦は、春に強いという印象を植え付けた。
『東邦(愛知)は、選抜5回の優勝を誇る。』

どんな投手でも打ち込める打撃チームを理想とし、社会人やプロでも通用する技術を自ら実践して教え込んでいく小沢監督にとって、屈辱的な敗戦だったであろう。

つづく
随時掲載

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参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
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第102回全国高等学校ラグビーフットボール大会岡山県予選会準決勝

令和4年11月13日(日)、雨の中、美作ラグビーサッカー場で花園出場を目指し、「第102回全国高等学校ラグビーフットボール大会岡山県予選会」の準決勝が行われました。
倉敷工 対 倉敷。12時キックオフ。

なかなか得点に結びつかず76対3で敗れましたが、果敢に攻め、倉工応援席から大きな歓声が沸く場面も多く、高校生らしいとても良い試合でした。
選手の皆さんお疲れさまでした。

ハーフタイム

後半戦の開始

 

新米を寄贈しました

「今年は春の選抜甲子園に行き、夏は軟式野球部が全国大会でベスト4と大活躍でとてもうれしい1年でした。特に、軟式野球部は絶対決勝に行くと信じて、決勝までの切符を買っていたんです。」
この様に語るのは、おいまつ会企画委員の守屋文明さん(昭和46年3月卒、E科)。

守屋さんは、自宅で採れた新米60キロを、11月9日軟式野球部と硬式野球部にそれぞれ30キロを寄贈されました。寄贈にあたり、おいまつ会日下誠会長、生田岩雄副会長、三宅香副会長も同伴しました。

両チームから、とても喜んでいただき感激した次第です。
日下会長、守屋委員は、「この新米を食べて、来年も是非、全国大会に出場してください。」と両チームを激励しました。松岡監督、高田監督からは「頑張ります。」とのお言葉をいただきました。

がんばれ倉工 目指せ 全国のてっぺんを
軟式野球部・硬式野球部

正面玄関の、懸垂幕です。 やっとるな。頑張っとるなあ。

おいまつ会館前で、打ち合わせ中です。

軟式野球部は、国体にも出場しました。

おいまつ会より、新米を贈呈。 「来年も、必ず全国大会に行きます。 ありがとう、ございます。」

新米を囲んで、記念撮影をしました。

重さ30キロを、軽々と。 硬式野球部、3塁コーチャー 兼 内野手、土倉隼人選手。渋い打撃も 魅力です。

左から、硬式野球部高田康隆監督。 中央、おいまつ会日下誠会長。 右側、新米を寄贈した守屋文明企画委員。

 

熱闘甲子園 今昔物語 16 栄光の足跡 4

第30回選抜高校野球大会(昭和33年選抜2年連続出場)

立命館3―2倉敷工(2回戦)
立命館 100 000 200 3
倉敷工 100 100 000 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打

【概要】

出場23チーム入場曲「クワイ河マーチ」
昭和33年。ここから、岡山県高校野球黄金時代が幕を開ける。
白壁の街に、白球に夢を追い求める男。倉敷工業監督小沢馨。
漆黒の岡山城が見下ろす街に、この男を倒すために、一途な情熱を燃やす男。
岡山東商業監督向井正剛。
岡山県高校球界を語る上で、この二人を抜きには語れない。
二人の監督が、重複した昭和33年から48年までの県勢の甲子園出場校を見ると35年と44年以外は、必ずどちらかが出場を果たしている。それも交互のように。まさに、竜虎の戦い。また小沢と向井の二人の好勝負は、全国的にも知られるようになる。そして岡山高校野球が、最も光彩を放つ時代を演出して行くことにもなっていく。

倉敷工は、2回戦から登場。
倉敷工エース渡辺は、立命館打線から9個の三振を奪う好投。
また、倉敷工打線は5個の犠打を決め、ランナーを前に進める。
しかし、チャンスに打てず残塁9。惜しい渡辺の力投となった。

倉敷工 小沢馨監督

岡山東商 向井正剛監督

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。
現在、夢フィールドは放送ありません。

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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会

熱闘甲子園 今昔物語 15 栄光の足跡 3

第29回選抜高校野球大会(昭和32年選抜初出場)

倉敷工 2―1 市立沼津(1回戦)
市立沼津000 000 001 1
倉敷工 020 000 00X 2
倉敷工投手 渡辺
本塁打

倉敷工 2―0 育英(2回戦)
倉敷工 000 010 010 2
育 英 000 000 000 0
倉敷工投手 小野
本塁打

倉敷工 4―0 高松商(準々決勝)
倉敷工 000 100 300 4
高松商 000 000 000 0
倉敷工投手 渡辺
本塁打

高知商 3―1 倉敷工(準決勝)
高知商 210 000 000 3
倉敷工 100 000 000 1
倉敷工投手 小野-渡辺
本塁打

【概要】
出場20チーム。入場曲は「緑のこだま」
「ひたすらに、フェアプレーで戦った。」昭和24年、甲子園ベスト4進出を決めた直後の倉敷工主将で、エース小沢馨の談話である。

この精神は、以後倉工野球の礎となった。小沢の選手時代の監督は三宅宅三(玉島商―明治大)。その三宅から倉工監督に就任した小沢は20歳だった。それから、監督6年めで、甲子園初出場を成し遂げる。小沢が賞賛に包まれている時、一人の大学生が卒業を控え、郷里の岡山へ帰る準備に追われている大物がいた。その大物の名は、『向井正剛』という。

この年の、主力選手は「室山」。
法政大に進学。東京六大学4度の優勝に貢献。首位打者も獲得した。
阪神タイガースに入団、七番打者として活躍。アキレス腱を切断し引退。フロント入りした。

つづく
随時掲載

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当HP。カテゴリーの中、「風雲の軌跡」の三部作を参照して下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、灼熱の記憶は、ありません。

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和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会