昭和36年のドラマ10 (最終回)

土倉、永山、森脇の三人に質問をした。

Q もう一度、生まれ変わっても倉工で、野球をやりますか?

土倉 「小沢監督には、叱られてばっかりで、褒めてもらった事なんか一度もないんですけどね。それでも、小沢監督とあの時と同じメンバーでやりたいです。」

永山 「とにかく、走りますね。」

森脇 「今度は、きちっと予定を立てて、アクシデントのない様にしたいですね。小沢監督と、あの時と同じメンバーでやりたいです。」

インタビューを終えた三人は、談笑をしながら倉敷市営球場を後にした。

あの夏、倉工ナインは10代の少年には、あまりにも過酷な運命にさらされました。しかし、何も悲惨な記憶でもないのです。何物にも代えられない友情の証として誇らしい甲子園の戦いの想い出として、今も彼らの胸を熱くするのです。

あの夏の勝利の女神に見放された少年たちは、勝利以上に貴い心の糧を手に入れたのです。

おわり

がんばれ  倉工 羽ばたけ 紺碧の大空へ 倉工野球部

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考  瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ9

新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。
森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。
宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。小沢も正座をして手をついた。
「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。
一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。
この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。
全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

参 考 山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」

協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

 

祝 第87回都市対抗野球大会出場

真夏の祭典。第87回都市対抗野球大会が、7月15日から東京ドームで開催されます。
都市対抗は、社会人野球の最高峰の大会であり、各地区予選を勝ち抜いた32チームが「黒獅子旗」を目指し熱戦が展開されます。この都市対抗に4人のおいまつ会会員が出場しますので紹介します。

  陶山 大介 投手    ( 倉敷市福山市  JFE西日本 )

  三木 太知 内野手   ( 倉敷市福山市  JFE西日本 )

  渡部 和博 外野手   ( 鹿島市      新日鉄住金鹿島 )

  井上 直也 内野手   ( 広島市      JR西日本 )

また、都市対抗と言えば、応援合戦です。特設ステージ上で、男子リーダーと女子チアーリーダーが行うパフォーマンスは、大観衆の目が、くぎづけとなります。
昭和24年、倉工が甲子園初出場した時の捕手で、甲子園で3本のホームランを打った藤沢 新六さんは、岡鉄局の4番打者として活躍。チームをベスト4にまで導きました。
「当時は、まだ昭和20年代でしたが、それでも応援合戦だけは、ものすごかったですね。」
と、感慨深く語ってくれました。
また、郷土芸能 (過去では、水島源平太鼓や茶屋町鬼太鼓)も披露されるだけに、郷土色が豊かな都市対抗でもあります。

がんばれ 倉工
先輩につづけ 倉工球児

 

******* 第87回都市対抗野球大会応援メッセージ *******

岡山県立岡山工業高等学校
中 山 隆 幸
JFE西日本スチール株式会社
陶山大介君 三木大知君 
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。さらに5年連続出場という事で、全国の常連チームの仲間入りだと思っております。
教え子として、大変誇りに思っていますし、益々の活躍を願ってやみません。
さて、陶山君に関して、今更言うまでもなく、主戦投手として長年活躍してくれております。JFE西日本スチール入社13年目ではありますが、未だ一線級で公式戦はもとより、大事な場面での起用に応えて期待通りの役割をはたしてほしいものです。
次に三木君ですが、最近やっと試合に起用されるようになり、チームに貢献できる所まできました。さらなる成長と必ずチームに貢献できる、期待に応える選手になってもらいたいと切に願っております。

JR西日本株式会社
井上直也君
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。社会人野球に復活してからの躍進は目を見張るものがあります。チームとして期待しておりますし、教え子としても、大変誇りに思っています。今後共、益々の活躍を願ってやみません。
さて、井上君に関して、俊足・好守をかわれて入社4年目になります。やっと昨年より少しずつ試合に出場する機会を与えられ、課題だった打撃や肩の強さも向上し、成長の跡が見られるようになりました。少しでもチームの貢献に絡んでもらいたい。そして、必ずチームにとってなくてはならない存在になってもらいたいです。

新日本製鐵住友金属工業株式会社鹿島製作所
渡部和博君
この度の全国大会ご出場 誠におめでとうございます。全国の常連チームとして、また教え子として、大変誇りに思っていますし、さらなる活躍を願ってやみません。
さて、渡部君に関して、JFE西日本スチールの陶山君と同級生で同チームの主力であり、打線では常に4番を努めていました。ベテランの域に達しておりますが、まだまだ情熱は衰えず、元々内野手でありましたが、一時期外野手に転向したり、オールラウンドプレイヤーとして、活躍しながら、他のチームの補強選手に選出されたり、幅広く活躍してくれております。この度も必ず活躍してくれると信じております。
私にとって、3チームから4名もの選手が都市対抗野球に出場してくれて、大変光栄に思っております。ぜひ1チームでも多く勝ち残り、決勝で対決してくれたらこれ程幸せはないと感じております。

どのチームもどの子も全力でやり遂げて下さい。期待しております。

 

昭和36年のドラマ8

延長11回表、倉工は一死満塁から松本の左越え二塁打や、白川のスクイズ等で一挙6点を上げた。日本中の誰もが、「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。土倉は、「私の方から監督さんに言ってませんが、あと一回でいいんで、森脇を投げさせてほしい。と思っていました。」と。
延長11回裏、報徳沢井監督は、先頭打者の4番奥野に代えて、試合に出た事のない平塚を代打に送った。その平塚は、ボテボテの内野安打で出塁。一死後、6番藤田が死球で一塁二塁。
7番清井は、浅いライト前ヒットだったが、平塚が迷わず本塁に突入。本塁上のクロスプレーは大きくうまく回り込んで、きわどく生還。6 対 1。続く吉村のファーストゴロの間に2点め。
6 対 2。 倉工4点リード。 ランナー3塁。 しかし二死。
小沢は思った。「今まで、頑張って来たのは、全ては森脇のためなんだ。ここで使おう。」と。
こうして、エース森脇がマウンドへ。松本らナインの悲願は達成できたのだった。一方、永山は三塁へ回った。永山は「やれやれ、これで自分の役目は終わった。」と、思ったのだった。
エース森脇、2ストライク1ボールと追い込んだ。そして、渾身のストレートを投げ込んだ。
すると、主審の右手が上がりかけた。上がりかけた。土倉は、「ライトから見ていると、ストライクか、ボールかがわかるので、その一球でベンチに帰りかけていました。」と。ところが、主審の右手が下がった。「ボ ボール」 結局、この一球が、倉工にとって運命の一球になったのだった。
この運命の一球について、永山は「審判は、自信を持って、ジャッジコールをしていると思いますが捕手の槌田は (あの一球は、絶対にストライク) と、何年も何年も言い続けていました。」
森脇は、その7番高橋に四球。8番の貴田に、レフト前にタイムリーで3点め。森脇にとってやっと、投球練習が出来るようにはなっていたが、甲子園でのマウンドは、明らかに酷だったのだ。
ここで、倉工ベンチは、森脇をベンチに帰し、永山に再登板を命じたが、レフト前ヒットで満塁に。
続く、内藤は、センター前ヒットで、二人のランナーが帰り、1点差となった。打順は一巡。
平塚は、センター前へヒット。二塁走者の東は本塁に突入できず、三塁で止まるが、センターからの返球を、捕手の槌田が後逸。それを見た、東が帰って 6 対 6 の同点となった。
報徳の勢いを、倉工は誰も止められない。12回裏、報徳は、藤田がレフトへ2塁打。
清井のサードゴロの間に、三進。ここで、倉工ベンチは、2人の打者に敬遠を指示し満塁策を取った。続く、貴田は、ライトへ。わずかに土倉のグローブをかすめた。 6 対 7 の信じられない試合の結果となった。こうして、倉敷工業 対 報徳学園 の死闘は終止符を打ったのだった。この死闘から、報徳学園は「逆転の報徳」の異名をとるようになる。
やはり、甲子園には魔物が潜んでいるのだろうか。
また、この試合は 「奇跡の大逆転」 として後世に受け継がれる事になって行くのであった。
新聞には、「倉工、継投に誤算」「報徳、ねばり勝つ」「大量の、先取点むなし」「選手に謝る、小沢監督」と出た。宿舎に帰った小沢。ふすまを開けると、思わず息を飲んだ。
つづく 随時掲載 

お願い
本文に、迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
報徳学園HP 「
奇跡の大逆転」
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン「高校野球 不滅の名勝負 3
協力
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

部活動訪問 陸上競技部

おいまつ会による、部活動激励訪問を実施しています。
今回は、5月21日(土)倉敷運動公園陸上競技場を、ホームグランドにして練習をしている陸上競技部を訪問させて頂きました。部員数は、40人。(うち女子部員2人、女子マネージャー3人)
陸上競技部は、県外チームと合同練習を積み重ねると共に、県外のあらゆる大会に出場して腕を磨いています。その結果、毎年国体やインターハイに出場し、好成績を上げている強豪チームです。
また、強いだけでなくボランティア活動にも参加し、地元の方々からも愛されているチームでもあるのです。
訪問団が、陸上競技場に入ると、長谷川昌弘監督以下、全選手が出迎えてくれました。
「おはようございます」明るく元気のある挨拶は気持ちのいいものです。早速、おいまつ会を代表して生田岩雄副会長が激励の挨拶を行いました。その後、スタンドから練習を見させて頂きました。
「ももの、上がりが普通の人とは違うなあ」。「全身のバネがすごいなあ」。次から次へと、感想が出ます。
こうした中、スタンドの最前列で熱い視線を送るOBがいました。その方は、陸上競技部OB会事務局長の、三好修一さん(43年3月卒)。三好さんは、岡山県大会や中国大会など、欠かさずチームに帯同して声援を送る熱いOBでもあります。「全ての種目で、全員が自己ベストを更新してほしい」と、熱いエール。
また、陸上競技部OB会は、応援用の横断幕を寄贈。力の入れ方が伝わって来ます。
副主将の、日浦幹太君(M3B)は、「チームはいい雰囲気です。目標は、岡山県総合優勝です。
そして、800メートルで優勝をして、表彰台の一番高い所に上がる事です。」と、力強く語ってくれました。
玉野光南時代、全国制覇という実績を持ち、高校陸上界では、第一人者の呼び声が高い長谷川昌弘監督。その長谷川昌弘監督の指導と、熱いOBから応援を受けている選手諸君は幸福者だなあと、感じた次第です。どうか、これからも長谷川昌弘監督の言う事をしっかり聞いてまた、信じて頑張って下さい。おいまつ会も、応援しています。

がんばれ 倉工
走れゴールへ 倉工陸上競技部

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昭和36年のドラマ7

1961年夏、第43回大会、大会3日目第3試合。
倉敷工業 対 報徳学園の試合は、両チームともに壮絶な戦いになって行くのである。
それでも、松本は「森脇を、森脇をおねがいします。」と指揮官小沢に必死に懇願するのであった。
すると、指揮官は「では、打って来い。森脇が投げられる状況を、お前が作って来い。」と。
こうして試合は、0 対 0のまま延長戦に突入。ここで、3塁側倉工アルプス席を見てみよう。

学生服を着て、鉢巻きをして両足を大きく横に開き、膝を90度に曲げて、握りこぶしを作り、左右交互に突き出している男子リーダー。女子生徒は、リズムに合わせて手拍子をして応援をしている。

こうして迎えた延長11回表倉工の攻撃。一死から2番中村が四球で出塁する。3番槌田の当たりは平凡なショートゴロ。当然Wプレーのケースだったが、二塁に投げた球がそれて、ライト方面に転がった。
それを見た中村は、一気に三塁に行き、一死一塁三塁。ここで、3安打をしている鎌田が打席に入る。
報徳学園沢井監督は、敬遠を指示し、一死満塁策を取った。ここで、5番松本が打席に入る。
松本は、第一球をフルスイング。その瞬間甲子園がどっと沸いた。打球は低いライナーでレフトの頭上を越えて、外野フェンス直撃の二塁打となり、中村と槌田が生還。倉工2点の先取点を上げる。ここで小沢にとって、今でも脳裏に焼き付いて離れられないシーンが展開されるのである。「二塁打を打った松本が、なんと二塁ベースの上に正座をして、両手を合わせて (監督さ~ん) と呼びかけた松本の姿に私は、心が震えました。」と。このシーンを、外野手の三宅は、ベンチから見ていて、鮮明に覚えていた。
「松本が、こうやって、こうして座って、(ワシが打ったんだから、文句はなかろうが)と言わんばかりのような感じだった。そして頼むから森脇に代えてくれ。と言うような松本の姿でした。」と言う。
その後、ショートゴロをバックホームした球が高くなり、フィリダースチョイスとなり3点目が入る。ここで左打席の白川が、スクイズを決めて4点目。さらに、永山が三遊間タイムリーで5点目。倉工の勢いはさらに続き、Wスチールまで決めて、6点目が入ったのである。この延長11回表、倉工は一挙に6点。日本中の誰もが「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。森脇は、ベンチの横で岡田とキャッチボールをしている。この試合を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく
随時掲載

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン社「高校野球 不滅の高校野球3」
協 力 岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会

春の県高校野球大会 観戦記

春の、県高校野球大会が23日からマスカット球場等、3会場でありました。
東部、西部、北部の各地区予選を勝ち抜いた16校と、昨秋の8強の24校がトーナメントで対戦しました。この結果、倉工は昨秋に続き、準優勝でした。
初戦は難敵理大附。先発は背番号11の右横手投げ、内山がしり上がりに調子を上げ完投。
荒尾の場外満塁ホームラン等で、6対2の快勝。準々決勝は、昨年夏の甲子園出場の学芸館。
4点差を、7回に5対5の同点に追いつかれるものも、8回9回に地力を発揮して、9対5で勝利。
準決勝は、これも難敵関西。先発の内山が6個の四球を出すものも、8回を5安打1失点にまとめ8対1の8回コールド勝ち。
決勝は、最近力を付けてきた、おかやま山陽。難波、内山、大月の3投手をつぎ込むが、守備が乱れて2対6で敗れてしまいました。
大会前、5人いる女子マネージャーの一人、田中舞央マネ(F科2年)は、「春の県大会で優勝して夏の大会で甲子園に行ってほしいです。負けは考えていません。勝つ事だけを考えています。」と。
また、3年生の選手の父母会が、この度応援用の太鼓を寄贈。その新しい太鼓を用いての応援でもありました。
毎回、試合の前と終わった後も、ミーティングをしている、父母会。力の入れ用が伝わって来ます。「倉工父母会として、節度ある応援をしよう。声援をグランドに送ろう。」と原田訓志会長。また、倉工在学時、硬式テニス部に所属し、岡山県、中国地区を代表して全日本選抜大会に出場経験を持つ、父母会内山秀樹さん(平成元年卒A科)は、「ひたすら一歩一歩勝って行くだけです。」と。こうした中、スタンドの最前列でスコアーブックを手に応援を送る少女がいました。名前は、森本 鮎さん。(中3)小学校の時から倉工のユニホームを着て応援を続けてくれています。また、ご家族の皆様も大の倉工ファンでもあります。「一生懸命頑張っているところが好きです。そして、選手が声を掛けてくれるし、優しいお兄ちゃんみたい。絶対に甲子園に行ってほしいです。」とエールを送っていました。志望高校は、もちろん倉工。そして野球部マネージャーを目指している 森本 鮎さんです。

がんばれ 倉工
夏に光れ 倉工野球部

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昭和36年のドラマ6

第43回全国高校野球選手権大会 甲子園球場

組み合わせが決まった。昭和36年8月13日 大会3日目 第3試合。

相手は創部30周年という記念すべき年に、甲子園初出場を果たした、兵庫代表 報徳学園。

この時だ。ナイン待望の朗報が飛び込んできた。エース森脇が投球練習が可能となったのだ。

ナインは大喜び。意気と力の 溢るるところ、となって闘志の塊となって行く。

舞台は整った。役者も整いつつある。

8月13日 甲子園球場。この日何故か、第一試合、第二試合とも延長サヨナラゲームがあった。

この日甲子園球場は超満員。空席は見当たらない。一塁側に報徳学園、三塁側倉敷工業。

三塁側アルプス席を見てみよう。「ファイト 倉工」の横断幕が風にたなびいている。

男子応援リーダーがお揃いのユニホームで腕を振って鼓舞している。

倉工生は、帽子を右手に取り、右上から左下に右上から左下へと振っている。

まるで、神宮球場の早慶戦のようだ。こうして試合は始まった。

先発は倉敷工 永山 報徳学園は左腕の酒井。試合は緊迫した投手戦となった。

スコアーボードには0が並ぶ。ベンチに戻って来るたび、松本は小沢に「森脇を森脇をお願いします」と懇願。

しかし小沢は心を鬼にして「駄目だ ならん」と。そして、9回表倉工の攻撃。二死でランナーなし。

打席には4番鎌田。鎌田がレフト前ヒットで二死ランナー一塁。ここで鎌田が、ヘッドスライディングの盗塁を決める。

つづく打席には5番松本。松本がレフト前ヒット。鎌田、三塁ベースを蹴ってホームへヘッドスライディングで突入。

しかし、報徳レフト大野の好返球でタッチアウト。甲子園の土を握って悔しがる鎌田。

9回裏報徳の攻撃。二死ランナー三塁でサヨナラ機を迎える。打席にはこの日2安打の内藤。

この内藤を、永山は投手ゴロに打ち取る。永山はここに来て、やや疲れが見え隠れしていたが9回までに、報徳打線を散発4安打に押さえていた。

それでも松本は「森脇を、森脇をお願いします。」すると、小沢は「では打って来い。森脇が投げられる状況を作って来い」と。こうして試合は延長戦に突入した。

この試合の模様を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく    随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考   瀬戸内海放送          番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送        番組「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社           「灼熱の記憶」

ベースボールマガジン社     「高校野球不滅の名勝負 3」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

倉工出身 阪神タイガース守屋功輝投手 一軍初登板

阪神タイガースからドラフト4位指名を受けて、入団2年目の、守屋功輝投手が高校野球の聖地、甲子園球場で、4月20日一軍デビューを果たしました。
また、先発と言う大役を任されての登板でした。
しかし、結果は残念ながら負け投手になってしまいました。
恐らく甲子園での初先発と言う事で、幾らかの緊張もあったのではないかと思われます。
本人にとっては、ほろ苦いでデビューでした。
中学時代は、全くの無名投手。「田舎の方の中学校で、部員数も少なくやっと試合が出来る程度だったとの事。また、投手として一塁ベースカバーも知らない子でした。」と、語るのは育ての親、倉工 中山隆幸前監督。(今春より、岡山工)そんな段階からスタートした守屋投手。
今、阪神タイガースで投げている姿は恐らく、部長、監督として9試合甲子園で戦った、中山隆幸監督でも、想像を遥かに超えているのではないかと思います。今後は、球威は十分あるので、もっと細かいコントロールを身につけて頑張って欲しいですね。これからが本当の勝負です。おいまつ会も暖かい目で応援して行きましょう。

頑張れ 守屋功輝投手    タイガースの星になれ 功輝

【守屋功輝投手 先発登板でのコメント】

守屋功輝君、阪神タイガースでの初先発初登板、(甲子園)誠におめでとう!
私はこの日を心待ちにしていました。本当に嬉しいです。倉工野球部投手出身でプロ野球で一軍にて、先発した投手は、あるOBの方から聞いた事ですが、安原さん以来ではないかとの事です。本当に快挙だと思います。
ただ、プロの世界は大変厳しくほろ苦いデビューになりましたが、内容は決して悪くなく、球威自体もあったように見えましたし、変化球も切れていたようにも見えました。またすぐに一軍で投げられないかも知れませんが、次の登板では、この経験を生かし、修正すべき点を克服して、ぜひ次の機会は素晴らしいピッチングを見せて下さい。大いに期待しています。

元岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部監督 中山隆幸(現岡山工業高校勤務)

【倉工時代、バッテリーを組んでいた捕手實盛君からのコメント】

この度、守屋功輝君が、プロ野球の世界で一軍初登板を果たし、とても嬉しく思います。
高校の時には、行くことができなかった甲子園の地に立つ姿はとてもたくましく、我々の代表として誇らしく思います。
この経験を糧に、さらなる飛躍を期待します。

昭和36年のドラマ5

「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。
実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。
それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商
倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。
7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。その時だ。小沢からサインが出た。
「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。その秘策とは、Wスチールだったのである。
小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。
「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。
誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。
新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送     番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送   番組「旋風よふたたび」

山陽新聞社         「灼熱の記憶」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会